> 君が消える、夢をみた |
ざぁざぁと、雨が降る。キーボードを打つ手は緩めず、ばたばたと窓に五月蝿く打ちつけられる雫の音に導かれるように、ちらりとガラス張りのそこを見やった。こんな土砂降りじゃ傘なんてあってないようなものだろうな。そんなことをとぼんやり思いながら、エンターキーを小指で押して昨日の取引先の人間に渡す書類を完成させた。 外はもうすっかり暗い。机にある時計に視線を向ければ、時刻は午後十時四十分。 秒を刻むそれを見て、今日はシズちゃんが家に来る、と何か予感めいたものを感じた。 *** ぴんぽーん、と控えめで軽いチャイムが事務所内に響いた。今日はもう来客予定はないし、波江さんが忘れ物でもしたのかと思ったけれど、彼女は鍵を持っているはずだ。それならば誰だと訝しみながら公衆玄関のカメラに映っているであろう人物をインターホンの画面越しに見れば、見慣れたバーテンダーの服を着た人物が立っていた。 「……」 無言でドアを開けてやれば、ふらふらと吸い込まれるようにして中へと入って行く。俺はそれを見届けたあと、玄関を施錠しそのまま開け放った。ひんやりとした空気と湿った匂いが立ちこめる廊下に眉を顰めていると、エレベータが到着する音が辺りに反響した。 「……やぁ、シズちゃん」 姿を現したのは紛れもなくシズちゃんだったけれど、いつものように青筋を立てて怒っているでもなく、静かに煙草をふかしているでもなく、まるで迷子の子供みたいな表情をしていた。 ――あぁ、またか。 時々、シズちゃんはひどく病むことがある。それはいつだって突拍子もなく訪れて、自らの感情をどん底まで引き摺り降ろしてしまう。そう、まるでアリ地獄に掴まった獲物のようなそんな絶望感に蝕まれているようだった。昨日は元気でも、今日もそうだとは限らない。情緒不安定と言ってしまえばそれまでだけれど、それで片付けるにはこの人間は精神的にも身体的にも危険すぎた。全てのバランスが脆すぎるのだ、この男は。 こういう風になった時、シズちゃんはいつだって俺の元に訪れる。いつもならどんな弱みも見せまいとする彼にとっては珍しい行動パターンだ。それ故にこの症状は分かりやすい。 こんな不安定な状態になるのは、今に始まったことじゃない。もうずっと前から、それこそ高校時代からシズちゃんは定期的に病んでいたから、俺としては見慣れた光景だった。けれど、それでも虚ろな目をしたシズちゃんを家に迎え入れる度に心臓がしくしくと痛むのを止められない。 綺麗にブリーチされた髪からぽたぽたと雫が垂れて、玄関に水を落とす。どこもかしこもぐっしょりと濡れているシズちゃんは放心状態だった。とりあえずタオルを持ってきて、乱暴に髪を拭いてやる。いつもなら自分でやるとか言い出すのに、今日は大人しくされるがままになっていた。 「まったく、なんでこんなに濡れてるのさ。今日は朝からずっと雨だったし、傘持ってるんじゃないの?」 「…………折れた」 「自分で折った?」 「……」 何も答えないからそうなんだろう。どうして折ったのかは聞かない。シズちゃんが嫌がっているから、何も聞かない。 一通り拭き終わってから、俺はシズちゃんを事務所の方じゃなくて寝室に上げた。この際水気がベッドに滲みるのは我慢しよう。それよりも問題はシズちゃんだ。俺が隣に座っても我関せず、そんな彼がただ一つだけ主張していることがあるとすれば、さっきからずっと俺の腕を掴んでいることくらいだ。それでもその力はいつもの半分もなく、力を滅茶苦茶セーブしているのが感じられた。 「何も言いたくないなら、それでいいよ。今日は好きにすればいい。全ての選択権を君にあげるから、俺を好きに使いなよ」 くしゃり、と濡れた髪の毛を掻き上げて、優しく優しく囁いた。こんな時の対処は、もう慣れっこだ。ただ、この状況に心が追い付かずひどく締め付けられるけれど。 できれば俺だって、こんな衰弱したシズちゃんは見たくない。病んでいるシズちゃんを見る度に俺も苦しくなる。でも、それで俺が苦しい思いをしているということを、本人には知らせちゃいけない。大抵シズちゃんがこうなる時は、何かしらの形で俺が絡んでいるから。 「……したい」 「何を?」 「……いや、なんでもねぇ」 聞き取りづらい、低く押し殺した声を懸命に拾いながら、背中をさすってやる。まるで大きいだけの子供みたいだけれど、今、シズちゃんは本当に迷子になっているんだろう。どうすればいいか、どうしたらいいか、分からなくて立ち止まっている。 掠れた声は今にも泣きそうで、なにか膨大な不安や恐怖を感じていることが良く分かった。 だから俺はシズちゃんに口付けた。薄く開かれた唇から舌を侵入させて、シズちゃんのと絡め合う。優しく、軟く、吸って、下唇を甘噛みして、痛くないように、気持ち良くなれるように。 きっと、今シズちゃんは泣きたいんだ。だけど俺たちはもういい大人で、他人の目の前で泣くことに羞恥を感じずにはいられない。だから感情的なものか生理的なものか、分からなくなるほどにぐちゃぐちゃにしてあげればいい。 それに互いの体温を感じれば、一つになって気持ち良くなれば、そうすれば少しは安心するだろう? 俺がここにいるって、実感できるだろうから。 「っ……は」 「ん…………」 最高の待遇をしてあげよう。シズちゃんが一人で震えないように、俺の最大の優しさで労わってあげる。俺が普段人間という種に向けている、世界の老若男女に平等に向けているこの愛を、今この瞬間だけはシズちゃんに全部与えてやろう。 → |