あるところに、全知の男がおりまして。
全知だから、ね、総て遍くあらゆることを知っていたんですよ、彼。明日の天気も、山の向こうで起こる人死にも、これからの飢饉も。
彼が「雨」と言えば今日がいくら晴れていたって明日は雨です。彼が「人殺し」と言えばその男は間違いなく人殺しです。これまでの生涯で誰一人殺していなくても、いつかの。
凄い男だと思うでしょう。思うでしょう、彼なら何でもできるって。
でもね、世の中そんなに簡単じゃないんです。
"「人間」とは何か"、ご存知ですか。貴方たちのことです。私はね、いとしい貴方たち、「人間」というものを定義するのなら、"完璧でない存在"と答えます。
人は誰しも不完全です。何かが出来ても何かは出来ない。どれほどの名手でも、百発百中とはいきません。ほらほらよく言うじゃないですか。"弘法も筆の誤り"って。まあ"猿も木から落ちる"というくらいなので、人に限ったことじゃないと言ってしまえばそこでおしまいの話なんですけど。とにかく私が言いたいのはこういうことです。人間はね、どうしたって完璧にはなれない。
でもね、不完全で、完璧にはなれない歪な個は、次にどうすると思います? 補い合うんですよ。支え合う。協力し合う。助け合う。共助。群れを作り、村を作り、寄り添い合って。互いに補完し合うことで完璧に近づいていく。それって凄いことだと思いませんか。
彼の話に戻りましょうか。忘れていませんよね、全知の彼の話です。
その全知故彼はなんでも知っていました。生半可な話じゃないですよ。"なんでも"です。百年前に起きた戦争も五百年後に起きる悲劇も。村人が汗水流して振るう鍬と同じ素材のものが空を飛ぶ未来だって見えていた。完璧にね。
なぜそんなことがわかるのかって? "わかる"のではなく"知っている"からです。そこに理解はいらない。貴方は夜空に動かない星があることを知っているでしょう。だから貴方は他に目印のない夜だって間違いなく歩くことができる。星が見える限り。"なぜその星が動かないのか"、なんてわからなくていいんです。在るものは在る。そして在ることを貴方は"知ってい"さえいればいい。
彼も同じです。知っているから知っている。彼にとっては、女の膨れた腹を見ることと、そこに宿る子の死に様を知ることは同じことです。
彼はすべての物事を知っていました。そこに間違いはない。寸分の狂いや勘違いさえない。そう、それこそ完璧に、彼はすべてを知っていた。
だからそのかわり、彼は何もできない男でした。
全知全能という言葉を知っていますか。すべて完璧に知っていてすべてのことが完璧に出来る。あれは神の領域です。
彼は神ではない、男の精を受け女の胎から生まれたただの男です。本来なら、"全知"であるはずさえない男。その彼が全知を得てしまったら、ねえ、どうなると思いますか。
不完全なのが人ならば、完全であれば"人で無し"。そういう意味で彼は間違いなくひとでなしで、けれど間違いなく人でした。たとえば、天才と馬鹿が紙一重であるだとか、優秀な軍人には人らしい感情が欠けているだとか、そんなふうなこと。
彼は無能でした。
彼が「雨」と言えば明日は雨です。彼が「荒れる」というのならその日の海は大荒れでしょう。でもね、伝える術を彼は持たなかった。
生まれつき声はなく、足は萎え、手は固く握られている。
耳と目が利いたのはどこかの全知全能の戯れでしょうか。それから申し訳程度の瞬き。それがすべてを知る彼の「すべて」です。
全知の代わりに無能。能力でいえば大きな正と大きな負。それでも少しは出来ることはあるから、差し引き正。"ひとでなし"でいうなら負かける負でやっぱり正。だからね、彼は、やっぱりどうしようもなく"人間"だったんです。
だからほんとは彼も"知ってい"ます。たとえいくら神と崇められていたって、自分が出来損ないの神様に過ぎないってこと。
「明日は雨ですか」
ふたつの瞬きの意味は否。そういう決まりです。
「晴れですか」
ふたつ。
「曇りですか」
ふたつ。
「じゃあ一体何ですか」
明日の天気は夏の雪です。それを伝える術が彼にはない。聞いてもらえなければ答えられないのです。
「明日の海は荒れますか」
ふたつ。
ああよかったと、海に出た男は死にました。海は荒れなくても不慮の事故で船が転覆、って、そんなこともあるでしょう。"明日海に出たら俺は死にますか"。質問はただそれだけでよかったのです。
遠い領主のところへお嫁に行った、優しい近所のお姉さん。口も利けない彼をそれでもかわいがってくれた人。
行かないでって、その一言が言えたらよかった。
村一番の美人に飛び込んだ縁談を、玉の輿だと言ってみんなが喜びました。そして嫁に行ってしまった彼女の白無垢姿の、なんて美しいこと! 動けない彼は暗い家の中。見えないけれど知っていました。うつくしいその姿。そしてその結婚の顛末も。声無き叫びで喉は枯れ、拭うこともできない涙のせいであの夜彼は息もできなかった。
あの日以来故郷へと帰らない彼女が、帰らぬ彼女であると知っているのは領主と彼ばかり。
美しい女の胎を裂く。あたたかい血潮を浴びながらその腸に頬ずり。そういうことに興奮する性質の男もいること。その一人が今の領主であること。でも誰も彼に聞いてくれなかった。突然舞い込んだ縁談に誰もが舞い上がっていたんです。
ね、可哀想だと思いませんか。彼も、花嫁も、その花嫁を今でも祝福し続ける村人たちも。だってね、誰でもよかったんですよ。たったひとり、一回だけでよかったんです。ただ一言、こう問うてさえくれたらよかった。
"この縁談で、彼女はしあわせになれますか?"
そうしたら、彼はその瞼を、たったふたつ、きつくきつく閉じたのに。
だからね、彼の生涯は贖罪です。
頭を垂れる術さえ持たないから、全知の彼は今日も目を瞑る。
その瞼がどれほど痛もうと、腫れようと。望まれるまま、ひとつ。ふたつ。少しでも伝わるようにって、本気で思いながら。
彼の話を、もうひとつだけ。
彼はね、今まさに彼を頼って地に頭を擦りつけているその人が、今日の食い違いを恨んで、五年後の月夜に出来損ないの神様を殺すことも知っているんですよ。