「叶わぬ恋をしていました。ずっと、です。好きな人には僕でない恋人。悲劇にもならない話でしょう?ありふれた不幸。けれど、それでも幸せだったんです。彼女はけして僕の隣には居なかったけど、それでも彼女は笑っていたから。彼女の笑顔を差し置いて、なぜ僕一人の身勝手な恋の成就なぞ願えますか。彼女がしあわせならそれで良いじゃないですか。たとえ彼女が恋人と笑い合い、愛の言葉を交わし、その体を繋いだとしても。それによって誰が恋に破れ、涙の夜を過ごして、どれほど絶望の淵に沈んだとしても。たったそれだけの犠牲で彼女がしあわせでいてくれるのなら、ほかに望むことなんてなかった。彼女がしあわせでさえいてくれたなら、僕は何度だって喜んで彼女を祝福したでしょう。彼女が『しあわせだよ』と笑いさえすれば、僕の苦い片思いはそれだけで報われたのです。僕は彼女の隣で笑い合う権利は持たなかったけれど、彼女の友人でした。募る思いをおくびにも出さず、友人に徹した。その理由はもうおわかりになるでしょう?僕は、彼女にしあわせになってほしかった。大好きだから。愛しているから。

 だからですね、貴方に話すことはもうないんですよ。僕は僕の恋を全うした。彼女をしあわせにするために。……嫉妬?誰が誰に?僕がアレに?馬鹿なことを言わないでください、誰がアレを羨みますか。彼女の隣に並ぶ権利を手にしていながら彼女を幸福にする義務を全うしなかったアレに。ご存知ですか、アレと付き合ってからの彼女の様子を。そりゃあ初めは良かった。知っていますか、彼女はほんの些細なことでこの世の幸福の限りといわんばかりに微笑むのです。僕はその笑顔が好きだった。そして初めのころの彼女は本当にしあわせそうだった。けれどそれも長くは続かなかった。ある時から彼女は笑わなくなった。無理してる、我慢してる、彼女はそうとは言わなかったけど、僕にはわかりました。アレとうまくいってなかったんですね。聞けばすぐに彼女は白状しました、アレが暴力を振るうようになった、と。聞けばアレの所業は典型的なモラハラそのものでした。高圧的な態度に出る、気に食わないことがあれば彼女を罵倒する、時に手を上げる。初めにも言いましたが、僕は“彼女がしあわせなら、”なんでもよかったんです。僕の隣に居なくたって。僕は彼女が僕の隣に居ないことは良くても、彼女がしあわせでないことには耐えられなかった。彼女は、僕にとってこの世でただ一人見つけた幸せになるべき人だったから。
 そのあとは根気勝負でした。彼女はあれですこし流されやすいところがあるから、アレが一言謝ればそれでいいかと済ませてしまうんです。そのたび僕は彼女に言いました。『それできみはしあわせなの?』と。それよりも『そんな風に愛着だけで付き合っていて彼は幸せなの?』と問うたほうが効果がある、というのは癪なことでしたが。それでも彼女が不幸の源から離れられるなら、と思って耐えましたよ。時にアレを手ひどくこき下ろしたり、逆にアレは可哀想なのだと言ってみたり。彼は君の手ではどうもしてやれない、彼は君といる限り同じことを繰り返して、そのたび謝ることになる。一度愛した相手に振るいたくもない暴力を振るっては謝らなければならない彼はどれほど可哀想だろう、君も彼も幸せになるべきなんだよ、別れという手段をもって、互いに。……とまあこんな感じに。尤もらしいでしょう?全部嘘です。彼女はしあわせになるべきなのだ、というくだりに関しては本当ですが。僕の誠心誠意の説得の甲斐あって、彼女はようやくアレと別れる決心がついたようでした。『別れてきたよ』と彼女が言ったとき、僕はどれほど安堵したことでしょう。アレは別れ際まで五月蠅かったようですが、彼女も頑固でしたからね。アレのため、と言い聞かせたのが良かったみたいです。これで彼も幸せになれるかな、と彼女が寂しそうな、でもどこか晴れやかな顔をしていたのも覚えています。僕もうれしかった。だって、幸せにしてくれないどころか暴力を振るうような男との交際を延々続けることと別れること、どちらが彼女にとってしあわせかなんてわかりきったことじゃないですか。彼女は前よりしあわせで、僕はそれがうれしかった。彼女から電話が掛かってきたのは、その夜のことです。

