×回目のダ・カーポ   風月



 うっすらと目を開けると、彼女が泣いていた。
 ぼろぼろと溢れ続ける涙は、俺が臥せっているベッドのシーツを湿らせていく。重たい腕を持ち上げて、俺は彼女の目元をぬぐった。赤くはれている頬が熱い。しみ込むように伝わってくる高い体温が、縋り付きたいほど愛おしかった。
「大丈夫だ。少し休んだら、またすぐ起きるから」
 なだめるように言うと、彼女は俺の手を握って苦しげに微笑んだ。
「そ、ね。また……っ平気、ね」
 泣き続ける彼女の頬を撫でて、俺はゆっくりと目を閉じた。


 目を覚ますと、木目調の天井が見えた。寝返りを打てば、簡素なベッドが小さくきしむ。
 頭が重いな。そんなことを考えながら、俺は上体を起こした。部屋の中をぐるりと見渡す。
 天井と同じ焦げ茶色の壁。どこにでもありそうな本棚と、くたびれた絨毯。窓辺には萎れかけた花が活けてある。時刻は真夜中なのか、ガラスの向こうに見える草原は月明りでかすかに照らされているだけだった。

 ここはどこだろうか。知っているような気もするし、初めて見るような気もする。 寝起きの頭でつらつらと考えてみるが、いまいち分からない。たぶん、知っている場所だ。その程度。

 カタン、思考を遮るように、そんな音がした。目をやると、部屋の入口に一人の女性が立っていた。亜麻色の柔らかい髪。澄んだ栗色の瞳。しっとりとした象牙の肌が、木漏れ日のような温かさを感じさせる。
……この人は。風に煽られたカーテンのように心が揺らめく。曖昧だった意識が一瞬透き通り、また霧に隠れた。色々なことが曖昧だというのに、彼女のことは分かる気がした。

「……レペテ」

 確認するようにその名を呟くと、彼女はその響きを噛みしめるように頷いた。
ああ、やはり知っている。
レペテがこちらに駆け寄ってくる。喜んでいるのに、どこか泣きそうな顔をしていた。寂しがり屋の一面が出ているのだろうか。俺は両手を広げて迎え入れた。

「おはよう……! 起きてよかった」

 彼女が俺に抱き着いて言う。そんなに長く寝ていただろうか。それすらもよく分からなかったが、ひとまず「悪かった」と謝って、俺は愛しい彼女の髪を撫でた。

 ――月曜日に生まれて。
 彼女を愛していることだけを覚えていた。


 レペテに聞いた話だと、自分は結構長い間臥せっていたらしい。道理で起きた時に彼女があんな態度だったわけだと、俺は一人納得した。記憶の曖昧さについては、彼女もよく分からないと言っていたが、時間が経てば思い出すだろう、とかなり楽観的に結論付けた。レペテが分からないことは全部教えてあげると言ってくれたことと、彼女を覚えていることも要因の一つだ。

「ね、シュイ」
「ん?」

 彼女が俺を呼ぶ。この名前も、レペテに教えられて初めて思い出した。なかなか重症だとは思うけれど、言われればすんなり分かるのだから不思議だ。すり寄ってきたレペテが俺の膝の上を陣取る。ふわふわの髪の毛から、ほのかに甘い香りがした。甘えてくる仕種に苦笑しながら「なんなんだ」と問うと、彼女は「なんでもない」と答えて笑った。

「シュイはあったかいね」
「レペテの体温が低いんだろ」

 幸せそうにつぶやくレペテを抱きしめて、自分も幸福感をそっと味わった。

 ――火曜日に洗礼。
 名前はシュイ。


「シュイ見て! 花がいっぱい」

 天気がいいからと二人で出かけた先で、レペテは嬉しそうにそう言った。薄黄色の花畑の真ん中でくるくる回る。陽だまりの笑顔は暖かく、白のワンピースがそよ風のように踊った。背格好は大人のものなのに、その素振りはまるで少女のようだ。まぶしいほどの明るさに、思わず目を細める。

「ちょっと摘んで帰るか?」
 あまりにも楽しそうにしているので聞くと、彼女は「え?」と首をかしげた。
「寝室の窓辺に、花瓶があっただろ?」

 小さいガラスのやつが。と続けると、レペテは「ああ」と零して迷うように視線を泳がせた。ちらりとこちらを見て「でも、すぐ枯れちゃうでしょう?」と呟く。かわいらしいその様子はとても微笑ましかった。俺は笑って、手近な花を一輪摘んだ。驚いている彼女にそれを差し出す。

「そうしたら、また一緒に摘みに来よう」
 それなら良いだろ? と告げると、レペテは一瞬呆けてから、ぱっと明るい顔になった。俺の手を包み込むようにして、花を受け取る。かと思うと、彼女は俺の指をぎゅっと握った。どこか不安げなまなざしで尋ねる。
「約束してくれる? 萎れたら、一緒に新しい花を摘みに行くって」
 ぼそぼそと零される声に小さく笑って、俺は自分の指を彼女のそれに絡めた。同じくらいの体温を互いに分け合う。すべてが愛おしかった。
「ああ。約束だ」

