一年前のちょうど今頃、前期の期末テストの少し前、珍しく河内が教科書を忘れて、隣のクラスだった尾浦に借りにきたときのことだ。
「あーごめん、俺も持ってない」
「尾浦も今日授業のはずだろ」
「や、コーチだって忘れてんじゃん」
わざわざ借りに来る河内と、今気がついたと同時に隣の生徒に見せてもらうことを決めた尾浦ではわけも違うのだが。尾浦の詭弁じみた反論に、河内がなんと返したのかはもう覚えていない。
ただとにかくそういうことがあって、授業開始三分前に事態は膠着。そこにたまたま現れたのが山尾幸だった。
「私、持ってるよ。良かったら使う?」
当時から親切と人の良さを地でいく山尾がたしかそんなようなことを言って、「……」河内は石になった。
まさか河内には山尾が救いの女神にでも見えたのだろうか。今になって尾浦はそんな馬鹿なことを考えることがある。そうでもなきゃ説明がつかないような、なんてことのない会話だった。少なくとも尾浦にとって、そしておそらく山尾にとっても。
しかし、その日の河内にとってだけは違ったらしい。
「コーチ?」
「…………たすかる」
ぎこちなく礼を言って教科書を受け取る河内を、山尾が不思議そうに見ていた。傍目八目とはよく言ったもので、尾浦はすぐに何が起きたか理解した。
尾浦が目にしたのは、友人である河内の決定的瞬間だった。つまり、一目惚れ。
友人の想い人、しかも堅物な友人の一目惚れとなれば自然と気にかかるもので、尾浦は一年生の残り期間、クラスメイトの一人に過ぎなかった山尾をなんとなく目で追って過ごすことになった。
人の良さと押しの弱さは第一印象と変わらずだが、親しい相手には意外とはっきり物を言うだとか、意外とキビキビ動けるタイプであるだとか、その辺りはこのころに気づいたことだ。
何が言いたいかというとつまり、尾浦にとって、山尾幸は初めから友人の想い人なのだ。だから横恋慕なんてするつもりもなければ、そもそも尾浦と山尾の間には何もない。
少なくとも、恋心は。
そう付け足さざるを得ないのは、あの放課後があるからだ。
間違ったことをしたとは思っていない。倫理的にはともかくとして、少なくとも結果としては良かったとさえ思っている。ただ、河内への罪悪感があるのは事実で、あの日の『秘密』は山尾にとって同様、尾浦にとっても隠しておきたい出来事だったりする。
「尾浦くん、今日の日直、黒板お願いしてもいい?」
「いいよ、山尾だと届かなくて困るもんな」
「さすがに届くよ……?」
「いいよ、見栄張らなくて」
「届きますー! 」
「いいからいいから」
そして今、その秘密が二人を打ち解けさせ、親密に見せている。周囲が勘繰るのも無理もない。尾浦と山尾にとって自明の原因が、他の者には見えていないのだから。
山尾の声に釣られるように河内がこちらを見るのがわかった。その視線に非難の色はない。先日の一件で、津島と河内からの疑いは一応晴らせたらしい。だから今見られているのは、単に山尾を追う河内の視界に尾浦が入っているというだけの話で、尾浦を見ているわけではけしてない。
わかっていて居心地が悪いのは、尾浦の中に罪悪感があるからで、罪悪感があるのは、尾浦にとって特別にならないキスのせいではない。
「山尾、」
「うん?」
「笑って」
「え」
「はい、さーん、」
『これ』は庇護欲だ、と尾浦は思う。あの放課後、尾浦を突き動かしたのは使命感だった。自分がなんとかしなければ、という思い。「にーい、」あの日、尾浦ははじめて誰かのために必死になったから。「いーち、」
「ぜろー。山尾ノリ悪い」
「無理だよ……」
「なんでさ、笑ってよ」
山尾には笑っててほしいな、と思う。
なんとかしなければ、と思ったあの日の尾浦の望みは、たぶんそういうことだ。山尾が怖いことなんて何もなかったみたいに笑って、いつか誰かと付き合ってくれたら、あの日の尾浦がしたことの意味があると思う。
「おれ、山尾の笑った顔すきだよ」
あの日と同じく、山尾は真意を問い質すことをしなかった。
「あ、ありがとう……?」
「うん」
はじめてもキスも特別じゃないけど、あの日笑ってくれた山尾の笑顔は特別だと思った、から。
要らぬ気を揉ませることになる友人たちに申し訳ないけど、恋じゃないから許してほしい。