目の前の椅子に座る山尾はきつく目を瞑っていた。俯いた髪から覗く耳が赤いだとか、よく見ると思っていたよりも髪の色素が薄いだとか、そういった些細な感想が尾浦の頭に浮かんで消える。いやいや、どうしてこうなった?
ファーストキスの、やり直し。
それを言い出したのは間違いなく尾浦だったが、まさか山尾が頷くとは思わなかったのだ。山尾が真面目くさった顔で頷いたときは、尾浦だって笑い飛ばすつもりだったのだ。けれど。
笑おうとしたはずの尾浦の喉は意に反して息を呑んで、次にはもう言葉を発していた。
「おっけ、任せろ。おれ超キスうまいから」
どうしてもこうしても、完全に尾浦の自業自得である。
そして今、尾浦の目の前では、山尾が決死の表情で目を瞑っている。目を瞑っているのは尾浦の指示だ。「どう、すればいいかな」「とりあえず目瞑って、そんで、あとは俺がこうぐっと」「ぐ、ぐっと……」「いや優しくはするけど」「やさしく……」「とりあえず目瞑って」「はい!」山尾も気が動転しているのだろう、勢いよく返事をして、言われるがままぎゅっと目を瞑る。山尾が目を瞑ったのをたしかに確認してから、尾浦がはじめにしたことは、山尾にバレないよう頭を抱えることだった。やらかした。事故った。まさしくそうとしか言いようのない展開だ。
なんだ、ファーストキスのやり直しって。馬鹿なのか。どんな鬼畜だ。別に、尾浦にとってはどうってことのないことだとしても、山尾は違う。いくら気が動転していて、いくら尾浦の極端な意見に触発されていたって、後で後悔しないとは限らない。それなのにわざわざ二度目のキスを自分なんかに捨てることはないだろう。それに今ならまだ、冗談だったことにして引き返せる。
そうだ、それがいい。今なら撤回できる。とそこまで考えたところで、尾浦はすぐ首を横に振った。山尾が尾浦の言葉に乗ってしまった以上、今更冗談だったことにしてしまえば山尾を傷付けることは想像に難くない。既に混乱でおかしくなっている山尾にこれ以上追い討ちをかけるのは酷なことに思えた。
そして撤回の道が断たれた以上、尾浦にできることはただ一つだ。
「……山尾、」
軽く声を掛けて、山尾の顔に手を添える。山尾の肩が小さく揺れた。
「息止めないよ、苦しいでしょ」
「……ふ、は」
山尾が息を吐く。尾浦の幾ばくかの逡巡の間、ずっと息を止めていたらしい。その様子を黙って見届けて、もう一度声をかける。
「山尾、下向きすぎ。顔上げて」
「……」
返事はなかった。けれど、尾浦の言葉に従い山尾が上を向く。その動作を待ちながら、尾浦はどこか冷静だった。化粧っ気のない山尾の睫毛が、それでも長いことに新鮮な驚きを抱く。「そう、」
頬に添えていた手を、すこし顎の方に滑らせる。小さな頭だった。
「肩の力抜いて」
「……」
ぎゅ、と山尾が眉根を寄せる。流石に無理な相談だったのだろうが、まあいい。山尾の頭をすこし引き寄せて、それ以上に尾浦が距離を詰める。
やさしく。こわくないように。後になって「なんてことを」と羞恥でもんどりうつことになったとしても、怖くて不快な記憶にだけはならないように。
やさしくすること。尾浦にできるのはそれだけだ。
「 ―― 、」
数えきれないだけしてきた行為だ。一も十も百も変わらないと考えていたはずのそれを、尾浦ははじめて大切に、特別に扱った。
ただの口と口を合わせるだけの行為を自分はこんなにやさしくもできたのか、と自分自身驚くくらいに。
山尾の唇が一瞬こわばる。でも、それは本当に一瞬だった。次いで、ふ、と山尾の力が抜けたことに、尾浦は安堵する。もう大丈夫だと思った。『何が』かはわからなくても、なんとなく。
時間にして数秒の、一瞬。けれども今までの人生で一番長い一瞬が終わって、尾浦が離れると同時に、山尾が目を開く。至近距離で目が合って、山尾の瞳に尾浦が映るのが見える。山尾の瞳の中の尾浦は、尾浦が普段鏡で見ているよりも、ずいぶんと幼い顔立ちをしているように感じた。その尾浦を映している山尾自身も、どこか呆けたような表情を浮かべていた。
先に、口を開いたのは山尾だった。「おうらくん、」そう言って山尾が目を瞬かせる。
「目の色、明るいんだねえ」
「第一声がそれ?」
からかうような尾浦の言葉に、山尾が困ったように笑う。
「いや、だって、ねえ?」
「いいけどさぁ、でも初キスよ? これ」
もうちょっとなんかないんですか? そんな風に言葉を続けながら、居住まいを正して山尾に問いかける。尾浦の言葉を受けて、山尾も椅子に座り直して繰り返した。
「何か、ですか」
「何か、です」
二人して真面目くさった顔をして向き合う。またすこしの沈黙があって、山尾がぽつりと言葉を零す。
「……なにしてるんだろう、私たち」
その言葉に尾浦が吹き出すのと、山尾が口元を押さえるのは同時だった。
「いや、それ一番言っちゃ駄目なやつ」「尾浦くんがなにか言えって言うから!」「言ったけどそれは言っちゃだめだろ。何ってキスですけど?」「き……っそうだけど!」「あとそもそもファーストキスのやり直しってなんだよ」「言い出したのは尾浦くんでしょ……!?」「頷いたのは山尾ですー」「そうだけど」「そうですよ?」「そうだけど!!」
山尾が目を釣り上げる。でもその顔も長くは続かずに、また笑い出した。肩を震わせながらお互い好き勝手言い合って、言い合っていることさえおかしくてさらに笑う。
ひとしきり笑って落ち着いたころには、二人ともが肩で息をしていた。未だ息も絶え絶え、といったふうの山尾に尾浦が声をかける。「それで、」
「どうでした?」
尾浦の声に顔を上げた山尾と目が合う。今度は二人とも吹き出したりはしなかった。尾浦の質問の意図が伝わったのだろう、山尾が考えるそぶりを見せる。「そうだね、」「うん」
「なんてことないんだなって、思ったよ」
『二回目』も『はじめて』も変わらないね、と続けられた言葉に、やっと肩の荷が降りた気がした。そして尾浦もまた笑う。
「だろ? だいたい女子は初なんちゃらに夢見過ぎなんだよ、キスもはじめても大したことじゃないのに」
「その認識もそれはそれで問題があるような」
「違いない。あと今のが『はじめて』だから。山尾まだ『二回目』してないから。そこは訂正して」
「そうでした」
「そして俺もこれが『はじめて』」
「それはさすがに無茶じゃない?」
「ひでえ」
くすくすと笑う山尾に、むきになって言い返す。「いいんだよ、順番なんて」
「一回も百回も変わんないんだから、一番大切なのを『はじめて』にしたっていいだろ」
その言葉を山尾が問い質すことはなかった。問い質すその代わり、悪戯っぽく笑って口を開く。「違いない」先ほどの尾浦の言葉を真似てみせる山尾の、その瞳が沈みかけた夕陽を受けて光る。
同じように笑い返しながら、尾浦はそれをどこか信じられないような気持ちで見ていた。