名前という名の固有名詞はどんな時でもフラグを孕んでいる
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サラサラと流れる川面にキラキラと太陽の光が反射しているその光景は、晴れ間の時ほど見ごたえがあるものだ。
基本流れる水の音しか聞こえず、時折鳥の囀り等が聞こえてくると癒やされるものがある。
極々たまに動画投稿サイトに上げられている自然の音が撮られているASMR動画を聞く時あるが、近場に実際の川等があるのであれば。出不精でもなければ、そこに足を運んで散歩がてら行くというのも悪くはないだろう。
鮫川河川敷という散歩コースも実際にあるし、歩いている老人達の姿もあった。
夏場なんかは打ち上げ花火が上げられる規模の祭りも開催され、地元の人ならば河川敷でブルーシート等を敷いて見上げる人もいるくらいだ。
川魚も幾匹かの種類が泳いでいて、たまに釣り竿を持っている人を見かける事もあったか。
「キャンキャンッ!」
ふと、小さな子犬の鳴き声と一緒にバシャバシャと水飛沫の音が耳に入ってきた。
音の発信源の方へと視線を向けて思わず凝視してしまった。
いや、音だけで大体の事くらい察して然るべきと言われてしまえば、それまでなのだが。
茶色い毛並みの子犬が川に落ちて溺れていた。その光景を凝視しない奴は一人の人間として流石にどうかと俺でも思う。
が、ここですぐ様川に飛び込んで溺れている子犬を助けに行かない。というか、行けないのが如月シンタロー。
金槌という訳ではないのだが、運動神経に関しては元ヒキニートのなのでお察しくださいレベルだし。何よりも自分以外の人がいるのであれば、警察への通報などをお願いしたいところ。
それなのにも関わらず、普段ならばただただ何かをすることもなく暇な人が散歩をしていたり釣りをしている人などがいる筈なのに今日に限って誰もいない。
「……っくそ!」
子犬が溺れている。
川の流れが激しい訳ではない為、今も流れる川は綺麗な水面のまま。ただ、子犬のサイズが小さい故に底に足が届いていない様子。
このままだと体力を使い切って、死んでしまう可能性がある。
動物好きか嫌いかと問われれば普通に好きな部類に入る。
引きこもり生活をしていて、少しでも俺の気がマシになればという色んな意図を込めて兎を飼わせてくれていたくらいだし。
……それに、川と子犬という二つのワードが今のシンタローの頭を占めていた。
転けてしまわないように注意しながら川べりを滑って落ちていき、そのままの勢いで川に入っていく。
変わらずバシャバシャと荒ぶりながらも、必死に沈まないように暴れている子犬に一歩また一歩と近づいていく。時折、足元の丸っこい石に滑らせて転けかけてしまうものの何とか耐えてそれでも子犬にへと近づく。
あと少し、もう少し。
時折「おい、後もうちょっとお頑張れよ!」とらしくない事を口にしながら、内心では頼むからマジで沈んでくれるなと誰にとか分からず意識もしないままに祈っていた。
川の流れがそれ程早いという訳ではないが、それでも普段感じない所からの水の流れによる力に足が持っていかれそうにながらも手を伸ばして、後一歩分前に進めば子犬に触れられる。
瞬間だった。
「っはぇ!?」
「キャンっ!?」
踏み出した足がボチャンッと音を立てながら、目の前の子犬と一緒に水底へと沈んだ。
そこだけ異様に底が深いとかそんなレベルではなく。落とし穴に落ちてしまったかのような。
何とか耐えていた筈の子犬も一緒に沈んでいくその様に、思わず片方だけではなく両手を伸ばして抱え込むものの。足はまるで何かに掴まれたかの様に、水底へと引き摺り込まれた。
衝動的に目を瞑る間際、水底から見えた空がつい先程まで青かった筈なのに。何故か赤く染まっていた。
頭ではダメだと分かっているはずうなのに、口から次々と空気が漏れ出ていく。
意識が嫌でも落ちていくのを感じ、せめて抱きかかえてしまった子犬だけは助けたいと視線を落として、そこで初めて視線なんか向けなければ良かったと後悔した。
だって……。
