幼馴染と初めて会ったときのことはよく覚えていない。
 というよりむしろ、俺の幼少期の記憶に幼馴染との記憶はほとんどない。
 転入先の幼稚園で幼馴染を見ることはなかったし、(後から知ることだが、幼馴染は当時、幼稚園や保育園というものには通っていなかったらしい。) たまにあった幼馴染との対面でも、当時の俺の注意はもっぱら別のものに向けられていたからだ。


 母親の後ろに隠れた幼い子供。その子供を抱きしめながら、スカートが汚れるのも厭わず俺の目線に合わせてしゃがみこんで笑ってみせた母親の瞳。
 その融けるような蜂蜜色は、幼い俺の知る『この世でいちばんきれいなもの』だった。

「碧ちゃんです。よろしくね、千種くん」

 その蜂蜜色が俺を写すのは一瞬で、毎回飽きもせずそういった後、その視線は必ず俯く彼女の娘、幼馴染に向けられた。
 俯いていた幼馴染が、おそるおそる俺を見て、すぐに目を逸らす。その一連の動作さえ気にならないくらい、いつも。俺は俺を見ない蜂蜜色の瞳ばかりを見つめていた。


 小学校に上がっても、幼馴染との距離は一向に縮まらなかった。それどころか、どちらかというと入学前の方が話す機会は多かったように思う。
 同年代慣れしていなかった幼馴染は意外や意外、学校ではそこそこうまくやっていて、かえって唯一の顔見知りである俺と関わる必要がなかったのだ。
 家の近くで会う、俺と満足に目も合わせない彼女が嘘のように、笑いさえする幼馴染。彼女の人見知りという障壁が取り去られてなお親しくはならなかったのは、俺が学校外での彼女を知っていたことが幼馴染にとってやりづらくもあった、というのが半分で、あとは単にそれが性別の違いだったのだろう。

 幼馴染と呼ぶには希薄な関わりしかなかった彼女をそれでも気にかけていたのは、ひとえに彼女の母親との会話があったからだった。

 そのころ幼馴染当人よりも、彼女の母親と話す機会の方がよほど多かった俺は、よく幼馴染の話もその人から聞いていた。

 下校途中の道で人懐っこく声を掛けてくるその人の呼び声に毎度素直に応じていたのは、言ってしまえば下心、その瞳目当てだった。
 幼馴染不在の会話の席では、その瞳は惜しげもなく俺に向けられたから。
 小学校に上がっても、高学年になって彼女の背を優に越しても、俺の『この世でいちばんきれいなもの』は変わっていなかった。
 それを口に出すことは結局一度もなかったけど。


 一人ではほとんど出歩かない。せいぜい娘と手を繋いで散歩に出るくらい。狭い世界に生きる彼女の話の内容は、ほぼ家族のことばかりだった。
 『ミモトさん』、『みどりさん』の話もよく聞いたけど、もっぱら話の割合の多くを占めるのは『碧ちゃん』で、母親らしいところが皆無だった彼女の"母親らしさ"をいちばん知っていたのは俺だったのではないかと、今でも思う。
 話の内容はというと、『お風呂上がりにいつも髪を乾かしてくれる碧ちゃんの話』だとか『うっかり赤信号を渡り掛けるのをあわやのところで引き止めてくれた碧ちゃんの話』だとかまったく母娘らしさのないものばかりだったのだけれど。
 母親らしさのない母と、その世話を焼く幼い娘。それが幼馴染の家の『普通』で、それを聞く俺にとっての妥当だった。それくらい、生活力というものに欠けた人だったのだ。幼馴染の母親という人は。

「なんていうか、碧ちゃん頼り、ですね」
 いつだかそんな感想を言った俺に、その人はなぜか誇らしげ、自信たっぷりに頷いてみせた。「そう、そうなの!」

「碧ちゃんと、それからミモトさん。二人が居なくちゃ生きてけないわ」


 とにかく。そう多くはない、ただけして少なくはない頻度のその会話がいつも「だから千種くん、碧ちゃんをよろしくね」で締められたから、俺は没交渉の幼馴染を気にかけ続けていたのだ。一途だった。馬鹿みたいだけど、俺は本当にあの瞳に惚れ込んでいたのだ。始まりもわからないくらいに幼い頃から。

 それから、単純に幼馴染自体に興味もあった。
 俺が見る蜂蜜はいつも夢見心地で、俺を写しながら俺を見てはいなかった。彼女の瞳はいつも家族に向けられていて、その中でも彼女の蜂蜜がいっとう輝くのは。
 この世でいちばんきれいな瞳が見つめる存在。それが俺にとっての猫原碧だった。

 

 この世でいちばんきれいなものは、あっけなく世界から喪われた。小学生六年生の夏のことだ。

 三軒隣の、白い三角屋根の家。そこのベランダに腰掛けて陽を浴びるひとはいなくなって、人懐っこい声が俺を呼び止めることもなくなった。

 そうなってから、俺は一つの思い違いを知る。
 一人で外を出歩かないのは、幼馴染の母に限った話ではなかった。手を繋いで歩いていた母娘の姿を見かけなくなって初めて、登下校以外で一人で歩く幼馴染の姿を見たことがなかったことに気がつく。
 『居なくちゃ生きてけない』のは、彼女だけではなかったのだ。

 それでも、学校以外でてんで見かけなくなったこと以外、幼馴染は何も変わらなかった。
 そのことを薄情だ、と思いもした。永遠に喪われたうつくしいものは、他でもない彼女の母親で、死の意味さえわからない子供でもないだろうに。そういう苛立ちから、幼馴染への興味は失せつつあった。でも、最後に話したときもその人はやっぱり「碧ちゃんをよろしくね」と言ったから、苛立ちながらそれでも彼女を気にかけることだけはやめなかった。なにをすることもなかったけど。


 それが変わったのは、陽も短くなった、ある日の夕方。友達と遊んだ帰りのことだった。家の近くになって、見慣れない人影に気づく。
「……なにしてんの」
 碧ちゃん、と呼びかける。怯えたように肩を揺らしたのはひとりでは出歩かないはずの幼馴染だった。

「ちぐさ、くん」

 没交渉の俺と幼馴染が名前を呼び合っていたのは多分、幼馴染の母親の影響だ。『千種くん』は、俺のいう『碧ちゃん』と同じで、彼女の母親のしていた呼び方だ。
 その髪色以外似ても似つかない幼馴染の『千種くん』が、もういない人のそれにとてもよく似ていることに、一瞬たじろぐ。それを押し隠すように、もう一度「なにしてんの」と繰り返した。

「……さんぽ」
「ひとりで?」

 幼馴染は黙って頷いた。学校の彼女ならけしてそんなことはしなかっただろう。俺の前でだけそうだったのは、いつもその場に母親がいたからだろうか。

「あっそ」

 うん、とだけいって幼馴染が俺を見る。その瞬間、俺は息を呑んだ。動けなくなる。比喩でなく。その瞳に射抜かれて。

 蜂蜜よりも深い色。夕焼けを溶かして光る、琥珀とも飴ともつかない硝子玉。それが俺を写していた。まっすぐと。
 けして俺を見なかった蜂蜜。今俺を見る琥珀。
 十年近く近所に住んで、こうして目を合わせて向かい合うのははじめてだった。幼馴染も俺も、会うときには幼馴染の母親ばかり見ていたから。だから。


 『この世でいちばんきれいなもの』。
 それよりもうつくしいものを、俺はこのとき初めて見た。

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