> heavy heaven





 肌を刺すような寒さに、知らずの内に肩を竦めていた。凝り固まった筋肉を解すように首をゆっくりと回して、黒い布帽子をまた目深に被り直す。
 学校を終えて真っ直ぐに向かった先は、どこの組とも知れないチンピラが集まる薄汚い路地裏だった。
 池袋にも死角と言うべき場所はごまんと存在する。人気が少なく一ヶ所しか入口と呼べる場所がないここもまた、そんな中の一つだ。四方を背の高いビルで囲われ、ビル風もほとんど吹き込んでこないコの字型の余ったスペースは、チンピラ達にとっての格好の溜まり場として選ばれたようだ。
 大通りから逸れて右にニ回曲ればその場所に当たる。俺は短く息を吐くと、壁に身を隠すようにして、そっと中を覗き込んだ。
 下校してすぐとはいえ冬の十七時は流石に暗い。まだ陽は落ちきっていないが、元々日光のあたる場所ではないため、ビルから漏れる蛍光灯の明かりがなけりゃ人数を把握するのは至難の技だったろう。
 昼間から酒を煽ったのか。廃棄されたベンチにビール缶を握り潰して横たわり大いびきをかいている赤髪が一人に、下卑た笑みを浮かべながら話に興じている男が三人。ゲーム機を弄っている鼻ピアスが一人――全部で五人。
「少ないな……」
 だが好都合だ、と口の中で言葉を転がす。バッグを角に置き去りにしてから、俺は堂々と奴らの前に姿を晒した。途端、異端者である俺に無遠慮な視線が突き刺さる。一人はあからさまに大声を出して威嚇もしていたが、高校生が一人チンピラ集団の真ん中に入って来たことに嘲笑の口笛を吹く奴もいた。俺はそれらを黙殺して、奥で一人爆睡している赤髪の男の前に立った。脱色され痛んだ髪に一瞬見慣れた金髪の男を連想したが、こんな下種な男と重ねてしまったことを忌々しく感じ、すぐに意識の外へと追いやる。
「おい、帰るぞ。お前はいつまで俺に世話焼かせる気だ」
「おい兄ちゃんよぉ」と呼んでくる男を視野に捉えつつ、俺と同年齢くらいであろうそいつに話しかける素振りをする。後ろから接近してくる、一番ガンを飛ばしていたチーマーの手が肩に触れる瞬間を狙い、振り返って拳を腹にめり込ませた。
 勝負は一瞬。
 状況判断と処理能力が遅れ隙のできた三人と今更起きた赤髪の男如きに、俺が負けるはずもなかった。
 二人目は立ち上がる前に耳に平手打ちを食らわせて、三半規管の機能を狂わせ平衡感覚を失わせた。ぐらりとよろめいたそいつの側頭部を蹴り抜いて、もたもたとポケットから武器を漁っている長身の男には、脚を払ってコンクリートの地面に昏倒させた。後ろから羽交い締めしようとしてきたゲーム男にはこめかみに裏拳を叩き込む。酒が身体に残って満足に起き上がることすらできない赤髪には首に手刀を食らわせて気絶させ、最初のチンピラが回復の兆しを見せた時にはシューズが奴の鳩尾にヒットしていた。
 一分もかからなかったと思う。
 少しだけ乱れた息を整えるように、饐えた匂いと冬の空気を肺に吸い込む。蛆虫を見るように地面に伏している五人を見下ろせば、長身の男の指がぴくぴくと動いていた。辛うじて意識を保っていたらしい。
「おい」
 底冷えした、低い声が狭い空間に木霊する。男はびくりと大げさに肩を震わせて、恐る恐る顔を上げた。
「今後一切平和島静雄に近づくな。静雄が手加減しても、俺は容赦しない」
「っ……!」
 見て分かるほど男は急激に顔色を悪くして、壊れた人形のようにこくこくと何度も首を上下に動かした。この状況下の場合、敵わない相手の要望を上辺だけでも聞いておくのは最良の選択だろう。だからこそ気に食わない。こんな格下の相手が静雄に、あの平和島静雄に、たとえ不意打ちだったとしてもかすり傷を負わせたなどと。
 苛立ち紛れに壁を殴れば、ひゅっと息を呑む音がした。このビビリようじゃもう手出しはしないだろうと、置いていたバッグを掴み肩から引っ提げる。これ以上ここにいても胸糞悪いだけだと、込み上げる憤りを抑えきれないまま表通りへ出ようと曲ったところで、俺は奴と遭遇した。
「ドッタチーン。どうしたの? こんなところで」
「臨也……」
