その日も珠は笑っていた。晴れの日だから。

 いつだったか、「雨の日は泣くのか」と聞いたことがある。そのときは「変なミモトさん」と笑われた。

「雨でも泣く必要はないわ」
「濡れるのだって嫌いじゃないし、いつかは晴れるもの」

 晴れの日は笑う必要もないのに笑う癖して、雨の日は泣く必要がないから泣かないのだと言う。雨がいつか止むというのも当然の話で、珠の言うことはいつも意味がわからなかった。理解ができないのが珠という女だから、そのうち深求は理解しようとすることもやめた。
 
 機嫌が良いのはいつものこと。目の前の珠が、鼻唄を歌いながらオムライスを突き崩すのを深求はただ見ていた。
 職場には外出からの直帰と連絡を入れている。夕食にはまだ早い、夕方のファミリーレストランでスーツの男と妊婦の少女が向かい合う。ケチャップの酸味ばかりが悪目立ちしたオムライス。それをスプーンで掬って珠がまた笑う。心底楽しそうに。

「ミモトさん、変わってるわ」「会うたびご飯を食べさせてくれるし」「病院にも連れて行ってくれるもの」「それなのに何も対価を求めたりしないし」


「ミモトさん、あなたやさしいのね」


 優しさとは一体何か。ずっとわからなかった。『優しくない』と言われたことがある。『冷たい』と言われたことがある。『冷たい』『何を考えているのかわからない』『人の気持ちを理解してない』『人の心がない』全部今まで言われてきたことだ。誰もが深求を優秀だと言った。誰もが『だけど』と続けた。優しくないとはいうくせに、誰一人優しさとは何かを深求に説く人はいなかった。

「……」
「わたし、オムライスって、すきよ。しあわせって感じで」

 幸せとは縁遠い女がオムライスを幸せに擬える。優しさに恵まれなかった女が、優しさとかけ離れた男を優しいと言う。その歪さが突如胸に刺さって、深求は息ができなくなる。


 猫原深求の人生に白石珠は必要ない。珠一人の不在は猫原深求の人生にひとつの影響も及ぼしはしない。明日珠が死んだとしても、いつか珠が無事子供を産んだとしても、それらを知る術は深求にもない。生まれた子供の行く末を見届けることも無いだろう。白石珠とその子供の人生について、深求には何の義務も権利もない。それは当然のことだ。二人は只の他人だ。

 白石珠は猫原深求の人生における、理解不能の最たるものだ。
 なぜ笑うのかもわからなければどうして笑っていられるのかもわからない。話すことはいつも要領を得ないし、常識だって欠けている。そこに哲学や理念があるわけでもない。珠は珠で、"珠"を生きている。手の施しようのないほどに。
 良く言うならば無垢で純粋。悪く言う気になれば当てはまる言葉に限りはない。それが白石珠だ。それでも、あるいは、だからこそ、珠は深求を世界でただ一人『優しい』という。


 雨宿りをする少女に傘を差し出したのは、マンションの入り口にいた彼女が邪魔だったからだ。制服に身を包んだ不審者を、安いビニール傘一本で追い出せるならそれでよかった。驚いた顔で傘を受け取った少女が口を開くのを、その時の深求はただ黙って見ていた。
『あなた、やさしいのね』



「珠」
「なあに、ミモトさん」

 歌うように珠が返事をする。晴れの日だから? 空腹が満たされているから? なんでもいいと深求は思う。珠が笑っているならなんでもいい。

「結婚、するか」

 落ちたコップが割れる音が店内に響く。店員が取り落としたものだ。通路を挟んだボックス席に座っていた高校生二人組が深求たちを見た。
 指輪もない。前振りもない。780円のオムライスの残骸だけがあるプロポーズ。そんなもので珠は笑う。「晴れの日だから」「おなかがいっぱいだから」「おなかのこどもが動いたから」それ以外の理由で笑う珠を深求はその日初めて見た。


「すてき!わたし、ずっとね、お嫁さんにもなってみたかったの!」

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