明け方。朝の四時。目が覚めたのは偶然で、明るくなりはじめている窓の外に目を向ける気になったのも偶然だった。
 俺の家の前の道路を、自転車で駆っていく幼馴染を見つけたのも。

 幼馴染は時々家出をした。
 明け方、人が起きる前に家を出て、早いときは夕方、遅いときは日が変わる頃に何食わぬ顔で戻ってくる。
 二十四時間に満たないそれを"家出"と呼ぶことが正しいのか俺は知らない。ただ、幼馴染は誰にも告げず家を出て行く。切実な衝動に突き動かされて。だから家出と呼んでいる、俺も彼女も、彼女の家族も。

 家を出たところでどこにも行けないのは本人もわかっている。十六歳。高校二年生は家を出るには幼い。飛び出したところで一人では暮らしていけない。補導されたら次はない。だから帰ってくる。それだけ。衝動で飛び出す彼女を戻らせるのは彼女の理性で、そこに俺はいない。居てはいけない。枷になってはいけない。
 自らを取り巻く世界に息も出来なくなったいつかの幼馴染。彼女を「みゃーこ」と呼んで、息のできる場所を探すよう勧めたのは俺だから。

 だから、机の上に置いた携帯のマナーモードを解除するのはただの習慣だった。出て行った幼馴染は俺を顧みない。そうするように俺がした。だから電話が鳴ることはない。だからこれは願掛けでさえない。それでも。

 まだ眠かった。青みがかった朝の道を行く幼馴染の背中。布団の中。まだ目覚めない世界でも俺は彼女の背中を見分けられるのだと、思う。
 二度目の眠りは、俺に夢を見せなかった。

◇◇◇

 二度目の眠りは携帯の通知音によって妨げられた。それが着信を示すものだと気づいて飛び起きる。「……はい」

『うわ、出た』
「……古橋か、何」
『その声、お前寝起き?もう昼過ぎよ?』
「……まじか、もうそんななの」
『おう。ていうか出ると思わなかった。心臓に悪い。やめて』
「じゃあ掛けるなよ……」
『万が一もあるじゃん?あると思わなかったけど』
「うるさいな」
『だって俺このあと猫原さんにラインする気満々だったかんね』

 突然出てきた幼馴染の名前に肩が揺れる。
「……良かったじゃん、手間省けて」
『そうなー』
「で、用件は?」

 特にないけど特にないから時間潰しに付き合ってくれ、というのが通話の用件らしかった。断る理由もないので別に構わないと返す。

『猫原さんと瀬戸原どうする?』
「来ないと思う。あとみゃーこ今日用事」
『おっけ、じゃあまた』

 通話の終わりを告げる間抜けな音を聞いて、のそのそと活動を始める。幼馴染が家出をしたところで俺の生活に影響はない。けれど幼馴染が居ないとわかっている日でも、俺は目を覚ますし息をしている。そのこと自体が不思議で仕方なかった。

◇◇◇

 家に帰ると、玄関に幼馴染の靴があった。当の本人は居間のソファに我が物顔で座っている。時刻としては遅い夕飯くらいだから、帰ってきていてもおかしくはない時間だった。

「おかえりなさい」
「……ただいま。鍵は掛けてったつもりなんだけど」
「ちょうどおばさんが帰ってきてたの。また出掛けたけど、すぐ戻るって。仕事かな」
「そう。待つなら連絡くれたら良いのに」
「連絡したところで気がつかないでしょう」
「まあ、そうだけど」

 話しながらソファの横に座ると、手の平に何かを落とされる。みゃーこが口を開く。「おみやげ」見るとそれはガラスの欠片だった。表面が磨りガラスのようになっている。シーグラスというのだとみゃーこは言った。
「海行ったら、浜辺で男の人が拾ってて、おしえてくれた」
 打ち捨てられたガラス瓶のなれの果て、だそうだ。

「これ使って、写真立てとか作ってるんだって」
「へえ」
「一個じゃどうしようもないだろうけど、綺麗だから。ミキにあげようと思って」
「……どーも。海、どうだった」
「灰色だった。次回に期待」
「そ」
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「ん。送る?」
「まだ明るいから平気」

 そう言って立ち上がる幼馴染の身軽さを見るに、一度家に帰ってからこのためだけにうちに来たらしい。

「じゃあ、また明日」
「ん、また明日」

 みゃーこが居間を出て行く。少しして、玄関の戸が開いて閉まる音がした。
 残された俺は、黙ってガラスの欠片を握る。
 いつものことだった。みゃーこは、出ていくときは俺のことなんか顧みることもしないくせに、帰ってくるときは毎回こうして何かを持って帰ってくる。食べ物だったり、何か残るものだったり、それはそのときによって違う。ただその拾ったものだったり買ったものだったりを、手渡されて、受け取るたび、俺は毎回安堵の息を吐いた。今回も。

 みゃーこが帰ってくるのは、今の彼女はそうするよりほかないからだ。言い聞かせるように、思う。
 いつかこの家出ごっこが、"ごっこ"でなくなることを俺は知っている。いつか俺とみゃーこの望みは叶って、俺の幼馴染はどこか遠くで、息のできる世界を見つける。片道だけの家出。
 そしてそのいつかの暁には、みゃーこなんて名前は幼馴染にとって不要のものに成り下がり、俺をミキと呼ぶ幼馴染は居なくなる。それさえ願ったことだった。はずだった。

 それなのに、今の俺は安堵の息を吐く。
 みゃーこが戻ってきたことと、彼女が行った先で俺を思い出したことの、両方に。

 いつか、彼女が帰らないことを決める日がくる。そのとき、彼女は俺を思い出すのだろうか。そう考えるようになったのはいつからだろう。
 みゃーこが幸せになるためのミキで居ることを決めたのも選んだのも俺で、その気持ちは今も嘘になってはいない。それなのに、と続く気持ちが出来てから俺はおかしい。ぐしゃぐしゃになる。気持ちが揺らぐ。揺らぎたくないのに。俺だけは裏切りたくない、世界でただ一人の女の子のこと。泣けないあの子の幸せを願っている。ずっと。"それなのに"。

 彼女の幸せだけを、いちばんに願える俺で居たかった。

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