◆◆◆◆◆
2011年4月27日(水)
「っ!?」
「……あ、えっと、おはよう、ございます」
「ぇぁ、……おはようございます???」
ガクンッと頭が落ちて台に額を打ちかけた。
外は雨が朝から降り続いていて、ジメジメとしている。
予報では明日まで続くらしく、そのお陰か勢いが止む気配は生憎と無さそうだ。
一瞬、ぼーっとしてしまったがすぐ目の前に色素が薄めの青年が立っていった。
雨の日は特に客足が少ないからといって、勤務中にねこけてしまうとか流石にヤバすぎんだろ。
「えっと、魘されていましたが。大丈夫ですか?」
「……えと、大丈夫、です。
はい、ごめんなさい。何か御用でしょうか、御用ですよね……あの、眠りこけてしまっててすみませんでした……」
「いえ、ただ魘されている様子だったので、ちょっと気になって……」
冷やかしとかではなく、本を買いに来たのは本当なので本棚の方に行きますねと。指をさして灰色の青年は本棚の影に消えた。
消えたのを確かに見届けてから、俺は両手で顔を覆ってから深くため息を一つついた。
頭痛持ちは、雨の日なんかは気圧の影響により頭痛を起こし、その起こる前兆として強い眠気に襲われる事もあるのだとか。
あくまでも他人から聞いた事だし、それ自体も正直に言っていつ聞いた事だったかも忘れてしまった程度だ。
確かに三半規管は他人と比べて弱いし、ストレスで簡単に気持ち悪くなって吐くくらい胃も弱い方ではあるが。頭痛持ちって程じゃない。
夜中に徹夜でゲームのし過ぎだったり、動画とかの見過ぎとかで言い方は悪いが漸く頭が痛くなったりする程度なのだ。
あくびを一つ二つとこぼしながらも、改めてベストポジションの位置を確認しながら肘をつく。
雨が窓ガラスを叩く音は、思い出せない悪夢による焦燥感を柔く拭い去ってくれる。
魘されていたと先程の青年は言っていた。実際、背中にじっとりと感じる汗ばみへばりついてくるTシャツは気持ち悪い。気分転換にとレジ台の上に置いている小型のラジオの電源を入れるといいう手もあったが、何故だかその気分にならないから不思議な話だ。
どの程度の時間が経ったかは分からないが、そんなに長い時間が経った訳ではないだろう。
青年が三冊の本を持って少しだけ気落ちした雰囲気でレジに戻ってきた。
漢シリーズの記念すべき第一巻である『素敵な漢』とここ最近、高校生に人気の『違いの分かる超勉強術』。
……後、年頃の青年が手に取るとはまぁ中々に予想し辛い『魔女探偵ラブリーン〜恋する名探偵〜』というピンクや白を基調とされた本。
最初はこれに更にもう一冊手にとって気にしている雰囲気だったが、その直ぐ後に財布を開けてにらめっこした後に肩を落としていたから、恐らく予算オーバーだったのだろう。
「これとこれ、後これの三冊をお願いします」
「はい。ブックカバーは如何なさいますか?」
「あ、じゃあこっちの小説の方だけお願いします」
「かしこまりました。では、合計三点で税込み価格で五千二百円ですね」
「……えっとじゃあ、五千と五百円でお願いします」
「はい、お釣りは三百円となります。袋に詰めますんで少々お待ち下さい」
台の下、足元近くに取り付けているフックに引っかかったビニール袋を一枚千切り取る。ついでに一部が折り曲げられた状態の綺麗なブックカバーを一枚取り出す。
頼まれた小説に手早くブックカバーを装着する。
装着させ終えた後、台の上に設置されているレジの直ぐ側に置いている指濡らしに人差し指と中指を濡らし、袋の口を開ける。
バーコードを読み込み、つい先程お金を受け取り精算を済ませた三冊の本を一冊ずつ丁寧に袋に入れていく。
最後にとっての部分をねじって、お客さんである青年が持ちやすいように工夫をする。ま、店を出てすぐに袋の中身に用があった場合鬱陶しいだけでしかないんだがな。
「はい、お待たせしました。こちらをどうぞ」
「ありがとうございます」
「……」
「えっと……」
「?どうか、されましたか?」
商品を手渡して、お客様との関わり合いはこれでおしまい。
……の筈なのだが、青年は三冊の本が入ったビニール袋を受け取ってそのまま動かない。
