> heavy heaven





 部屋は薄闇を纏っていた。
 いつもならチャットに甘楽として出向いたり、波江さんにまとめてもらった書類の確認をするのに使う時間帯。けれど毎週木曜のこの時だけは、室内の電気を全て落として一人の男と向かい合う。
カーテンの隙間から漏れ出す街灯や、道路を照らす車の赤いテールランプ、ビルの光源だけが家具の輪郭を映し出す。無機質な、けれど温かい黄色の光。俺の愛してやまない新宿の色。
 それらをうざったく思うのは、今この瞬間だけだ。
「ん……」
 合わせた唇から、そっと吐息が零れ落ちた。それを合図としたように、触れていた柔らかなものが離れていく。白い首筋に落ちた、長めの金髪から漂うのは煙草の匂いか。苦味を伴う特有の香りに、くらりと眩暈がした。
 机を挟んで行われる行為。両手で突っぱねるようにして、なるべく彼から遠ざかろうと仰け反れば、いつも着ている黒いバーテン服が、光を集めたかのような金髪が、柔らかな眼差しが、辛そうに噛まれた唇が。否が応にも飛び込んで来てしまって。
 喉の奥で牽制するかのように唸れば、声を与えられた。
「臨也」
 いつも荒っぽく俺のことを呼ぶ癖に、こんな時だけ無駄に優しい。母に愛される雛鳥のように柔らかく慈しまれて、幸福感が心に雪崩れ込んで一杯になる。それがひどく苦しかった。
 逃げる俺に焦れたのか、奴は片膝を机に乗り上げてぐっと近寄って来くる。再び与えられる口付けに俺は酔いしれた。触れるだけの簡単なキス。離れては近づいて、何度も、何度も、何度も繰り返される。
「……っ」
 酒を飲んだ時のような高揚感と脱力感――まるで麻薬みたいだ。この俺が思考をまとめられないなんて、笑える。音も立てずに下唇に吸いつかれれば、ぐらりと身体が後ろに傾いて、椅子が悲鳴を上げた。
「臨也」
 そっと頬に手を添えられそうになって、慌てて払いのけた。乾いた音が幻想を帯びていた空気を壊す。耳鳴りのしそうなほどの静寂が俺達の間を流れた。
「それは、駄目だ。約束が……違う」
 絞り出した声は、ひどく掠れていた。行き場を失って目を伏せても、微動だにしない男の行動をどうしても追ってしまう。
 ――唇以外には絶対に触れるな。
 初めからそういう約束だった。舌も、手も、言葉も、想いも、他は一切望むなと、俺から撥ね退けた。
 その約束が自分の首を絞めていることに気がついたのは、すぐのことで。
 だけど自分から言い出した以上、それを破ることは俺のプライドが許さなかった。
たった一言。それだけで狂おしく望んだものが手に入るとしても、二十数年間築き上げてきたアイデンティティを崩すことはできなかった。
 だから君から破ってくれることを願った。例え俺が拒絶しても、いつもみたいに怒りを露わにして、散々なじりながら、俺に触れてくれれば――そんな、安い期待をしていたんだ。
 彼の本質がどんなものか、俺は知っていたのに。
 人を傷つけることを何より恐れる、ひどく臆病で不器用な優しさを持った、温かい人間。
 それが、君だ。
「――……悪い」
 だから、最初から叶うはずもなかったんだ。
 俺が折れない限り、繰り返される。
 暗い部屋の中、お互いの顔も見ずに唇だけ求めて。こんなに近くにいるのに体温に触れることもできず。一粒の幸福感と手に入らない苛立ちが募るだけの、一週間に一回のこのやりとりは。
「次は、ないから」
 きっと、永遠に続くんだ。





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