ハロー、亀の騎士様


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  1. 人間という生き物は絶望に落ちやすく出来ている。
    世界は何にでも染まり易く変質しやすい様に出来ている。
    街というものは存外一夜にして滅びやすく出来ていたりする。
    人間一人一人が作り上げる世界なんて、一夜も経たずに、簡単に消えてしまうものだ。
    人間の命はロウソクの火に喩えやすい。
    ロウソクの火なんて、一つ息を吹きかけるだけで消えてしまう程脆弱だ。
    例えば、目が覚めたと思ったら。
    死体の海のど真ん中に自分が佇んでいるなんて事も、実はあの二十四時間霧に包まれた街が生まれるよりも前から、この世界では有り得たのだ。
    生まれて来て初めてこの世のものとは思えない程、まるで魂を震わせる様な音が一つ鳴り響くだけで、人間一人の人生と存在そのものなんて簡単に変わってしまう。
    そんな過去を持って、経験を持って、抱いて、私たちは今日も音と共にこの世界を生きて行く―――。


    ◇◇◇◇◇


    何時まで立ってもこの街は騒々しく、喧騒と怒号が聞こえない時の方が明らかに少ない。
    霧は日中夜、雨が降ろうがそうじゃなかろうが関係なく烟る街。
    簡単に一瞬で二桁単位から三桁単位の一般人が死んでしまうという、なんともまぁ弱肉強食の典型的な街だと言える。
    つい昨晩も、地下で三十八名もの人間が殺されたなんて事件が今朝の新聞の一面に載っていたっけか。
    そんな街をエメラルドグリーンの長い髪をおさげにして纏めた猫の獣人が歩いていた。

    「いやはや、全くもって物騒にゃ世の中にゃ」

    二本生えている尻尾をゆるりと動かしながら、昨晩の仲間たちの成果がこうも目に見えて残ったというその事実に気分が良くならない訳がない。
    一夜で死んだ四十人近くの人間に関しては特に気にも留めない。
    何せ、そもそもの話ではあるが、同じく仲間の一人が仕事で頼まれた運搬物を向こうが狙って来たのだから。こちとら、物を運ぶことを生業としてこの街で生活をしているのだ。
    正当防衛が成り立つはずだというのが、私たちの意見である。
    この街では、過剰防衛なんてものが存在しないというのが中々のハードモードな街だろう。

    今日は週に二回やって来る休日の内の一つだ。
    キプロス・カット・シストラム・シロウロカンボスは、今日も今日とて変わらない騒がしいヘルサレムズ・ロットの街をぶらぶらと目的も無いまま歩いていた。
    ジャンパーのポケットに手を突っ込んで、煙草を一本とライターを一つ取り出して一服しながら。
    所謂、歩き煙草というやつである。
    ヘルサレムズ・ロットでは特に誰かにどうこう言われるような事ではないのだが、ここ最近の“外”では室内での喫煙すら大分制限が掛けられているのだとか。
    それを知った喫煙者である、自分と我らがリーダーであるヘルモンドは思わず筆舌に尽くし難い表情を晒してしまったものだ。
    他の面々には「女のクセしてなんつー顔してんだ」とハモって言われてしまった程だから、中々に結構な顔を晒してしまったんだと思う。鏡を見てないから、分からないけど。あぁ、お互いの顔は流石に知ってるけどね?

    そんな中で、頭頂部に生えている人間の耳とはまた違った、先がとがった猫の耳をピピクと無意識ながらも動いた。
    理由は単純明快、キプロスにとって実に不愉快な声が路地裏の方から聞こえたからだった。

    「んっん〜?」

    咥えていた煙草の煙を一度肺一杯にゆっくりと吸い込み、そして吐き出す。
    昨日二人が帰って来た時に垂れ流しにしていた鉄の臭いなんかと比べたら、全くもって比にならない程度の臭いがキプロスの鼻孔を擽る。
    金色の瞳を少し細めて路地裏の方を睨みつけてみれば、この街では見慣れた柄の悪い異形五人が一人の人間の少年を問い詰めているのが見えた。
    俗に言うカツアゲというやつだろう。
    自分よりも更に力の無い弱者から金品をかっさらう。
    別段、この街じゃ特別珍しい光景じゃあない。

