瀬戸原美利河にまつわる噂は多い。
入学してすぐのころ、告白してきた先輩(イケメン)を秒でこっぴどく振っただとか、一日に五件のスカウトを受けただとか、街でナンパしてきた男の股間を躊躇なく蹴り上げたとか。そういう武勇伝じみたものから、かと思えば言い合いになった女子生徒をやり込めて泣かせただとか、教師に色目を使って成績を上げているだとか、援助交際で荒稼ぎしているだとか、そういう悪意のあるものまで。。
そんな噂を「そんな馬鹿な」と一笑に付すことができないのは、ひとえに癇癪姫のそれはそれは整った顔立ちのせいだ。確かに、美人。確かに、高嶺の花。馬鹿みたいな噂を、もしかすると、なんて思わせてしまうほどの圧倒的な容姿。
そして彼女の性格もまた苛烈だった。大がつくほどの男嫌い。気が強くて自分が正しいと思えば頑として譲らない。空気を読むという言葉はおそらく彼女の辞書にない。引かぬ媚びぬ顧みぬを地で行く振る舞いは、見ようによってはたいそうお高くとまっていて、持ち前の整った容姿と相まってそれはまるで「お姫様のよう」。
誰が呼んだか『癇癪姫』。そう揶揄される彼女をおれは知っている。
「うちの学年一の美人」はだいたい彼女を指しているし、学年一が学校一になったとしてもそれが指す人物はたいてい変わらない。それくらい目立つ生徒なのだ。
そのずば抜けた容姿に焦がれる者も多く、そうして思いを告げた男たちは例外なく玉砕した。「誰々ちゃんが好きな何々くんを手酷く振った」だとかで文句を言った女子生徒も右に同じ。高嶺の花だという話を聞いて「我こそは」とまた別の男が名乗りを上げる。当然玉砕。「あんたちょっとかわいいからって」的な女子生徒以下略。
そんな日々に一番嫌気がさしていたのは当の本人だったらしく、遠目で見かける彼女はいつも「寄らば斬る」と言わんばかりの不機嫌顔で廊下を歩いていた。
それでも「あれはあれでイイ」なんていう輩が出るんだから、美人は大変だ。と他人事ながら同情した。
というのがおれの知っていた『癇癪姫』のすべてだ。
「なんであんたと仲良く並んで歩かないといけないの」
今ぶつくさと苛立ちを口にしている彼女がその『癇癪姫』で、何の因果か、今のおれは「彼女と同じ空間に居ることを許された数少ない男」の一人になっている。何の因果って、おれのトモダチのオサナナジミのシンユウってだけの繋がりなんですけど。つまり友人ですらない。なんでも中学の時からよくつるんでいたとかいう三人におれが割って入った形である。
「古橋。なんて言えばいいんだこれ……俺の友達?」
「だから何」
ちなみにこれが初対面。おれ喋ってすらいない。それくらい歓迎されていなかったことを思うと、隣にいることが許されているだけでかなりの進歩である。二人で居ることはほとんどないけど、四人で居るときはわりと話したりもするようになった。大体喧嘩腰だけど。
理由と程度は何であれ、とにかく認識されてさえいなかったころよりは遥かに近いこの位置だと、色々なものが見えるようになる。
今のおれが知る『癇癪姫』、瀬戸原美利河という少女はわりとふつうの女の子だ。甘いものと可愛いものが好きで、嘘が嫌いで、ただ顔が飛びぬけて整っているというだけの。(これは悪い意味ではない、マジで。)
歩きながら手持ちぶさたにそんなことを考えていたのがバレたらしい、半歩先を歩いていた瀬戸原が、ちらとおれを見る。というより睨む。
「さっきから何。気持ち悪い」
あと美人が凄むと怖い。とりあえず適当に間を保とうと適当に返す。
「や、なんでおれは休日に瀬戸原と二人で出歩いてるのかなと」
「は?碧たちと遊ぶからだけど」
何か文句あんのって、あなたさっき自分でも同じこと言ってたじゃないですか。そんなツッコミは、彼女が当然におれへ"四人目の席"を与えてくれている、ということの気分の良さに負ける。人との関係をステータスみたいにするのは好きじゃないけど、正直言うとこれは悪くない。
「そうだったそうだった」
「で、ほんとは何」
あともう一つ近くなって理解したこと。嘘が嫌いな彼女は誰かのごまかしを許さない。そして野生の勘なのか、彼女の嘘への嗅覚はとても優れている。おれが適当な嘘を言ったのも当然にバレている。
