スキなコトなく生きている、ってことのほうがおれにとっては不思議で仕方なくて、「これなら」ってものがない人生ってどんななんだろうってたまに思う。
 その“どんな”を生きていたはずの数年前のおれは今はもういなくて、その想像はいつも想像で終わった。

 学校が終わって、まっすぐ家に帰って、荷物をとっかえてまたすぐ家を出る。教科書もノートも学校に置きっぱなしだから、学生鞄は空っぽにほど近い。それよりはずっと重いはずの荷物を背負って歩く足取りは、それでも学校へ行く朝よりずっと軽かった。向かう先はいつも同じで、それがおれの当然であり生きがいだった。もう三年も。



 おれにとっては学校よりゲーセンより楽しい“そこ”も、楽しいことばかりではない。
 今日もまたひとりが、なんだろ、弦を切った?
 小説家なら筆を折るとか、そういう表現になるんだろう。だけど、楽器を諦めてしまうことをどう表現したらいいのかは、ガクセイのホンブンをおろそかにしているおれにはわからなかった。でも、その意味はおれにもわかる。目の前の人が二度とここに来ないということ。言い方は人それぞれだったけど「音楽をやめる」って言葉はとにかくそういうことだった。

 スキなコトがもう出来ないってどういう気持ちだろう。スキなのにやめるって?
 おれはその人の歌が好きだったけど、その人はもう歌わないのだという。
「二度と?」「そうなるな」
 寂しそうに笑うくらいならやめるのを辞めたらいいのに、実際にやめるのを辞めた人は、少なくともおれが会った人の中には一人もいなかった。たぶん、それが“音楽をやめる”ってことで、もしかしたら大人になるってことそのものなのかもしれない、とおれは思う。“音楽をやめ”た人たちはみんなおれより年上だった。みんな寂しそうに笑う。中には苦しそうな人もいた。それでもみんな本当にやめてしまうのだ。

「お前は続けるといいよ」っていうけど、「才能があるから」っていってくれるけど、おれにはここ以外で歌う気はなかった。メジャーデビューがどうとかライブがどうとか、ジシュセイサクCDがどうとか、そういうのはおれのスキではない。
「おれがスキなのは弾くことと歌うことだよ」それも出来るなら、ここで。
 そういうとその人はやっぱり寂しそうに笑った。贅沢だな、って、おれの頭を撫でる。
 その手の皮の厚さをここにいる誰もが分かってるのに、誰も彼の決断を止められない。誰かに言われて揺らぐような決意をそもそも決意とは言わないこと。“引き止めないこと”がおれたちが示せる最大の敬意であるということを、おれはここで学んだ。
 撫でられながら、思う。
 彼の何年もが形作ったその皮膚は、いつか元のように柔らかくなるのだろうか。それとも一生残り続けるのだろうか。二度とない演奏のために。

「ねえ」
「ん」
「あの歌、おれがスキだったやつ。もう歌わないなら、おれが歌ってもいい?」
 そう言ったのは、その曲をおれのものにしたいとかじゃなくて、ただその歌を忘れたくなかったからだ。
 少し考えて、その人が口を開く。その答えが、その人の決意だとか未練だとか、そういうどうしようもない感情のすべてだった。

「駄目だ」
 聴きたくなるから、と。



 飽き性の兄貴が置いていったギターが、おれの世界を変えた。
 流れてくだけだった毎日が終わりを告げて、「これなら」って、生きてて初めて思った。来る日も来る日も練習して、うるさいって家を追い出されてからは毎日外で練習した。そんなおれを見つけた人に、ここを教えてもらったのはおれの幸運だ。
 でも、そういうのはきっとおれだけに限った話じゃなくて、ここに来る人全員に、同じ日々があったはずなのだ。
 それなのに、と続けてしまうのはおれがまだ子供だからだろうか。今まで「相棒」と呼んだそれを、彼らが納屋に押し込んでしまうのか、売ったり捨てたりしてしまうのか、それはわからないけど、そうする結末を望んで音楽を続けていたわけじゃないはずだ。目の前のこの人も、今までスキを辞めてしまった人たちも。
 ときどき、思う。“スキを辞める未来”は、おれの行く先にも当たり前のように待ち構えているのかもしれない、と。無い頭をどれだけ捻ったって想像さえできない未来だ。でもその未来は知らん顔して口を開けて潜んでいるのかもしれなかった。おれを絡め取るときを待って、今まさにその根を張り巡らせているのかもしれなかった。
 だってきっと、諦めるつもりで始めた人なんてひとりもいなかった。


 おれの頭を撫でていた手が離れていく。こうして撫でられることも、きっともうないのだろう。
「またね」
「じゃあな」
 あっさりした別れの言葉がたぶん一生のさよならだ。こんな別れは初めてじゃない。
 昔少年だった男が去っていく。楽器を背負っていない彼をおれははじめて見た。小さな背中だ。
 こうして立ち去る人の背は、不思議なことにどれもよく似ていた。歌と楽器とスキ以外、何も持たなかった男の背。「バイバイ」おれのスキは楽器と歌とここだけど、ここで会えるあなたのことも好きだったよ。あなたの歌も。

 

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