※パラレル


息をのむような、というのは比喩ではないと初めて知ったのは、もう何年か昔の話になる。
俺は奉公人として仕えるために13歳の時に初めてあの人を見た。彼の家は薬種商を営んでおり、雲雀家といえば近所で名の知れた名家だった。そこの一人息子である彼、恭弥は幼い頃から三味線を習っていて、その腕前は門下の誰よりも優れていたと言う。事実彼は後に教える側つまり師匠になった。無口で気まぐれなところがあり、また名家の一人息子として育てられてきたため傲慢な兆しさえあったがしかし彼に習いたいという生徒は後を経たなかった。何故なら、つまり彼の容姿が息をのむように美しかったからである。

俺は寿司屋を営む父親と2人で暮らしていた。なかなかに繁盛しており、贔屓にしてくれる家や店も多くあった。雲雀家もそのうちの一つで、そこから縁あって奉公となったのだった。
雲雀家に仕える前から俺の元に縁談の話は少なくなかった。寿司屋を手伝って様々な場所に顔を出すことも多く、その時誰かが見初めてくれていたのだと思う。どれも悪い話ではなかったが断り続けていた。相手に決して容姿や性格の悪いというのはいなかったが、しかし言ってしまえばそれだけであった。
雲雀は美しかった。性格に難はあるだろうがしかしそんなことは気に病まないほどに惹き付けられた。容姿だけの人間ではない。一目見て強い引力を感じた。柔らかそうな肌に弧を描く眉、意志のある目、結ばれた口もと、交差された指のしなやかさに見とれた。彼の元で一生仕えていけると、静かな予感のように思った。

彼に仕えていたのは俺だけではなかった。他にも昔から雲雀家に恩があるという集団が彼の寝食を世話していたのだが、ある時期を境に彼らは数を減らし、やがては俺一人を残すのみとなった。彼の難の一つに大人数が群れ集まるのを嫌うというのがあり、これが原因かと思ったが違っていたらしい。人づてに聞いた話なので真偽のほどは定かではないが、どうも彼が世話は山本にさせろと言ったらしかった。そういった訳で彼と俺は後々は事実上2人暮らしの身になったのだった。


彼の難というのがこれは数えると片手では足りないほどあるのだが、まず不衛生を嫌い、また美食家であり、これには俺が寿司屋の息子であったのが多いに役立った。彼は特にかんぱちとひらめのえんがわを好んで食べた。口先ではいつも君の父親の方がずっとうまいと言いながらもよく握れと俺に命令するのだった。彼の物言いはいつも命令のようで、それは誰を相手にしていても大概変わることがなかった。自信に溢れているのが態度に見えていた。そして天の邪鬼でもあった。俺に、嫁をとらないのか早く出ていってくれ1人で暮らしたいと度々言うくせに、少し彼の女弟子に優しくしようものなら激しく睨み付けてくる有り様だった。

そして俺だけでなく彼の弟子までを苦しめたのは彼の腕っぷしの強いことであった。彼は稽古をつけている最中でも容赦なく弟子を殴り蹴っていた。誰がそんなことを教えた何で覚えていない云々と罵りながら撥で頭を殴られた弟子の数は決して少なくない。しかし当時そのような事例は他でも多少はあったらしく、浄瑠璃の太夫や人形使いの稽古にも似たようなことがあったと聞く。だがそれらに比べ彼の暴力は度を過ぎたところがあり、嗜虐の傾向があるのではないかと噂される時さえあった。それについては俺は否定も肯定も出来ない。自由の許されない幼少時代を送ったと聞くからそこに原因があるのではないかと類推する程度であった。しかし彼の三味線の腕前が確かなのは事実であったし、また人を惹き付ける魅力も十二分にあったため大概は問題にならず万事は過ぎていった。


名前に由来するのではないだろうが彼は小鳥を飼いその音を聞くのを好んでいた。一番に可愛がったのは鶯で次が雲雀であった。同じ名前ゆえ抵抗があって一番に思えなかったのではないかと思い本人にも質したがそれは関係ないと言われただけだった。雲雀は天に向かって飛揚する傾向があり、その声を楽しむには籠から放ってその姿が見えなくなるまで舞い上らせるのが正しいと聞く。いつもは難しい顔をしていることの多い彼も雲雀を放すその時は微笑むことが多く俺はそれを眺めるのが好きだった。雲雀というのは全くいい鳥であるとさえ思った。



その夜も、明日は雲雀を放すと彼に命じられ段取りを考えながら俺は浅い眠りに落ちていた。
午前3時すぎごろだった、何かが落ちる音とうめくような声に目を覚まし急いで襖を開け次の間に駆け込んだ。燈火をつけて見ると雨戸が抉じ開けられ誰かが出ていった直後のようで、足元に何か熱いものが触れたと思ったら果たしてそれは鉄瓶だった。中からは熱湯がこぼれ出しており、まさかと彼の枕元に寄るとうめく声の合間に一言、見ないでと告げられた。彼の顔はいとも簡単に、一瞬にして変えられてしまったのだった。彼に習いその暴力に腹を立てた何者かが鉄瓶に沸かした湯を浴びせかけたのだろう。彼の弟子には富裕な家の者もあったのでそれが根に持ったと思われる。その心ない湯によって彼の顔にはひきつれた肌と火傷が残されたのである。見ないでというその声があまりに懇願するようであったから俺はただ目を瞑るから大丈夫だとひたすら繰り返すばかりだった。

彼はその夜、雲雀恭弥であることを完全に破壊されたのであった。



そして俺はいま針を片手に寝床の上に座っている。白眼に比べ黒眼は柔らかく突き刺しやすいと何かの文献で読んだことがある。ひと度針が入れば後は眼球が白濁しそれで終わりであるらしい。たったそれだけで彼は元の姿を取り戻せるのである。初めて見た13の時からずっと彼の姿は、その爪先さえ脳裏にありありと思い描くことが出来る。俺の中にはまだ以前の雲雀恭弥が生きている。彼は人前へ出たがらなくなった俺にさえその姿を殆ど見せなくなってしまった。けれどそれも終わる。俺がたった一刺しするだけでまた彼は生き返るであろう。

怒鳴られてもいい殴られてもいい、見ないでと言った彼の言葉をずっと守ることが出来るなら奉公人としてそれが忠義である。


「ひばり、ちょっと待っててくれな」

俺はその針を右目へと向かい構えた。






盲いた目で貴方を愛す




谷崎潤一郎「春琴抄」より(本物はとても素敵な作品です)





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