もう忘れてよ、とその人は言った。
「やだね、忘れない」
「頼む」
「やーだ」
性格悪い、呟いた彼に笑みを返す。何を今更。
「ね、忘れないよ」
「やめて」
「忘れない」
「ヤメテクダサイ」
「やめません」
にやり、笑みを深めれば、彼は諦めたように目を瞑った。「あー、もう」
もう何年も前のことになる。
二つ年下の彼が免許を取ったというから、初めて彼の運転でドライブに出かけた。
取りたてにしては、というべきか、取りたてゆえに、というべきか、彼の運転は随分と安定していて、デートコースも車ならではというか、全く申し分なかった。あまりにもそつがなさすぎるくらいに。
「ね、車のデート、慣れてる?」
「え、」
「なんというか、なんとなく」
「慣れてるもなにも、貴女とが初めて、ですけど」
そうだ、あの頃はまだ敬語だった。
「そう」
「なんでですか」
「いや、なんというか、そつがないなあと」
「なんですか、それ」
浮気とか、絶対ないですからね。そう念を押して彼は笑ったけど、本当にそう思ってしまうくらい、そのデートは申し分がなかったのだ。
彼とのはじめてのデートで、彼は財布を忘れてきた。
はじめて二人で夕飯を食べに行ったとき、予定していたお店は閉まっていた。
はじめての記念日は、「見せたいものがある」という彼についていって二人で道に迷った。
お互いはじめてではないだろうに最初のキスでは歯をぶつけたし、はじめてふたりで夜を過ごした日に至っては彼は二度ほどベッドから落下した。
間が悪いというかなんというか、“はじめて”ということがものすごく下手な人だったのだ。
それなのに、その日の彼はとても上手に初めてのドライブデートというものをこなした。
その時は「まあそんなこともあるか」と納得したものの、(もとより浮気の心配は少しもしていなかった。)その真相はその日のうちにあっけなく露見した。
たしか、煙草を買うためだったように思う。デートの帰り、彼がコンビニに寄るために車を降りた。
ひとり残された車内で、私は運転席の足元で一枚の紙を拾ったのだ。
【ドライブ心得】。そう書いてあった。
今日のデートコースと、寄ったそれぞれのお店の営業時間と休業日が彼の字で書かれたそれ。さらにそれには彼の字ではない乱雑な字で、『要再考』やら『駐車下手くそ』やらところどころにコメントが書かれていた。
コンビニから戻ってきた彼は、私の手にある紙に気付いて、赤面した。
大学の先輩に頼んで、デートの予習を二度もしたらしい。真面目な彼らしいそれを白状する彼の顔がかわいそうになるくらいに真っ赤だった。
今にも発火してしまいそうなほどに赤くなった彼が、それでも「だから、ほんと、浮気とかじゃないんです」と見当違いの弁解をするのをみて、彼のことをほんとうにいとおしく思った。
「あの時の顔、おもしろかったなあ」
「忘れてください……」
「あ、また敬語。あのころみたいだね」
「……」
当時の車が、今日で廃車になる。
小さな車では手狭になったからだ。
「初めての育児、頑張ってよ?パパ」
「わかってるよ」
もうすぐ、家族が増える。
(即興小説トレーニングより加筆転載/お題:恥ずかしい車/制限時間:15分)