 『ひとりだといろいろ考えちゃって、』と彼女は言いました。わたしの恋の話を聞いてほしいの、と。内容はアレの前に付き合っていた男の話でした。その男のことは知っています、なぜ別れたのかも分からないくらい仲の良いふたりでした。過去の恋を振り返るというわりには彼女の口ぶりはいつも通りだったから、きっと円満に別れたんでしょうね。お互いに得るもののある交際は素晴らしい。『幸せな交際だったと思うの』と彼女は言って、僕も同意しました。その夜はそれで終わりです。

 次の夜は、幼稚園の頃の初恋だったかな。バレンタインにチョコレートを渡して、お返しがマシュマロだったことに泣いたそうです。『今ならお菓子の種類で返事を返されているわけがないってわかるのにね』と彼女がおかしそうに笑っていたのを覚えています。たまたま前日にテレビで見聞きでもしたんでしょう、子供らしい話に僕も微笑まずにはいられませんでした。かわいらしい話だね、なんて言い合って笑いました。

 3日目は、2つ上の先輩に憧れる可愛い片思いの話です。相手は入学してすぐのころに学生証を拾ってくれた人だったそうです。なんでも人気者の先輩で、友達と一緒に部活の試合を見に行ったり、廊下で見かけるたびにはしゃいだり、そういう眺めているだけの片思い。『叶うわけないってわかってるのに、それで幸せだったのは変かな』、そう笑う彼女に僕も言いました。変じゃないよ、って。だって、僕にはその気持ちがわかりましたから。

 4日目は、覚えています。元恋人の話でした。幸せだったと彼女が言うから、僕は胸が痛かった。笑っちゃいますよね、痛むんですよ。いくらきれいごとを言ったって、それが本音だったって。痛いんです、苦しくて耐えきらないくらい。ただ、それでも耐えられるというだけの話で。だからいくら痛くても、彼女の過去にしあわせな恋の思い出があることを、僕は喜ばしく思いました。どこまで行っても、僕は彼女のしあわせを祈らずにはいられないんです。でも、どうして別れたの、なんて聞きませんでした。聞きたくなかったから。酷いひとでしょう、彼女。よりによって僕にそんな話をするんです。感覚でわかるんでしょうね、僕が絶対的な味方だって。僕の気持ちを知っていたのかは知りません。知っていてもおかしくないと思いますけど、知らなかったといわれても納得できます。彼女、そういう人だったから。鈍いのか敏いのかなんて考えるだけ無駄ですよ。彼女は彼女ですから。僕が抱えているこの感情が恋なのか友情なのか、それとも別の愛なのか、そもそも愛でさえないのかもしれませんね、今になっては僕にもわかりません。彼女がどう受け取っていたのかも。でも僕はその時も、それ以前や今となんら変わらず彼女を愛していたから、張り裂ける胸の痛みを押し隠して笑いました。『しあわせな恋をしていたんだね』、と。痛くて苦しくて、聞かなければ良かったと思うのに、彼女が『聞いてくれてありがとう、おやすみなさい』なんて言うから、僕はその日良い夢を見ました。彼女が僕におやすみなさいと笑いかける夢です。安い男でしょう?

 次の夜は、それまでと話の様相が打って変わっていました。予想はついていたことですけど、彼女あまり男運が無いんですね。バイト先で知り合った他大の男で、憧れていたけれど一方的に遊ばれて捨てられてしまったそうです。それを聞いて、前日の比じゃないくらい僕は苦しかった。吐きそうなくらい気持ち悪くなって、苦しくて、痛くて、僕は痛む胸のどこかで確かに安堵しました。彼女のしあわせに覚える胸の痛みより、彼女の不幸に感じるそれの方が何倍も何倍も苦しかったから。僕の彼女のしあわせを思う気持ちは本当なんだって、それだけがその夜の唯一の救いでした。

 次の夜、は、何も言いたくないです。あの日ほど自分の鼓膜を破りたいと思ったことも、誰かを殺したいと思ったこともない。…………恋の話なんかじゃ、ありませんでした。恋人の話でも片思いの話でもない、暗がりに乗じて行われた、胸糞の悪い話です。それなのに、『あのね、』って、それまでの夜と何ら変わらない口ぶりで話す彼女の声がかなしかった。

