アドレス教えてくれないか、と言われた。食堂で、突然。
隣にいる京子は天津飯をすくったれんげを宙に止めたままにこにこして見ているし、あたしには訳が分からないし、何でとか嫌だとか、正直言いたいことはあった、山ほど。けれどそれ以上に、食堂中の視線が集まってきているようで、何だか首筋のあたりがじわじわこそばゆくって、結局はすぐに教えてしまった。奴はへらりと笑って、後で連絡するとだけ言って犬のようにころころ走り去ってしまった。
山本くんと花ってそんなに仲良しだったっけ?京子が相変わらずにこにこしたまま尋ねてきたけれど、全くそんな事はなかった。中学生の頃に一度同じ委員会を任されていた気もするけれど、それぐらいのものだ。接点などない、はずなのに。

山本からメールで伝えられたのは、一緒に旅行に来てくれないかという、しごく面倒な用事だった。




了平は最初、反対しているみたいだった。
一応これでも付き合っている(と世に言う)身なのに、山本もよく誘ってきたものだと思う。下手したら了平に殴られていたかもしれない。結果的には、そういう事態は起こらなかったけれど。
あいつも色々あったからな、と最終的に1人で納得すると、私の肩をがっしり掴んで、仕方ない、元気づけてやって来い、と言っていた。彼女(と世に言う)(実際のところ、私にはあんまり自覚がない)をそんなところに放り出すのもどうかと思うけれど、それよりも他人の励ましを優先するような了平のあの性格が、あたしは結構好きだったりする。

了平は、底抜けに「いい人」だ。






色んなことが頭を駆け巡って、寝付けないでいた。

特に変わったことをするでもなく、山本との旅行は順調だった。飛行機に乗って、現地についてぶらぶら散策して、普通にチェックインして食事を済ませて今に至る。部屋は別だった。さすがに同室だったらあたしも来なかっただろうし、了平にも止められたと思う。
あいつ、そういうの嫌がるから。尋ねた訳でもないのに、勝手にそう言って困ったような顔をして笑った。

波の音が耳の奥の方に染み付いていた。
山本がこの場所に引き寄せられたのも、それにあたしが巻き込まれたのも、恐らく何かの引力なのだと思う。月の引力が波を生み出すように、引力に吸い寄せられてここに居る。
そうなると、引力は今ここに居ないあの人だろうか。それも何となく癪だった。そんな事させるぐらいなら、自分で旅行に来ればいいのに。面倒事だけ他人に押し付けて。


「黒川、起きてる?」

不意にノックの音がして覚醒した。枕元の時計を見れば2時半である。あいつ、まだ起きてたのか。正直げんなりしながらドアへ向かった。

「‥何、こんな時間に」

「何か寝付けなくって、黒川何してるかなーと思って」

そこで言葉を切ってあたしの格好を眺め、疲れて寝てたか、と聞いた。私の服装は昼間のそのままである。面倒くさくて、化粧さえ落としていない。


「あたしも寝てないわよ。疲れすぎて逆に覚めてる」

「はは、同じだ」

「‥‥入れば?」

「ん?あー…おぉ、」


入れる私も私だが、入ってくる奴も奴だ。やっぱり一度殴られるべきかもしれない。
手持ち無沙汰になりかけていた奴は、あたしがベッドに腰かけたのに倣って端の方に座った。机の上に投げ出してあった、飛行機内でもらった知恵の輪をいじりだす。眺めながら、ひっそりあたしは溜め息をついた。
他人から見れば奴とあたしは健康的な学生カップルなのだろう。事実、今日のうちに何度かそういう扱いを受けた。その度に奴はやんわりと受け流していたけれど、あたしは何も言えず固まっているだけだった。
売店のおばちゃんに話しかけられても、その後で山本にこっそり謝られても、どうしても、あたしの口は開かなかった。

「黒川ー」

「‥なに、よ」

「いや、今の状況って何なんだろうなと思って」

は、と言いかけて辺りを見回した。深夜に、旅行に来た男女が2人でベッドに座っている。シチュエーションだけは完璧である。ただ本当は、山本もあたしも、全く健康的なんかではなくって、山本なんて多分頭のなかがぐちゃぐちゃで整理がつかないままここまで来て、そしてそもそもあたし達はカップルなんかじゃない。一度同じ委員会だったかもしれないだけの間柄なのだ。
あたしは溜め息をついて、上体をひねって山本を見やった。

「これ以上近寄ったら殺すからね」

「いやでも、俺実はうまいらしいぜ。自分じゃ分かんねーけど」

「‥さいあく。何がとか、絶対聞いてやらないから」


山本は俯いてくつくつ笑うと、じょーだん、と言った。知恵の輪をかしゃんと外して、目のところまで持ち上げて眺める。



「黒川には笹川先輩いるもんなぁ」



何でだか急に、泣きたくなった。
いるから何、とか、もっともっと減らず口たたいてやりたかったのに、口を開くと泣いてしまいそうで出来なかった。
突き付けられてどうしようもなく思い知らされて、自分が何をしていたか気付かされる。
あたしは、一線を踏み越える気でいた。具体的に何がなんかじゃなくって、自分の前に引いたはずのラインを飛び越えてしまおうかと、ずっとずっと、そんな事ばかり、を。


「黒川…‥?」

返事がないのを不審に思ったのか、山本が振り向いてこっちを見た。ぞっとしてベッドから立ち上がった。いま近寄ったら、取り返しがつかなくなりそうで怖かった。初めて、奴を怖いと思った。近寄らないで優しくしないで触らないで出ていって。押しのけようとしたけれどその手を掴まれて、堪えきれずにぼろぼろ泣いた。
両手を掴まれながら、ごめん、と言われた。本当は謝るのはあたしの方だった。何度も謝られて手を握る力は強くなっていった。きっと、かわいそうな生き物を見る目をしている。

背中側の窓から月明かりがさして足元を照らしていた。本当は、男も女も全部ぜんぶ捨てたかった。


引力から断ち切られて、あたし達こんな世界の片隅にいる。





三秒後には目を伏せて






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