> 白黒キングの盤上ダンス |
*** 曇天の空から池袋の街へと降下してくる無数の雫に溜息を漏らす。夏を過ぎて一気に肌寒くなった都市の気温にぶるりと身体を震わせながら、傘を差した。 まだ小雨で済んでいる内に早く帰ろうと足を速める。雨は嫌いだ。湿気は多くなるし傘を持たなければならないし、面倒臭いことこの上ない。 ……あ、シズちゃん発見。 雨で煙る視界の中、金髪にバーテン服の姿を見つけた。周りにいる人たちが次々と傘を差して行く中、一人だけポケットに手を入れて街を歩いている。 わざわざ探そうとしなくても一旦視野に入れてしまえばその存在感は強烈で、何かに引き寄せられるかのように俺は近づいてしまった。 けれど声を掛けようとした寸でのところで、俺は踏み留まった。今日の自分の心理状況はまずい、と頭で警告が鳴っている。 どうして? なんで? 日にちに何か関係があるのかと思い、携帯を開く。答えは、あぁ、簡単だった。 2010年10月9日(土) 21:46。 緩慢な動作でそれをポケットに携帯を仕舞う。そして、くるりと踵を返して来た道へと戻ろうとした。 今日は、あの日だ――。 俺がこの地球の中で一人だと確信した日。 なにもかもに、気付いた日。 シズちゃんと違う存在だと、知った日――。 「化け物」 俺はよくシズちゃんをそう呼んでいた。別に罵りたかったわけじゃない。それが彼の本質だと思っていたし、そこに興味があったのも確かだ。 けれどそれ以上に、俺は無意識下で燻っていたその感情の意味を測れていなかった。 「臨也……手前、なんでここにいやがる」 聞き慣れた声が雨の中で震える。低く、怒声を押し込めたようなそれに唇を歪めながら振り返れば、離れたと思っていたはずのシズちゃんが雨を滴らせながら立っていた。 「やぁシズちゃん。俺がせっかく無視して上げたのに相も変わらずわざわざ見つけ出してくれちゃうなんて、どれだけ俺のことが好きなの?」 「手前の臭いがして仕方ねぇんだよ、とっとと新宿に帰りやがれ――いや、ここで埋まれ」 「それは勘弁願いたいなぁ」 「………………手前、今日なんか変じゃねぇか?」 舌打ちしたくなった。こう言う時だけ鋭いんだから嫌になるよ。 さっき日付を確認しなきゃよかった、と後悔したところでもう遅い。シズちゃんはサングラスをポケットに仕舞うと、無遠慮にこちらに近づいてきた。 「化け物」 声が聞こえる。俺が昔シズちゃんに放った言葉の数々。無意味な暴言。化け物、という言葉。 だけど、そこに別の意味が籠っていたことに俺自身すら気付いていなかった。 それはきっと、仲間意識。 俺は自分のことを、ずっと。きっと。それこそ小さな時から。 「――化け物」 「あ?」 零れ落ちた声は、シズちゃんには届かなかったらしい。その事実に、どうしようもなく胸が締め付けられた。 君はもう、化け物じゃなくなった――。 だって君の周りには、沢山の人間がいる。自発的に人が集まって来る。それが例え普通よりも少ない人数だとしても、着実に輪は広がっていっていた。 シズちゃんを無機物に例えるとするならば、チェスのキングだ。 最強の王。無敗の王。強すぎるが故に駒を持つこともない、人を傷つける悲しい独りぼっちの王。 高校の頃の俺はそれに気付いて、どんなに歓喜したか。 俺もまた、色は違えど王だった。 駒を動かすことに長けていた。俺を崇拝するような者は皆一様に背を向けて進む方向を指示されるのを待ち、その他は慈悲のないその扱い方に、背中の押し方に、恐怖を抱いて近寄らない。クイーンもビショップもナイトもルークも持たない、眼前にいる数多のポーンだけを動かす――孤高にして孤独な、王。 君と俺は同じだったんだ。同じ、化け物だった。それがどれだけ嬉しかったか。 なのに、君だけがその盤上を降りたんだ。 いつの間にか沢山の人間に囲まれて、 いつの間にか沢山の人間に愛されて、 ただの人間になった。 「馬鹿だなぁシズちゃんは……キングはキングと歩くのが一番なのに」 「臨也……?」 不思議そうな顔をするシズちゃんを、今すぐ切り刻みたかった。化け物のシズちゃんは、俺の隣にいたシズちゃんは、シズちゃんは――。 もう、消えた。 それを知ったのは、六年前の今日だ。 新羅と笑い合って、ドタチンと組んで喧嘩をして、田中トムと一緒に過ごして――俺の好きな『化け物』のシズちゃんは、消えた。 消えたんだ。 「……どいてくれないかな、俺は新宿に帰るから」 「…………」 「邪魔だって言ってるんだよ、分からないのか!?」 声を荒げれば、道行く通行人たちは傘を差しているのが折原臨也で、その目の前に立ち塞がっているのがあの喧嘩人形だということを瞬時に理解したらしい。