 ひらひらと親しげに手を振って来る臨也に、顔を顰める。学ランの上から足首まである黒いファーコートを着ているせいで気付き損ねた。完全に闇に同化した臨也は細い道を遮るように俺の前に立ちはだかると、何が楽しいのか喉の奥で笑う。紅にも見える色素の薄い瞳が爛爛と光っていて、まるで新しい玩具を手に入れた子供のような、無邪気さを醸し出していた。
「何してたの?」
「なんだっていいだろ」
「えー。俺すごく気になるな。だって、ドタチンが暴力振るうなんて珍しいだろ? ねぇ…………シズちゃんの、ため?」
 肩にかけていた鞄が落下して重い音を立てた。それとほぼ同時に、肉を穿つ鈍い音。
 気付けば俺は臨也に向かって拳を繰り出していて、奴はそれを片手で受け止めていた。遅ればせながら頭に血が昇っていく。それをなんとか理性で抑え込み、ゆっくりと手を降ろした。臨也はふざけたように拳を受け止めていた手を振っている。
「痛ったー。ドタチンのパンチって重いんだねぇ。びっくりしたよ。これなら確かにあいつら簡単にのしちゃうのも頷けるなぁ」
「………………臨也」
「何?」
「ふざけたことしてんじゃねぇよ」
 犬歯をむき出しにして威嚇しても臨也はまったく怯まない。人を馬鹿にしたような笑みを顔に張り付けながら、奴は鼻を鳴らした。
「だから、何が?」
「お前だろ、静雄に刺客差し向けてるのは。隠したって分かってんだよ」
「あー、まぁむしろ気付けないシズちゃんの頭が可哀想だよねぇ。第一印象最悪だったくせになーんか今は普通に接してくるし。時間は怒りすら忘却してくれるんだね」
「臨也!」
 怒鳴り声が紫のベールに覆われていく池袋に響く。放置されていた生ごみを漁っていた烏が反応して、ギャギャギャ、と甲高い鳴き声を残して飛び立っていった。
「お前は、分かってるだろ?」
 握りしめた両手に、更に力を込めた。爪を手の平に食い込ませ、その痛みでかろうじて自分を律する。別に臨也を敵に回してもいい。ただ、それをしたらあいつが喜ばないのを知っているだけだ。臨也はそんな俺を一瞥して、尚も「だから俺分からないし知らないって」と軽薄な態度を隠さない。その動作一つ一つが、癇に障って俺の気をささくれ立たせる。高密度の青い炎が心臓を炙っているかのようだ。
 こんなにも聡い奴が気付いてないはずがないんだ。
 お前を見る静雄の目つき。態度。時折見せる、照れたような――。
 学校じゃ大人しい顔をして静雄と普通に会話をしているのに、裏で糸を引いている臨也が信じられなかった。こんな外道な行いをしている臨也に勝てない俺が――。
 そこまで思考が行きついたところで、我に返った。視界がクリアになっていく。気分が悪くなるような匂いに手足の感覚を奪うほどの寒さ。闇に埋もれた臨也の後ろでは、いつの間にかチラチラと粉雪が舞い始めていた。
 現実が帰って来る。それでも今掴みかけたナニカが、心に氷塊を落としていた。
 俺は――何を考えた?
 臨也に勝てない俺が、何だ?
 口の中が急速に乾いていく。喉がヒリついて痛い。唾が出ていない状態で無理矢理嚥下すれば、ごろりと空気を飲み込む羽目になった。
 巡るましく変わっていく感情に追いつけない。気がつけば握りしめた手は強張り、じっとりと汗で濡れていた。
 静雄に――俺が?
 まさか。まさか……まさか、そんな――――


「――――嫌だよ。これが俺の愛の形なんだから、さ」


 憎しみと嫌悪を煮詰めたような、低い声色が空気を震わせた。
 変化は一瞬だった。チリチリと肌を焦がすような、絶対零度の気配に飲み込まれる。場を支配された感覚に息すら詰まった。ドロリと濃密な、おおよそ愛と呼ぶに似つかわしくない凝縮された情を灯した臨也は、嗤いこそすれ、笑ってはいなかった。
「ま、だから口出しは無用だよ、ドータチン」
「いざ……っ」
 引き留めようとした時には既に臨也はひらりと黒のコートの裾を翻していて、彩色豊かなネオンの街へと溶けて行ってしまっていた。
 目を細め、唇を歪めて闇と同化していく臨也は、まるでチェシャ猫のようだ。
 決して本音を告げることのない、ふざけた――。
「……糞ったれ」
 憎々しげに吐き捨てた言葉は、いつの間にか訪れた重い闇に押し潰された。





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