おはよう、新米フィクサー


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  1. スモッグでもガスでも無い。
    突如、一夜にして、一瞬にして現れた自然現象と呼ぶにしてはあまりにも常識離れしてしまいながらも、謎の霧に包まれたニューヨークの街には最早慣れてしまい、日常と化してしまってから早三年。
    霧によって分け隔てられていた境界線が曖昧となってしまい、異界ビヨンドと現世がるつぼへと投じられ、その有り様を大きく変えたニューヨークの頭には“元”がつくようになってしまった。
    秩序と無秩序が混じり合い渾沌となってしまった此処には、ニューヨークだった頃の面影はほんの僅かも残らない。

    此処は、ヘルサレムズ・ロット。
    つい三年前まで、ニューヨークと呼ばれた街であり。
    一夜にして構築された霧烟る都市である。

    そんな街を疾走して生きるとある組織と呼ぶにはあまりにも烏滸がましい、小さな小さな極小規模集団サークルがあった。
    彼女達は喧騒が乱舞し、怒涛をバックミュージックに、明日の命すらも保証されないこの場所で、音と共に今日も走り抜ける。
    これは、そんな渾沌の街で奏でられた間奏の物語だ。


    ◇◇◇◇◇


    陽が沈み切って尚、静寂さを覚えない地上の喧騒が僅かも聞こえない地下深く。
    鼻をつまんでいなければ、生理的に襲ってくる吐き気を催しそうな醜悪な匂いを放つ下水道をバシャバシャと激しく水音を立てながら走る男が一人いた。
    時折視界に映る蛆虫やらネズミやらがヒトだったものに集っているのも気付かないくらい。
    ダラダラと流れる汗の嫌悪感すらも沸き上がって来る暇も無い。
    肩で息をする程乱れているのだけは、酸素が少なくなってきた頭でもまだ理解出来た。
    それでも、
    それでも、
    今、
    足を止めてしまえば、
    音が聞こえてしまうから。

    男は、最近この世界に入ったばかりの新米だった。
    主な仕事は麻薬の売買から人身売買といった非合法なもの。
    ちなみに、拉致監禁調教も含まれている。
    人体改造も。
    やっている事に道理は無く。
    人道などとうの昔に足を踏み外して、先輩達と一緒に様々な悪行を行って来た。
    その、罰が今なのか。

    今回の仕事は、とある運び屋が運ぶ情報が入った小さなUSB。
    そのUSBにはヘルサレムズ・ロットで暗躍する超人秘密結社、ライブラの一端中の一端の情報が入っているという。もし、それが正確にして真実ならば憶の金が闇から飛び出る程のものだ。
    それを横取りするだけの簡単なお仕事。
    だった筈だったのだ。
    結果はご覧の有様。
    狙う物が物故に、総動員で挑んだ。この日の為に、生態銃手術を受けた先輩だっていた。随分と大枚をはたいていたのを俺は確かに見ていた。守銭奴だった先輩だからこそ、純粋にそれに驚いたものだ。
    その大枚をはたいて尚、あのUSBに入っている情報を売れば、そんなものお釣りが出る処の騒ぎではない。文字通りはした金と化す程で。
    それだけの物を狙った犯行だったから。
    だから俺も、生態銃に手を出すほどの手持ちは無かったにせよそれなりの武装はしてきた。

    ―――それも、全て炭と化して一切の使い物にならなくなってしまっているけれど。

    「そないに急いで、何処行きはるん?」

    ぼうっと、まるで幽霊が現れるかの様にして、目の前に一人分の人影がポツンと立っていた。
    普段耳には馴染まない、一風変わった東の島国で口にされる訛り声。
    酷く、この場所に似合わない女が一人、目の前に、気配を感じる暇も無く、そこに立っていた。
    腰程までに伸ばされた艶やかな長い黒髪。
    男を自分の下に飛び込んできた餌だとしか見ていない深紅の瞳。
    黒地に赤と白の椿柄。
    白地に黒い蝶が蜘蛛の巣に捕まった様な刺繍の帯。
    そこには一本の煙管が差し込まれている。
    少し燻んだ赤一色の無地の羽織。
    そして、外周をぐるっと黒に囲われた、血よりも艶やかな赤い番傘。
    明らかにそこだけが異様だった。
    女は、水面すれすれのところで浮いて、立っていた。

    「ふふっ、こんばんは。今日はようさん血が吹き舞う日やねぇ。あんさんもそう思わへんか?」
    「っち!」

    そのたった一言、女が口にしただけで男は全てを察した。
    この女も、あの連中の仲間なんだと。
    持って来た武器は全て炭やら灰と化して使い物にならないのはさっき言った通り。
    となれば男が今出来る事など、踵を返して別の道を探して一刻も早く此処から逃げる事だけだった。
    が、それが叶う事はこの先無かった。
    何故なら男の命運は、彼女と出会ったその瞬間に終わってしまったから。
    女からすれば、張っていた蜘蛛の巣に餌が向こうから飛び込んできた様なものだった。
    だから、無駄な会話を一言二言と口にしたのだ。