えっととか、あのとか意味のない音を口から涎の様に落としていくだけ。それが、何か言葉を探しているう際にこぼれ落ちているものだという事くらいは流石の俺でも分かる。
ただ、青年が俺に何を話そうとしているのかがイマイチ理解に苦しんだ。
確かについ先日、親父さんが経営している店ですれ違った。その時は花村と里中の二人が一緒にいたが、見た目同年代そうだったから八十神高校に通っているのだろうという事くらいは簡単に予想がつく。
更には稲羽市は田舎に位置する。
そして八十神高校は、昨今の少子高齢化の縮図とも呼べる学校だ。噂で聞いた程度ではあるが、あの高校は全学年が三クラスずつしか無いらしい。
俺が一年と半年ちょっとしか通わなかった高校でも、六クラスはあった。そんな少数なのだから、同じクラスになったとかという事があっても別になんら可笑しくはないだろう。
そして田舎町の中でも数少ないながらもありふれた寂れた商店街にある何件かある店の内の一軒に俺は働いている。
だから、まぁ。この間の時に花村達が俺の事を話していても別になんら可笑しい事ではないだろう。
でも、その程度の人物でしかない筈だ。
ゲームとかで例えるならば、別に名前もなにも出ない店の一店員が俺というポジションでしかない筈だ。
「あの……」
「はい?」
「俺、鳴上悠っていいます。花村達や後、奈々子から貴方の事を何度か伺って」
「……ななこ?」
「あ、えっと小学生の女の子です。俺の従兄妹で、そのラブリーンの新刊をお願いされたんですけど」
突然の自己紹介と"ななこ"という小学生の女の子の名前を口にされて思わずぽかんと間抜けな返事をしてしまった。
少なくとも、あの見た目にそぐわなかった幼児向けの小説を購入する事になった経緯は分かったが。
少し自分の中で色々と噛み砕いて、ふと今月の頭にあった事を思い出した。
そうだ。彼は花村達の同級生(俺の中での予測による暫定)であるとかよりも前に一つの事を既に知っているじゃないか。
てか、彼の言う"ななこ"ってあの刑事さんの娘である奈々子ちゃんの事じゃん。
平仮名で聞き返してしまったのが何だか気恥かしく思えてきたわ。
「あー、はいはい。奈々子ちゃんね。
って、そういやアンタって刑事さんが言ってた甥っ子さんか」
ドミノ倒しの様にパタンパタンと次々にこれまでの過去の出来事がフラッシュバックしていく。
パッと見他人が見ている分にはアルバムの写真が机の上にばらまかれている状態みたいな感じだが、それでも俺にはその程度で十分だった。
合わない合わないと思っていたパズルのピースが思わぬところで、ピタリとハマったような感覚とでも言えば伝わってくれるだろうか。
「本屋に行くと伝えたら、留守番は任せてと言う代わりにに、この本と本屋のお兄ちゃんによろしくと言われてしまいまして」
「あぁ、付近の子の中でもあの子は文字ばっかの筈の小説もきっちり読む子だからな。
……何だかんだで俺も、数年はここにいるもんでな。そんでもってこの田舎町だから、大体の奴には顔馴染みになる」
「あはは、でまぁそんな感じに色んな人から貴方の事を聞いたもんで。合う機会があるならば、その時にきちんと挨拶した方がいいかなって」
「……はぁ、何というか。律儀ですね」
「ストレートに変と言ってくださってかまいませんよ」
それはそうだ。
たとえ奈々子ちゃんにそう言われたからといって、実行に移せる人なんてどれだけいる。いくら彼女が世間一般の中でも殊更いい子だったとしても。
それと彼女とは無関係だ。
それでも態々刑事さんの甥っ子さんが俺に挨拶をしてきたのか。
……全くもって分からん。
自慢ではないが、高校生時代までのテストを全て百点満点を取ってきた俺だが。アヤノ達がいなければ他人の考えている事とか、その雰囲気の流れとやらが理解できないのだ。
コミュ障というのは、八十稲羽にやって来て二年間。本屋の店員として働いていても治っている様子は残念なことに皆無だ。
治り始めているという気配すらないのだから、コレは悲しいことに油の頑固汚れよりも手強いのだ。