これ以上ごまかすのは得策ではない、だけど『癇癪姫』なんて言葉を口にしたら余計機嫌を損ねることは火を見るより明らかだ。「あー」何て言おうかね。悩んだおれは思い切って話題を転換することにした。
「あれって実際どうなん?」
「どれ」
「街で声かけてきたナンパ男に金的食らわせたって話」
「は?」
ほんと気持ち悪いありえないマジでない、みたいな言葉と同時に肩に衝撃が飛んでくる。それもその細腕からは想像できない力強さで。予想通りの反応だった。
正直なところ、別に聞かなくたってこの噂が嘘なのは考えるまでもないことだ。
なぜなら、そもそも瀬戸原が自分から触る相手はとても少ない。というか、いつもの三人以外の相手に瀬戸原が身体的に接触しているのをおれは見たことがない。いやおれのは接触っていうか物理的な暴力だけど。おれがこうされるようになったのも本当にここ最近のことで、つまりこれは親愛のあらわれ、要はスキンシップなのだ。いやけっこう痛いけど。
そんな彼女が路上に捨てられた煙草の吸殻に劣る存在(これは瀬戸原本人が言った。)に自ら手を下すわけがなくて。
「だよなあ」
「じゃあなんで聞くの!?」
ごもっともな指摘である。でも目論見は成功して、瀬戸原の意識は完全におれの嘘から逸れている。目の前のことへ素直に反応する性格の瀬戸原は、おれからするとこういうときにたいへんちょろい。
瀬戸原の素直さにひとまず話題を逸らしたのは良いものの、布団叩きよろしくおれの肩を叩いてくる腕はなんとかしたい。このままじゃ肩が集合場所に着く前にもげるかもしれない。
「あとお前さ」
「お前っていうのやめて」
「瀬戸原さ」
「なに」
「付き合うなら実際どういう男がタイプ?」
ピタリ、おれがひそかに黄金の右と呼ぶ腕が止まる。そして地を這うような声。「キモイ」
まあこれも予想通りの答えだった。瀬戸原と恋バナは普通に無理。ごめんごめん、と口を開けるよりも先、少し低い位置にある形の良い唇がうごく。「やさしい、ひと」
ほらね、普通でしょ。
好みのタイプはやさしいひと、なんてフツウすぎる。めちゃくちゃ普通。そういう女の子なのだ。ただ、どうしても普通にはしていられないだけで。
たとえば、喧嘩腰にしか聞こえない強い語調も。性格なのが半分でもう半分は身を守るための術だ。瀬戸原美利河という女の子は自分の容姿というものをよく理解している。もし瀬戸原が至って穏やかに話すことをするのなら、それだけで勘違い男の数は跳ね上がるだろう。高嶺の花でいるくらいが一番良い。あと口喧嘩にもつよいし。
今、おれと歩いているのもそうだ。
瀬戸原はただ一人親友と呼ぶ猫原さんと遊ぶときも、それが外であるときはたいてい三木やおれに声を掛ける。本当なら女子だけの時間を楽しみたいこともあるだろうに、あえてそうするのも要は男避けのためで。そのことは晴れて四人目であることを許されたおれも、かねてからの三人目である三木もよく理解している。
先の「なんであんたと」っていうのもそういう悔しさのあらわれなのだと、知っているからおれも軽く流せるわけで。それくらいの八つ当たりを可愛いものだと笑えるくらいの甲斐性はおれにもある。
「やさしいひと、ねえ」
居るといいな、と言ったことにからかいや嫌味の意図はない。ただ本当にそう思ったのだ。
持って生まれたどうしようもないものに人生を振り回されながら、それでも自分の意思と力で何とかしてやろうとするその彼女の姿をおれは好ましく思うし、その気高さは容姿抜きにずっと見ていたいほどきれいだと思うから。
そういう諸々ひっくるめて、大切にしてくれるようなやさしい男が居るといいなとか、そういう気持ちの「居るといいな」だった。
幸か不幸かそういうところは察しの悪い瀬戸原はおれの言葉をからかいだと判断したようだった。自分でも意図せず零れた言葉だったのだろう。顔を真っ赤にさせながら口をぱくぱくさせる様子はその顔立ちに反してかわいらしいものだった。
「う、」「う?」「うる!さい!!」
そして一度は封じ込めた黄金の右腕が再度猛威を振るう。テンパっているのか、どうやら力加減という概念も抜け落ちているらしい。
そして好きなタイプなんかよりよほど聞くべきだった疑問がひとつ。
こいつこのパンチどこで鍛えたの?