    正にクソ雑魚ナメクジ達が思いつきそうなクズ行動だなと、キプロスは眉間にしわを寄せて、カツカツと音をワザと立てながら踵の高いブーツで歩を進める。
    カツカツカツと、これでもかと分かり易く足音を立ててやっているのにも関わらずカツアゲをしている異形達は、此方の存在に気付く様子がない。
    そんな警戒心ゼロでよくもまぁ、この街で今日まで生きていられたなと、段々苛々から呆れにシフトしてきた。

    「おら、チビ。もっと跳んでみろよ」
    「まだ持ってんだろぉ?」
    「っだから、今渡したサイフっしか、手持ちが、無いってば」
    「あ”ぁ”ん!? 舐めた口聞いて―――」
    「さっきから耳障りにゃ声が喧しいにゃ〜」
    「……っは?」

    カツアゲのシーンで、漫画みたいに跳んでみろなんて言う奴初めて見たなぁとキプロスは煙草を味わいながら思った。
    今回初めて手を出した新しい煙草は、甘めではあるものの中々いけるなと。

    首の襟口を掴まれて宙ぶらりんになって、かつ首がしまっているというのも合間って、少年はいよいよ息がヤバくなってきていた。
    バイトの近道をしようと路地裏を選んでしまったのが、そもそもの事の発端である。
    後は少年自身が不幸の権化と呼べてしまえる程、背が低く明らかに鍛えている風貌でもなんでもない、無害な一般人間な見た目故に舐めてかかる連中がヘルサレムズ・ロットにおいて、圧倒的多数を占めている事が原因か。
    そんな少年は、殴られたりしたのだろう。
    頬は腫れ、鼻と唇の端からは血が流れている。
    服も汚れていない箇所を探す方が苦労する程で、靴跡がくっきりと残っている腹部から察するに、蹴られたであろう事が分かる。

    あぁ、少年には申し訳ないけれど、実に分かりやすく。
    典型的なカツアゲだ。

    目の前の光景を出来るだけ、何が起こったかの過程を考えていると五人組の内の一人がキプロスのすぐ目の前で立っていた。
    百と五十センチも身長がないキプロスに対して、異形の男?はプラス五十センチを足しても足りない程背が高く、下品な目で見下ろしている。
    それに不快感を覚えないわけがない。
    実力差を察する事すら出来ない、矮小生物。そんな名称が実に似合う典型的なザ・雑魚。

    「おぅおぅ嬢ちゃん、こんな薄暗い路地裏に一人たぁ危ないぜ?」
    「……ふん」

    返事代わり鼻を鳴らす。

    「連れねぇなぁ」
    「つか、二本の尻尾を持った猫の獣人って珍しくね?高く売れるんじゃねぇか?」
    「ありきたりで典型のテンプレートセリフをどうもにゃ。やっぱりカツアゲなんてアホにゃ事をする奴は揃って知能指数が低いにゃ」

    稚拙で適当な売り言葉ではあったものの、目の前の五人にはそれで十分だった。
    少年の襟首掴んでいた奴も先程のキプロスの台詞には感が触ったらしく、パッと手を離してこちらに向かってズシンズシンと分かりやすく向かってくる。
    顔は真っ青なままではあるものの、少年はようやく息が出来たという事もあって咽せていた。

    「威勢がいいな、猫の嬢ちゃん? だが、オレらをちぃとばっかし舐め過ぎてるぜ?」
    「舐めてるのはどっからどう見てもそっちにゃ」

    余りの物言いに、完璧に呆れが勝利した。
    パキパキと指を鳴らす男に対して、こちらはのんびり煙草を燻らせながら。
    しかし、殴り掛かろうと腕を振りかぶっている男に対して特に焦る事もなく。
    キプロスは目の前の男を見据えて、パチンっと一つ軽快な指鳴らしを披露した。

    瞬間、無風だった路地裏にそよ風が一つ何処からともなく舞い込んできた。
    ふわりとそよぐ風は、こんな場所で、こんな状態だというのにも関わらず、少年は心地好い風だと思ってしまった。
    生憎、心地好い風だと感じる事が出来たのは少年だけだったが。