だが、ソレ以外ならば。
情報さえ俺自身の手元にあるのであれば、探偵の真似事みたいな事くらいは出来る。
ふと、鳴上悠と自己紹介した目の前の青年が購入を諦めた本を考える。
コーナーは、主に趣味系統を取り扱っている場所。
青年が目を向けていた棚に陳列されていたものは、虫捕り、家庭菜園、釣りなどといったものだったか。その中でも確か直近では初心者向けの釣り本を新しく仕入れた筈。
それも彼が先程購入した漢シリーズ等と同日に、店頭に広告を貼っていた。確かあれのタイトルは『初心者向け釣り実践本』だったか。勉強術よりかは安いが、漢シリーズよりかはちょっと高かったか。
これにラブリーンの小説となると、まぁ彼の今回の予算が五千円くらいだと仮定してみれば。まぁ、ちょっとオーバーするか。
働いている人間ではなく高校生だ。
あの刑事さんがお小遣いを一銭もあげていないってことは無いだろうが、まぁ中々に値の張る小説を五冊も十冊も買えないだろう。
だが、ジュネスという大型複合スーパーが出来てからというもの。四目内さんは自分の趣味のものを仕入れる傾向を以前よりも強めた。
だからこそ、意外にも都会の方からそこらの古本屋にすら置いていない本を探しにやって来るくらいだ。
そういった本を取り扱う代わりに、一冊一冊の数が少ない。
だから品切れとかが割と頻繁に起こりやすかったりもするのだ。
「……『初心者向け釣り実践本』」
「え?」
「如月伸太郎だ。
今回はどうやら予算不足だったようだけど。ま、態々自己紹介してくれたからな。
その礼というのはちょっと可笑しいけど、一冊分くらいなら置いとくよ」
「あ、ありがとうございます……。って、よく分かりましたね」
「何となくだよ。もう夕暮れ近いが、まだここ以外にも買い出しに行かなければならないところあるだろ」
「は、はい。あの、そう日を経てずにまた来ますので!」
「っくく、そんなに焦らなくたって別に直ぐさま無くなるものって訳でもないっての。
……ふぅ、またのご来店お待ちしております」
店の出入り口を通り抜け、外に出ても尚ぺこぺこと腰を曲げて青年、いや鳴上は去っていった。
あ、ちなみにきちんと購入していった本が入った袋は忘れずに持って帰らせたのでご安心を。
レジ対応している間、少し離れたところに行っていた椅子を手繰り寄せて座り直す。
ぎぃっと音をたてたが、気にせずベストポジションを探りながら深く座る。
肘をついて、ふとこの八十稲羽に住まう人々の事を考えて思った。
始まりにして原点と呼べる四目内さん然り。お隣さんである花村然り。中学時代の頃から何度か顔を合わせて、勉強の面倒を極々稀に見る事になった里中と天城の二人組然り。あの刑事さん親子然り。巽然り。
四月の頭、都会から親の都合で引っ越してきた先程の青年、鳴上悠然り。
誰も彼も、揃いも揃ってこの俺、如月シンタローに無いものを持っているという事に何も思わない訳ではないが。それでも、こうも続いてしまうとやはり嫌でも抱いてしまう感想だ。
「この街の人達、コミュニケーション能力高過ぎんだろ……」
全員が全員セトクラスかと問われれば、そこまでではないが。だとしてもやっぱ、RPGのゲーム主人公並だと俺は改めて再評価したのだった。
そして、ここ暫く小説やネットサーフィン等はしていても。先程から例としてあげているゲームを最近は手を付けられていなかったが故に、更にこれが現実だからこそ俺は珍しくその考えに小さな候補とですら行き着かなかった。
どんなゲームでも、ストーリーが存在している限りどんなものでも固有名詞というモノが登場したら。それにはほんの僅かなものでもフラグというものを内包しているのだという事に。
鳴上悠という主人公に如月伸太郎と名乗ったその瞬間に、テロップには『本屋の店員』から『如月伸太郎』に変わったのだという事に。
あぁ、そういえば悪夢だった筈の夢で見た内容ってなんだったっけ。
◆◆◆◆◆
少年は目を向けた。
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