書房 | ナノ

夏の香り



桃源郷にも多少は…季節というものがある。
下界からの温度を微かに感じる程度だから、僕の勘がいいだけかもしれない。


過ごしやすく微睡みそうな風が心地良く吹くのが常であるからこそ、長年積み重ねてきた日々と違うことがあるとよくわかる。


あぁ、雨が強く降っているのかな。
あぁ、雪が散らついているのかな。

ぼんやり思い浮かべるだけで楽しくなる。

現世との境目が曖昧だったころはよく遊びに出掛けていたんだけど、手続きが面倒になってからは用事を見つけなければ気ままに立ち寄れない。


季節の香りを目敏く嗅ぎつける。
今日は随分と蒸し暑い日差しのようだ。


「白澤さま…お茶下さい。」


手でパタパタと顔を仰ぎながら名前ちゃんが立ち寄った極楽満月。


「現世の帰りでしょ。」


「あれ?わかります?」


自分自身を不思議そうに眺めて首を傾げたから、僕はくすっと微笑んでから答えを述べた。


「そんな気がしただけ。」


大きめの額の汗の粒や、身に纏った空気が地獄のそれとは違う。
たったそれだけだけど。
何万年も生きてる神獣さまを舐めてもらっちゃ困る。


茶筒をポンと音立てて開け、さらさらとスプーン二杯程茶葉を急須に淹れる。
少しだけ冷ましたお湯を注ぎ、わざと濃い目のお茶。

大きめのグラスに氷をがらんと積み重ねて美しい抹茶色が注がれる。
ぱきぱきとヒビの入る透明のそれは風鈴のような音がした。


「はい。お待たせ。」


火照った頬が嬉しそうに飛びついた。
ごくんごくんと大きく喉を鳴らして流し込まれ、僕が淹れてあげたお茶はあっと言う間になくなった。


「…わかったよ。もう一杯ね。」


物欲しそうな瞳が僕を見上げたから、空いたグラスを受け取った。
まだまだおかわりと言われそうな気がしたから先ほどのものに茶葉を足して、お湯を多めに注いだ。


「成仏しない亡者を捕まえに行ってたんです。」


二杯目を飲み終えて名前ちゃんは汗の引いた顔で微笑んだ。
あの嫌味な鬼の下、第二補佐官として働く彼女。
人遣いの荒いあいつとよく働けるもんだ。


「それはご苦労様。でもさ…現世の服じゃなくていいの?」


「ちょうど夏祭りだったんです。浴衣姿の方も多くてなんの違和感もありませんでした。」


渋い藍色の単衣。白磁色の帯。
まぁ確かに浴衣の中に混ざっても浮きやしないんだろう。


「良かったです。現世の夏服は多少…その露出が多いですから。」


前に一度暑い時期に現世へ視察に行く間際、名前ちゃんが僕に泣きついてきたことがあった。


「白澤さま、これがスタンダードなんですか?」


臍や太ももを露わにした髪色の明るい女の子たちが、今年の一押しと解放的な服装をアピールしていた。
読む雑誌が少しだけ極端なんじゃないかと思いつつも僕はごく自然に普通だよと答えた。


「そうなんですね…そうなのか…。」


思いつめた彼女がちょっと痩せますと決意表明して帰って行った。

結局裾が短めの、肩ひもにフリルのついた可愛らしい服装に落ち着いたらしいが、名前ちゃんには現世を闊歩する若々しい肌にカルチャーショックを受けたようだ。


「やっぱり帯で締めないとなんだか落ち着かなくて。」


「そう?僕、現世の服好きだなぁ。柔らかくて皺がつかなくて。」


こうでなくてはならない。こうしなくてはいけない。
そんな決まりがなくて随分と緩くなったもんだ。
身分など関係なく色を纏うことも出来る。
あんまり昔話をすると爺っぽいから言わないけれど、僕はそんなことに嬉しくもなるんだ。


「あぁ、そうだ。これあげる。」


引き出しの中からガラス玉のついた簪を取り出す。
天空を閉じ込めたようにそれは煌めいた。
細かい気泡が入り混じり、深い藍色の球体はまるで銀河のよう。


「あぁ、良かった。よく似合う。」


漆黒の髪にそっと簪をあてがると
、かちゃりと金属の甲高い音が跳ねた。
少しばかり頬を赤く染めた名前ちゃんの上目遣い。
長い睫毛が僕に恥ずかしいと伝えているようだ。


「そんな…頂けませんっ。」


こんな高いものを…と首を横にぶんぶん振るから種明かし。


「買ったわけじゃなくて…その…実は僕が作ったんだ。」


ぐい呑みを作る予定だったのに、きちんと息を吹き込めなくて丸まった藍色。
失敗したガラクタなのに、気泡の入ったまん丸を、僕は桃源郷の夜空のようだと思った。


「私が頂いてしまっていいんですか?」


きれいとため息混じりに名前ちゃんが笑った。


「名前ちゃんにもらって欲しいんだよ。」


テーブルの上に、藍色の光の乱反射。太陽に透けたプラネタリウム。
気恥ずかしくなるように格好付けた台詞を吐いてしまって僕はつい首の後ろを乱雑に掻いた。


「それじゃ…早速…。」


器用に髪をまとめあげると、少し汗ばんだうなじが覗いた。
白い二の腕が袖からひょろりと伸びる姿にごくりと喉が鳴る。

後れ毛が余計に色っぽくて、思わず目を伏せた。


「大事にしますね。」


口角をきゅっと上げて、健康的な笑顔を僕に向ける髪を上げた名前ちゃん。

吹き抜ける風は若芽の息吹く柔らかい香りのままなのに、君のその仕草のせいだろうか、僕の耳には蝉の声の輪唱が聞こえた気がした。





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