 ――水曜日に結婚。
 ずっと共にありたいと、願った。


 一行、二行、三行ほど読んだところで、目をこする。瞼をしばたかせて、読みかけの本に視線を戻した。一行、二行……また目をこする。思わず「ダメか」と独り言が出た。

 何故だか、今日は朝からずっと眠たい。対して夜更かしをしたというわけでもないのだが、どうにも瞼が重かった。読書でもすれば目が覚めるかとも思ったけれど、どうやら失敗らしい。ここはひとつ、観念して昼寝でもした方がよさそうだ。そう考えて、本にしおりを挟んで昨日活けた花の隣に置く。

 一度軽く伸びをして、俺はベッドのシーツを整えた。やわらかな布地がさらに睡魔を誘う。さあ寝ようかという時、コンコンという軽いノックと一緒にレペテが部屋へ入ってきた。俺の様子を見て驚いたように目を開く。

「シュイ? どうしたの?」
「レペテ。いや、少し眠くて」
 ちょっと眠るな。と苦笑いで彼女に答える。そのまま布団にもぐろうとすると、突然レペテが俺の胸元に飛び込んできた。ぶつかるような勢いに、一瞬目が覚める。力の限り抱き着く彼女の小柄な体が、怯えるように震えていた。

「……どうして」
「レペテ?」
「いやよ、シュイ。いや」
 子どもがぐずるように彼女が首を振る。泣き出しそうな声色に、俺は気の毒な気持ちになった。しかし、どうしようもなく眠りたい。
「ごめんな、すぐ起きるから」
 諭すように言うと、レペテは捨てられた子猫のような頼りない瞳で俺を見上げた。首にしがみつくように腕を回して「ご飯作っとくからね」とか細い声で言う。俺は彼女を安心させるように、その暖かい背中をぽすぽすとたたいた。

 ――木曜日に病気になった。
 睡魔が嗤った。


 酷く眠い。
 昨日ずいぶんと眠ってしまったにも関わらず、どうしてこんなに眠たくなるのだろうか。逆に睡眠をとりすぎてしまっているのかも知れない。そんな風に思いながら、俺はぐるぐると腕を回した。寝る体勢が悪かったのか、体が凝り固まってしまっているかのように動かしづらい。簡単な柔軟体操をしていると、またレペテが部屋に入ってきた。俺を見て、心なしかほっとした表情で「調子はどう?」と尋ねてきた。
「まだ何か眠いけど、まあ大丈夫だ」
 その落ち着いた様子に、つい素直に答えてしまう。しまったと思った時には遅く、彼女は再び不安げな顔を見せた。傍に歩み寄ってきて「シュイ……」と縋るような声を出す。何とか安心させたくて、俺は彼女の頭をそうっと撫ぜた。
 しかし、その予期せぬ温度差に俺の方が焦ってしまった。何気なく触れた彼女の体温が、自分と比べて随分と熱い。

「レペテ。お前、熱があるんじゃないのか? 俺よりずっと熱いじゃないか」
 言ってから、俺は一瞬迷った。彼女は、いつも自分より暖かかっただろうか。それとも冷たかっただろうか。ぐるりと思考が混乱したが、そんな自答はすぐに打ち切る。そんなことは問題ではないほど、彼女の今の体温は高く感じられた。その熱い手を引いて、ベッドの方へ誘導する。

「寝ていろレペテ。何か今、冷たいものを――」
「……違うの」
 持ってくるから。という言葉を遮って、彼女がつぶやく。意味が分からず「え?」と問い返すと、レペテは膝の上で手を握りこみ、震える声で言葉を続けた。
「違うのシュイ。私じゃないの。私が、熱いわけじゃないの」
「……レペテ?」

 説明を求めて、彼女の名前を呼ぶ。だというのに、その瞬間ぐらりと視界がゆがむほど強烈な眠気が俺を襲った。かき混ぜられたように歪な世界で、彼女が泣いていた。悲痛な声が耳に届く。
「嫌だよシュイ。約束したよね? 一緒に……」
 視野が急速に狭まって、視界がどんどん暗くなっていく。

 ああ、待ってくれ。大事な彼女がしゃべっているのに。大事な彼女が泣いているのに。どうしてこんなに眠いんだ。まるで俺が起きているのが悪いみたいじゃないか。閉ざされていく世界の中で、窓辺の花瓶がきらりと光った。

 ――金曜日には危篤と変わり、
 うなだれた花が最後に見えた。


 うっすらと目を開けると、彼女が泣いていた。
 ぼろぼろと溢れ続ける涙は、俺が臥せっているベッドのシーツを湿らせていく。重たい腕を持ち上げて、俺は彼女の目元をぬぐった。赤くはれている頬が熱い。しみ込むように伝わってくる高い体温が、縋り付きたいほど愛おしかった。
「大丈夫だ。少し休んだら、またすぐ起きるから」
 なだめるように言うと、彼女は俺の手を握って苦しげに微笑んだ。
「そ、ね。また……っ平気、ね」
 泣き続ける彼女の髪を撫でて、俺はゆっくりと目を閉じた。
 瞼が落ちる寸前に、ふと、前にもこんなことがあったような気がした。

 ――土曜日に死んだ。
 またなのね。と、彼女が嘆く。


 月曜日に生まれて。
 火曜日に洗礼。
 水曜日に結婚。
 木曜日に病気になった。
 金曜日には危篤と変わり、
 土曜日に死んだ。


 木目調の木の部屋で、亜麻色の髪の女性は独りだった。ベッドのそばに膝をつき、自分のぬくもりを分けるように、愛しい男の手を握りこむ。閉じられた瞼の上に、開けて欲しいと願いながら、熱い涙を注ぎ続ける。

 ――ながい長い日曜日。




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