元々夜更けということもあって人気がなかった路地から、疎らにいた人間たちも遠退いていった。 これ以上ここにいたら、乗り気でもないのにきっと俺は皮肉を込めて嘲笑ってシズちゃんと戦争を始めるだろう。 言いたくない言葉の数々。止められない口。今日は何もかも嫌だっていうのに。それを叫んだところで傷つくのは俺だけだ。 「化け物」 化け物は、俺だけなんだから。 シズちゃんを、もう巻き込めはしないのに。 我ながら我が儘だなぁ、と心の中で失笑した。 小雨から本降りになり始めた空の下、俺は静かに傘を畳んだ。ばたばたと降り注ぐ冷たい雫が髪を、肌を、服を濡らしていく。 「――シズちゃん」 俺の行動が分からないせいで、シズちゃんはキレるところまで踏み出せないらしい。怪訝な顔でこちらを見やった。雨の匂いが立ち込める中、俺たちは二人で対峙する。 まるで、あの時みたいに。 「シズちゃん」 なんで。 「シズちゃんはさぁ」 なんで。なんでなんで。 「本っ当に」 なんでなんでなんでなんでなんでなんで。 なんで俺のこと、置いてったの。 「っ……!」 言葉は、出なかった。それはただの押し付けで、俺はそれを理解していて、だけど寂しくて苦しくて。 一人だった。 俺は、化け物だった。 孤独な孤独な、化け物だった。 だけど高校の時、君が現れた。 君は、化け物だった。 心の底から喜んだ。俺の興味を引き付けた。圧倒的な力。キングの素質。 だけど、あまりにも優しい人間の心を持ったキングは、盤上から降りてった。 俺は、また一人になったんだ――。 それは、あの時から一つも変わらずに。 今日も俺は化け物で、シズちゃんは――。 「臨也、傘と耳貸せ」 俯き何も言えなかった俺に、静かにシズちゃんは訊く。そのまま俺の承諾なしに傘を手から奪って開くと、自分は中に入らずに何故か俺を傘の中に迎え入れた。 「いいか、弱ってる手前に一つ貸しだ。あとで十倍にして返しやがれ」 色素の薄い瞳が俺を見つめてくる。高ぶった感情を抑えるのに精一杯な俺は、とりあえずこれが終わったら解放してくれるだろうという希望を込めてゆっくりと頷いた。 だから、準備ができなかったんだ。 「 」 耳元で、まるで誰にも聞かれないようにと小さく囁かれた言葉。心地良い低音がじわじわと熱を持って頭を浸食していく。ぽたり、と前髪に溜まった雨粒が地面に落下した。 「じゃあな」 ぐい、と乱暴に俺の手に傘の柄を持たせて、シズちゃんは背中を向けた。俺はと言えば、ただ囁かれた言葉の意味が理解できなくて、目を見開いて茫然と立っていることしかできない。 「なんだよ、今の――!」 気付いた時にはすでにシズちゃんの姿はなくて、呻くように顔を歪めた。 頬が熱い。身体が熱い。そのまま蒸発しちゃうんじゃないかと、半ば本気で思った。 唇を噛み締める。傘の柄をぎゅっと強く握って、俺は小刻みに震えることしかできなかった。 「あの、馬鹿野郎……!」 やられっぱなしは性に合わないんだよ、と吐き出して、俺は傘を投げ捨てた。 シズちゃんが消えて行った方角へと、全力で駆け出す。吐き出された薄く白い息が空中に溶けてはまた生み出されていった。雨に濡れたせいで服が重い。靴にも水が侵入してきて、そのせいで張り付く布が気持ち悪かった。 それでも。 それでも。 「本っ当に、お人好しだよねまったく……!」 傘も差さずに歩いているシズちゃんはすぐに見つかって、俺はそのまま突撃するかのように速度を上げる。さっきまでの孤独感は、既になかった。 それはやっぱり、君のおかげ。 「 」 だなんて。 堪え切れずに笑みを浮かべた俺は、跳ね返る水を気に留めずに見慣れた背中に飛び付いた。 「うおっ! てめ、急に何しやがる!」 人一人分を急に背で抱えたせいで反り返ったシズちゃんは、変な体制のまま固まった。そのチャンスを逃さず、そっと耳元でさっき俺がされたように呟く。触れた素肌から、シズちゃんの熱が上がったのが分かった。 「さっきのお返し」 「俺は借りを十倍にして返せっつわなかったか?」 「え、もう返したじゃん」 「どこがだ」 「えー、俺がこんなこと言うのなんて滅多にないのに」 「うぜぇ。離れろ」 「このまま駅まで連れてってよ。歩き疲れた」 「……人の話は聞くもんだぜ臨也君よぉ」 「はい出発ー」 「だあああああ離れろ手前えええええええええええ!」 もういつものように会話をし始めた俺たちの声は、夜の町へと響いていく。 いつもの光景。いつもの慣れ合い。いつもの態度。 ただ一つ違うと言えば、それは―― 六年後の今日、俺は盤上を下りたということ、それだけだ。 |