 次の夜、それからその次の夜ですけれど、もう良いでしょう。どちらの夜も、僕の胸は痛かった。こころというものに限界があるのなら、僕のこころはとっくに壊れていたでしょう。僕が彼女と出会ってから、彼女のしあわせを望んでしたことなんて些細なことです。地獄の道を左へ行くか、右行くか、たったその程度の。最初に聞いたしあわせな恋の話は彼女を上げて落とすための罠なんだって思ってしまうくらい、たった二十年やそこらの彼女の人生は、彼女の恋は、ひどいものでした。


 時を行きつ戻りつ、彼女の話は時系列順ではなかったけれど、一昨日、は、アレの話でした。僕に話したのなんて、ほんの些細な一部分で、聞けば聞くほど、彼女があの交際で得たものは痛みと傷だけなんだと思いました。胸が痛む、なんて感覚も忘れてしまったみたいでした。胸が痛い、頭が痛い、こころがくるしい。ただそれだけなんです。僕はもう苦痛にのたうち回る必要もなかった。僕をいたいところだらけにするような、そんな人生を語る彼女の声は変わらずしあわせそうでした。その夜の僕にとって、鋭利な痛みはそれだけだった。なんでしあわせっていうの。それだけです。


 昨日、は、何が起こったかについては、もうご存知ですよね。僕がここにいるわけですから。最後の夜です。僕と彼女の。今ね、と彼女は言いました。
『いまね、すきなひとがいるの』って。
やめて、って、人ってあんな掠れた声が出せるんですね。僕の声はまるで空気の漏れる音みたいだった。(とてもやさしいひとで、)ききたくなかった。(たぶん、きっと彼もわたしのこと、すきでいてくれてると思うんだ。)“不器用なだけでわたしのこと好きでいてくれてたんだよ”って、そう言ったその前の晩の彼女はあの男に殴られていた。(その人はいつも相談に乗ってくれたの)その男もきっと彼女をしあわせにしない。どの男も彼女をしあわせにしなかったみたいに。だから、(次会ったら、告白、しようと思うの)やめてやめてって、もうそれだけしか考えられなかった。(たぶん、もうすぐ会えるんじゃないかな、もう夜遅いけど)だって語る彼女の声がしあわせそうだったから(会いに来てくれると思うんだぁ)それ以上彼女のしあわせを嘘にしちゃいけないって。だって彼女が言ったしあわせだった、はぜんぶ彼女を守るための彼女の嘘で彼女が一番それをわかってて僕は空っぽの声が繰り返すしあわせを泣けない彼女の泣き声みたいなしあわせをもうこれ以上言わせたくなくて聞きたくなくてだから彼女を止めなくちゃって思って僕は走って走って(わたし、)(つぎはほんとにしあわせになれるかなあ。)だって彼女はしあわせになれない!!!


 ……彼女の家についたとき、不思議なことに玄関の鍵は掛かっていませんでした。なぜか彼女は玄関に座っていてなぜかお気に入りだって言っていたワンピースを着ていてなぜか驚く様子もなくて俺がなぜか抱き着くように床に倒れこんだまま彼女の首を絞めるあいだも彼女は笑っていました。『どうしてしあわせになってくれないの』『どうしてしあわせになってくれないのにおれのそばにもいてくれないの』『なんで』『どうして』『すきなのに』『やだ』『やめて』『すき』『どうして』僕は多分そんなようなことを言って、最後の方は、言葉にもなっていなかったと思います。泣き叫ぶ僕を撫でながら、彼女はやっぱりわらっていました、おれのいっとうすきな笑顔で。あとは、ご存知の通りです。ひどい話ですね、僕は今、彼女の生が終わったことに、安堵しかない。今後この手をどれほど恨んで、この身を幾度呪ったとしても、きっと後悔はしない。矛盾してますか?でもすべて一言で片の付くことです。」

 青年はそう言って笑みを浮かべた。どこか自嘲の色を浮かべて、笑う青年のいまだ泣き腫らしたような瞳。


「僕は彼女に、しあわせになって欲しかった。」

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