    「っなんだ、これ! 身動きがっ!」
    「んもぅ、せっかちな人やねぇ。知らへんの?蜘蛛の巣って、もがけばもがく程がんじがらめに絡まって、掛かった餌を逃がさへんねんで?」

    シャンッと、女が髪にさしている簪が揺れて鈴が鳴った。
    一歩、また一歩と近づいてくる度に鈴が鳴る。そしてそれと同時に男の身に絡みついてる彼女曰くの蜘蛛の巣がギリギリと締め付けて来る。
    まるで、鈴の音に呼応しているかの様に。
    首にも蜘蛛の糸が巻き付いているせいで、徐々に締まっていくせいで、ただでさえ足りなくなっていた酸素が無くなっていく。視界もぐるぐるになって来た辺りで男は漸く女が水面に浮いている理由が分かった。
    浮いていた訳では無かったのだ。
    赤く光る八つの目をした人間の拳大の蜘蛛が、下水の中で蠢いた。女はそれを気にした素振りは全く無く、むしろその蜘蛛を足場にして歩いていたのだ。その優雅に歩く姿はただただ散歩の最中の様。
    そして、男の隣を通り過ぎた所で男の体はバラバラに細切れになった。
    最後に見たのは赤い無地だと思っていた羽織の背面部分の端に、黒い蜘蛛の刺繍がされていたというところで、男の意識は完全に暗転した。

    「ほれ、食ろうて構へんで。骨も残さず、なぁ?」

    三日月の様に歪められた口とその目を知る事も無く死ねた事だけは、男の最後の幸運だったのかもしれない。

    数分後。
    和服の女の下に再びパシャパシャと誰かの足音が聞こえて来た。
    子蜘蛛達が男だったモノを食べているのを眺めていた視線を、音が聞こえた方へと向ければ異臭の籠った下水道だというのにも関わらず、相も変わらず目深にフードを被った自分と同じ赤い目をした女が走って来た。
    フードから僅かに見える一切の汚れの無い真っ白な髪がチラリと覗いている。

    「あぁ、なんや。そいつ殺ってくれたんか」
    「ふふっ、あんさんが獲物を逃がすなんて珍しい事もあるんやねぇ」
    「べっつにー? あそこにおった連中の他にも団体様がおったら困るから泳がせてただけやし?」
    「うん、せやね。確かにそこそこの団体様はおったよ? 骨も残っとらんけど」
    「……全部食ったんかいな」
    「たらふく、なぁ」

    フードの上から頭をガリガリと掻く女からは、完全に染み付いてしまった鉄の臭いと焦げた臭いが僅かながらする。
    左手に握られたコンバットナイフは、持ち手のところまで真っ赤に染まっている。どれだけの獲物をその小さな刃で刈り取って来たのかをありありと物語っていた。
    そう、彼女が今子蜘蛛達が食べている男の武器を炭なるにまで燃やし尽くした張本人だった。
    そして二人の会話から察する通り、あの瞬間生き残っていたのは男ただ一人だけだったのである。
    たった二人の女に総勢三十八名で成り立っていた組織が、一夜にして一人の生き残りも残らず滅ぼされたのである。

    「せや、キティから連絡があったんやけれど。無事、パルプンテの仕事は終わったそうやで」
    「そうなん? ほな早うこの臭いところから出よか。私は兎にも角にもシャワー浴びてサッパリしたいわ」
    「ウチもそれは同感やわ。全くけったいな場所を通路やら仮拠点やらに選んでくれたもんや」

    そう話を切り出しながら、つい先程まで殺戮を繰り広げていたとは思えない日常的な会話をしながら二人は歩き出した。
    思ったよりも早く終われたのだから、晩御飯は何にしようかなんて。
    報告書は明日でもいいんじゃないかと上司の指示をガン無視したような会話まで。
    つい先程まで自分達が行って来た事など、とうに忘れ去ってしまった様に。

    「にしても、やっこさんらも不便よなぁ。情報収集力が低すぎるゆうんのも問題やわ」
    「あぁ、パルプンテが持ってったUSBを狙っとったんだっけ?」
    「せや。でも、アレに入ってたの価値にしては路銀にすらならんのやろ?」
    「そーそー、確か“仕入れた食料とか雑費に使用された領収を纏めたデータ”や」
    「ふふっ、それで命落とすとか余程の阿呆ゥやなぁ」
    「それな」

    くすくすと二人は談笑をする。
    頭上ではきっと、自分達が立っている地下で三十八名もの人間や異形が悲惨な末路を送った事など露にも思っていないだろう。
    そんな殺伐とした、それでも命の重さが明らかに外よりも軽いヘルサレムズ・ロットの。
    何てことの無い、よくある日常であった。



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