> 泡沫人





 何でもない冬のある日。身体の芯まで凍らせようと企む冷たい雨風は、この部屋には届かない。ただばたばたと、霙混じりの雨が窓硝子を叩く音が聞こえてきていて、暖房の利いたこの場所に唯一冬らしさをもたらしていた。
 臨也は何の連絡もなしに突然俺の家にやって来たかと思えば、ずかずかと部屋に侵入して勝手にベッドを占領した。来る途中に買ってきたらしく、よくコンビニで見る情報誌を枕の上に置いている。暖房の風が当たるのか、微かに前髪が揺れていた。
 臨也がいきなり訪れても俺はごく普通に迎え入れて、だらだらと過ごす客人に温かい緑茶をついでやって、会話のない、でも穏やかな時間を共有していたはずなのに。
「ね、別れよっか」
「……」
 臨也の、まるで「今からコンビニ行こっか」と誘うように軽い感覚で飛び出たそれに、言葉を失くした。ベッドサイドに寄りかかって読んでいた本を閉じる。斜め上を見れば、臨也の視線は相変わらず雑誌に落ちていた。
「……なんでだ」
「俺が別れたいから」
 それ以外に何かあるの? と、やはり軽い調子で答える臨也に、俺は露骨に息を吐いてベッドへと腰掛けた。ページを捲る掠れた音が静かな部屋に響く。冬も中盤に差し掛かってきたっていうのに、いつもの黒の長袖長ズボンで来た臨也は季節をまるで感じさせなかった。温かなフリースを着て少しでも電気代の節約に努める俺とは大違いだ。
 相変わらず俯いて文章を追っている臨也の艶やかな黒髪に指を絡ませる。くしゃくしゃとかき混ぜれば、猫のように腕に頬を擦りつけてきた。
「……なぁ、何度も言ってるだろ。俺はお前と別れたりしない。別れたくない」
「えー、それは困るなぁ。俺は別れたいのに、ねぇ?」
 足をバタつかせている臨也の顎を掬う。久々に合わせた顔は、うっすらと笑みを浮かべていた。
 こんなやりとりを、俺たちは五回以上繰り返していた。「別れたい」と切り出すのはいつだって臨也の方で、俺はその度に引き留める。ちゃんとした理由があるなら俺だって了承するだろう、けどこいつの場合そうじゃない。俺が嫌だと返せばそのままこの恋人はあっさりと身を引く。それなのにまた一定期間を過ぎれば「別れたい」と言い出す。そのせいで、と言うべきか、相手から別離の宣告をされても俺はあまり動揺しなくなっていた。
 ただこの台詞が口をついて出てくる時は、何かしら臨也が不安になっている時なんだと勝手に解釈している。臨也の真意は相変わらず分からないが、なんとなくそんな感じがした。
「臨也、何がそんなに不安だ?」
「え、俺は別にドタチンに不服なことなんて一個もないよ」
「……そうか」
 「不安」を「不服」と変えたのは、聞き間違いか、それともわざと言い換えたのか。それすらも、何もかも、分からない。
 なぁ、お前、何がそんなに不安なんだ?
 顔は笑みを湛えてるくせに、瞳は揺らめいている。触れた肌は驚くほど冷たくて、思わず眉を、顰めた。
「ね、それより俺の要望は通るの?」
「却下だ」
「ドタチンのケチ」
 そう言いながらもカラカラ笑って、目を細める。最初から別れる気があるのかどうかも疑わしい。この一連の会話が臨也の愛情表現の一つなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。どこまでも読めない奴だと、また溜息をついた。
 ただ一つ、いつだって分かることがあるとすれば、
「お前、一片鏡で自分の顔確認してこい」
「自分が眉目秀麗なことくらい理解してるけど?」
「……そういう意味じゃないんだけどな」
 そっと潤んだ目を片手で覆えば、これじゃ文字が読めないよ、と怒られた。
 指と指の間に、僅かに水分が沁み込んだのはきっと気のせいなんかじゃない。



(そんな顔されたら、別れるなんてこと絶対に出来ないだろ)





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