「せんぱい」
 平坦な声。下手したら呼びかけられたことにすら気が付けないだろう。
 彼女の言葉はいつも静かで、そして半分独り言じみている。
 応えられることを期待していない、呼びかけたいから呼びかける、そのためだけの声。
 話しかけておいて失礼な話だ。だけど。だからこそ。
「どうしたの、猫原さん」
 俺は彼女を振り返る。聞こえないふりをしたって気にしないであろう彼女を、わざわざ。そうしてもいい程度には、この後輩のことは嫌いではなかった。

 ずっと憎んでいるものがある。恨んでいるものがある。
 世界を呪う俺に、世界から離れて生きている彼女を呪う理由はない。





 ピリカ、と聞こえた気がした。
 碧の声はいつも私にまっすぐ届いた。何かと戦うみたいに歩く雑踏の中でも、四面楚歌の囁きと悪意に満ちた場所でも。
 感情というものが読み取れないその声は、その代わりにいつも一定で、だからこそ私は碧を見つけられる。
 いつでも、どこでも。
 振り向いた先、碧と視線が合う。ほら、その声が聞こえる限り、私は間違えない。
 目を丸くしているくせに、「よく一発で見つけられますね」という声はやっぱり驚いているようには聞こえない。

 それがおかしくて少し笑う。
「当然でしょ」
 波立つ心はいつもいとも簡単に凪いだ。その平坦に呑まれるように。





「古橋くん」と呼びかけるその声に、一度で気が付けることは少ない。
 それくらい彼女の声は無機質に響く。誰かがプリントを裏返す音、シャーペンと机のぶつかり合う音、彼女の声。
 どれも些細で、意識しなければ気にも留まらない音。離れた席の囁き声の方がよほどおれの意識を揺さぶる。
 もう一度呼びかけられて、初めてその呼び声が幻聴ではないことを確信する。
 
 意を決して振り向く。体が強張るのは目が合ったからだ。無機質なその声よりも、おれは彼女の視線がどうにも苦手だった。
 口以上に物を言う彼女の瞳。それがまっすぐに俺を見る。おれは一瞬息を呑んで、わらう。
「ごめん、呼んだ?」
 喉が張り付いたみたいだった。だから彼女に向けるおれの第一声は、いつも揺れている。

 



 振り返れば、そこに居たのはやっぱり幼馴染だった。
 色素の薄い、大きな目。その目が、すこし驚いたように丸くなる。
「何?みゃーこ」
「……まだ呼んでないよ」
「じゃあ今呼んでくれていいよ。仕切り直し」
 俺の提案にひとつ、瞬きをして、仕方ないなとでもいうようにゆるく笑む。たった一人の幼馴染。
「ミキ」
 呼ばれたのはただの苗字なのに、その発音がどこか硬質で不格好なものだから、幼馴染の口にする「三木」は何度聞いてもどうしようもなく「ミキ」だった。
 だから俺は幸せな錯覚をする、ふりをする。俺が彼女をみゃーこと呼ぶように、彼女もまた俺に名前を付けたのだと。
「はーいよ」
 本当は意味なんていらないし、ないことも知っていたけど。ただ、そうしたら、大切にしても許される気がした。俺を「ミキ」と呼ぶみゃーこの声が、俺はいっとう好きだったから。

 いつか離れる、ただの幼馴染。
 その声を、愛しく思う理由が欲しかった。

 


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