死にかけの猫が窓の外にいた。
 春だというのに吹き荒ぶ風が冷たい、重たい曇り空の日だった。台所の小窓の下に、ソレは座り込んでいた。思わず息を呑むほどに醜い顔をしている。否、元は可愛らしかったのだろう。でも、もう毛繕いをして、身体を清潔に保つことさえできなくなったらしい。ベタついたような塊が身体のいたるところにこびりついて、ひどく醜くなっていた。
 ボロ雑巾のような、だとか、毛玉のような、だとか。そういう表現が、ある。本当にそういった風貌をしていた。
 だけど、それでも、ソレはやっぱりどこまでいってもボロボロになったケモノなのだった。肩で息をしている。目脂と膿とがこびり付いた顔。汚らしく束になった毛並み。量だけは豊かな長毛の下は、よく見ればガリガリに痩せて骨が浮いていた。燃やす灯火さえ儚く、今に費えてしまいそうな命。

 《それでもなお》、あるいは、《だからこそ》、生きているモノの気配を色濃く発して、ソレはそこに座り込んでいた。

 今に死ぬのだ、居つくも癖になるもないだろうと、冷蔵庫にあった竹輪を取り出した。千切って投げつけてやろうと窓を開けると、ソレはニャアと鳴いた。存外愛らしい鳴き声だった。
「…………窓が開いただけで、うれしいの」
 私の声に、ニャア、とまたソレが鳴く。そして窓の下をくるくると回る。地面に落とした竹輪に、ソレは見向きもしなかった。くるくると回り、ニャア、と鳴くことを繰り返して、またその場に腰を落ち着けた。

「食べなさいって、餌、それともまさか鼻も利かないの」ニャア。「ニャアじゃなくて……」

 もう一度、座っているソレに見えるようにして竹輪を落とす。落ちる竹輪を見届けると、ソレはまた私を見た。見かねて、私は窓から乗り出す。左手で身体を支えながら、落とした竹輪を指で指し示す。ソレは私の指先をクンクンと嗅いで、頬を擦り寄せた。固まってガビガビになった毛が私の指に擦り付けられる。ニャア。

 身動きひとつ、できなかった。固まる私の指に、ソレ――猫、は、何度も顔を擦り付けた。頬を擦り付けては、ニャア、と鳴いて、また擦り付ける。

「なに、」
ニャア。
「あんた、まさか人恋しいっていうの」
ニャア。
 一つひとつの私の言葉に律儀に返事をして、猫が次は額を擦り付ける。小さな額は頬よりかはまだ毛並みらしい質感を残していた。

 どれくらい、そうしていただろうか。
 動かない身体の代わりのように口を動かし続ける私の指に、猫は頬やら額やらを私の指に擦り付け続けた。私の言葉に、いちいち返事をしながら。

 永遠に続くかと思われたその時間を終わらせたのは、猫の方だった。

「ニャア、ォ」

 私の指から離れて猫がひとつその場を回る。そして、座る。それが合図だった。

 金縛りから解かれたようだった。私はたちまち身体を戻し、音を立てて窓を閉めた。外を見ないようにしながら踵を返す。窓から去る私を猫は見ていたのだろう。ニャア、と、聞こえないはずの声が聞こえた気がした。早足で洗面所に入り、蛇口を開く。手を洗いたかった。電気は付けなかった。鏡に映る自分を見たくなかった。勢いのまま捻った蛇口の水はひどく冷たくて、けれど、私はその水に手を打たせ続けた。

 指を打つ水の勢いに、固まる毛の感触が掻き消されるまで。蛇口から吹き出る水の音が、あの鳴き声を掻き消すまで。自分の喉から漏れる声が聞こえなくなるまで、ずっと。

 長い時間をかけて手を洗い終えて、窓に戻ったとき、どこに行ったのか、もうソレはそこにいなかった。千切った竹輪は跡形もなく消え去っていた。でも、それは鴉の仕業だろう。もう、わかっていた。

 その晩、雨が降った。そのまま二日降り続けた雨は、モノになった獣を洗ってやれただろうか。

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