> Part1.臨也 姿が視えない





 暗い、昏い、闇しか視えない。
 ――それはきっと目の上に包帯を巻いているせいなんかじゃない。
 俺の目は、もう白い世界しか映さない。
 光も、木も、水も、火も、土も、建物も、俺の大好きな人間も、そしてシズちゃんも。
 視えない。ただずっと、白くて深い霧が目を覆っていることしか捉えることができない。
 病状は聞いていた。二週間前、俺は久々のオフをシズちゃんと一緒に過ごしていた。色んな意味で有名人な俺たちが二人並んで池袋の表通りを歩けるはずもなく、シズちゃんの家に向かうためにひっそりと裏通りをうろついていたらそこで仲良くリンチに遭い、その時俺は目を重点的に攻撃されたらしい。結果、俺の目はニ度と外界を映すことはなくなった。
 『失明』。俺の情報屋としての命を完全に絶った訳だ。耳で出来ることもあるけれど、やっぱり情報をまとめるには目が必要だ。それを汲んでの、集中攻撃だったんだろう。本当に良い趣味をしている。皮肉すぎて笑うことすらできない。
 別にいいんだ。情報屋の仕事は人間観察の一環として営んでいただけで本腰を入れてやろうと決めていた訳じゃない。必然的になっただけだし、自分でもくそったれな仕事だと思っていた。人間を愛している俺が人間を視れないことはこれから生きていくには辛いかもしれないけれど、もうこの際どうでもいい。
 今の俺にとっては、シズちゃんを視れないことが一番辛かった。
 だってそんな、そんなのって、なしだろ?
 記憶なんてのは、曖昧なものだ。どんなに嬉しい記憶でも、どんなに悲しい記憶でも、どんなに印象に残っていても、時が経てば忘れていく。おぼろげになって、いつか消えていく。
 じゃあ、シズちゃんの姿も忘れるの?
 あのふざけた金色の髪も、色素の薄い目も、どこからその怪力が出るんだって思うくらい細い身体も、俺より高い憎たらしい身長も、大きくて武骨な手も、なにもかも。
 忘れるなんて、嫌だ。
 でも、いくらそう願っても俺の目は治らない。医者からはいくら手術をしてももう再起不能だと最初から希望を塞がれていた。
 白い世界で一人震えた。包帯を巻かれれば闇しか視えず、かといって外せばぼやけた純白の世界しか待っていない。いつが朝でいつが夜だか分からない、モノクロのどちらかしかない場所で身体を縮こまらせて、ただただ治ることを祈った。実は診断間違えでした、とか、そんな陳腐な妄想までした。
 目が視えない。じゃあ俺は、もう君とは対等な関係ではいられない?
 同情なんか欲しくない。いつも通りがいい。じゃれて、喧嘩して、殺し合って、抱きしめ合って、キスをする。そんな毎日には、もう戻れない?
 嫌な思考だけがぐるぐる回って、不安が心を押し潰していった。けれど今日シズちゃんが見舞いに来てくれた時、俺は“いつも”を取り繕おうとした。だって弱った俺なんて、俺らしくない。いつもの小憎たらしくて仕方ない、折原臨也でなくちゃ。
 シズちゃんとは、対等でいたいから。
「いざや」
「何?」
「……いざや」
「だから、何って聞いてるだろ?」
 コワイとかツライとかクルシイとか、そういった言葉は全部飲み込んだ。演技も上手に出来たはずだ。
 ねぇ、俺は上手く笑えてるだろ?
「作り笑いするくらいなら、泣いちまえ」
「…………あははは。なんで、そんなこと、言うの……?」
 ……どうしてこう、シズちゃんは全てを暴くんだろう。俺の心境を理解してしまうのだろう。
 後頭部に、何かが触れた。それがシズちゃんの手だなんてことは、すぐに分かった。何回も味わったことのある感触に、やっと少しだけ、安心した。
「な、いざや」
「……っ」
 そのままゆっくりと大きな身体に抱き締められた。暗くて怖くて、でもその温もりに包まれるだけで緊張が解れたかのように強張っていた身体が弛緩した。シズちゃんの服から香る煙草の匂いに、涙腺が緩みそうになる。
 大丈夫だなんて、そんな安っぽい言葉は言えなかった。だって全然大丈夫じゃない。死ぬほどクルシイ。ツライ。カナシイ。
 タスケテ、ホシイ。
 それでも対等でいたかった。いつまでも喧嘩しながら支え合える仲でいたかった。なのにシズちゃんのたった一言だけで俺の仮面は取り払われて、いつもなら繕えるはずのそれは神経が疲弊した俺にはできなかった。
 本当は甘えるなんてこと、したくなかったんだ。弱みなんて、見せたくなかった。折原臨也は人間が大好きで、平和島静雄を殺したいくらい嫌いと勘違いできるほど愛している、素敵で無敵な情報屋さんだったのに。
「……ズ、ちゃん。シズちゃん。シズちゃん、シズちゃん、シズちゃん……!!」
 みっともないくらい何度も何度も名前を呼んで、手を背中に回してしがみついた。身体中がイタイと悲鳴を上げたけれど、そんなの気にならなかった。気にしていられなかった。今はシズちゃんの存在を確かめることしかできなくて、縋ることしかできなくて、なんとかしてこの心に空いた穴を埋めたかった。
 知らずのうちに流していた涙は包帯に吸われて消えていったけれど、それでもシズちゃんには声の震えで泣いていることがばれただろう。
 シズちゃんは何も言わずに、俺が泣きやむまで背中をさすってくれていた。


 ずっと覚えていたい。いつかはおぼろげになる記憶だと分かっていても、何度も何度もシズちゃんを思い出して、その繰り返しをして、ずっとずっと忘れないようにしよう。
 けれど本当は、君の姿が視たいんだ。
 世界が視えるように、なんて贅沢は言わない。空も太陽の光も建物も愛する対象である人間も何もかも視えなくたって構わないから。
 シズちゃんだけは、この目に映させて。
 神様がいるなんて、信じていない。俺は無神論者だ。だから天国も地獄も信じていない。
 だけど、もし、もし本当にこの世界のどこかに神様がいるのなら、なんで俺のちっぽけな願いすら許してくれないんだろう。
 なんで、なんで。どうして。


「……っねぇ、シズちゃんの姿が、視えない……視えないんだよ」





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