    「ぎゃぁぁああああ!!!!!」

    悲鳴が一つ、路地裏に響き渡った。
    つい先程までパキパキと音を鳴らしていた指どころか、肘あたりまでの腕が二本、どさっと落ちる。
    手腕が生えていた場所からは噴水の如く血が吹き出しており、男が最初こそ呆けていたものの、軽い錯乱状態に陥りただただ痛みに打ち震え悲鳴を上げていた。
    他の四名は何が起こったのか理解出来ず、無様にも狼狽る事しか出来ない。
    尻餅ついた状態の少年は目の前の光景に茫然となっている。
    そして、この惨状を作り出した張本人はというと、変わらずのんびり煙草を燻らせている。ただし、酷く底冷えする金の猫目を五人組の異形達に向けていた。

    「はぁ、路地裏でぎゃーぎゃー煩いにゃ。それでもこの街で他人の臓器やら四肢やらを売っ払って金にしてる奴かにゃ? 他人にそれを強要するならば、自分もされる覚悟を持ってやらかして来たんじゃ無いのかにゃ? もし違うにゃら、それはもうアホでバカでどうしようもにゃい……愚か者にゃ」

    ゆらりと二本の尻尾を揺らしながらキプロスは淡々と話し続ける。
    金色の猫目は相も変わらず五人の異形達を見下ろしている。明らかに自分が立っている場所はお前らとは違うのだと、視線だけで物語っていた。

    「ほら、今回はその程度で済ませてあげるにゃ。とっとと私の前から姿を消すにゃ。あ、そこに落ちてる二本の“ゴミ”は持って帰るにゃ、いらないし、いつもの様に売っ払って金にゃりなんにゃりすればいいにゃ」

    大きな悲鳴を上げるまではなくなったものの、少し枯れた声で未だに呻く両腕を無くした男を二人が両脇から支え担ぐ。
    そよ風に切り落とされた二本の腕を一人の男が抱える。
    そして、最後の男がキプロスにすれ違いざま捨て台詞を吐いた。

    「クッソが! 覚えてろよ!!」
    「勿論、お前らの事はしっかりと覚えたにゃ。次視界に入ったら……問答無用で供物にする事もなく生ゴミ行きの細切れにしてやるから覚悟するにゃ」

    想像とは全くの真逆の返答によって、五人組は完全に血の気を失った様相で、文字通り尻尾を巻いて逃げたのだった。
    そして、キプロスはまたふんと鼻を鳴らして情けなく逃げ去った異形達の姿が見えなくなるまで見送った後、ようやくカツアゲされていた少年の姿をまじまじと見やった。

    白と紺のパーカーに、首からぶら下がっているカメラとゴーグル。
    天パなのかぴょんぴょんと縦横無尽に跳ねまくっている黒髪ではあるものの、撫でたらふわふわしてそうだなとキプロスは呑気にもそう思った。
    そして、何より首を吊られていた状態から落とされた時にチラッと見えたモノに興味が惹かれていた。
    殴られたところ以外に怪我は無いかと、少年を見回すがどこからどう見ても普通の人間の糸目の少年だ。
    まぁ、わざわざ指摘するまでも無いし。
    ちょっとした好奇心よりも臨時収入の方に頭がいっていた為、キプロスは気づかなかったフリをする事にした。

    「少年も運が無いにゃー、歯とか欠けてないにゃ?」
    「えっと、はい。助けてくださってありがとうございました」
    「別に気にしなくていいにゃ、猫の気まぐれってやつにゃ」
    「それでも、態々路地裏に入って来なければ気付かなかったでしょうし、気付けても気付かなかったフリとか出来たはずでしょう?」
    「にゃん。だから、猫のきまぐれ、にゃー」

    「僕はレオナルド・ウォッチといいます、改めて助けてくれてありがとうございました」
    「レオ君だにゃ。今時珍しい、真面目で礼儀正しい子だにゃー。私はめちゃんこ名前が長いから、仲間からはキティって呼ばれてるにゃ」
    「キティさん、ですね」

    自己紹介をしながら、キプロスは未だに尻もちをついているレオに手を差し伸べた。
    かび臭い路地裏でのキプロスと頑固な亀騎士との初の逢瀬だった。
    そして、これを機にただでさえネタが尽きないとされるヘルサレムズ・ロットにおいて。そのネタの中心部分に巻き込まれることとなるのだ。



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