> 矢印は一方通行の恋を指す |
*** カーテンを開け放していた窓からは街を照らすネオンの点滅がよく見える。薄暗闇に目が慣れていたせいか、それらが眩しくて思わず目を細めた。 『ありがとう幽君。君のおかげでシズちゃんが手に入ったよ』 「……」 『怒ってる……わけないか。でもある意味怒ってるのかな? まぁどっちでもいいや、俺には関係ないからね。でも急な話だったから驚いたよ。事前に知らせてくれてもいいんじゃないの? あの場面でハッタリ考えるの結構大変だったんだから』 「臨也さんなら、それくらいのことは容易いでしょう?」 昨日から、計画は始まっていた。本当はずっと前から案は練ってあったけれど、仕事が忙しくてままならなかったせいでここまで遅くなった。だけど、とうとうそれも終わった。今日、俺が望んだこと全てが終わった。 そっと一人で息を吐いた。それは果たして安堵か、嫉妬か、この報われない恋の結末に対するものなのか。 “俺、臨也さんの事が好きなんだ。” あの時言った言葉は、嘘だ。 あれは兄さんが臨也さんの元に行くように仕向けるための罠。兄さんのあの性格ならすぐに殴りに向かうだろう。彼が絡むことなら尚更だ。 そして聞くだろう。「幽に何をした?」と。臨也さんの全てが信じられない兄さんはきっとそうする。そして頭のいい彼はこう考えるに違いなかった。 チャンスだ、と。 臨也さんはずっと兄さんを欲しがっていた。正確に言えば、兄さんのあの力を。けど手に余るから毛嫌いしていた。 けれど、その兄さんを手に入れられるチャンスが来たら? あの人なら、その絶好の機会を逃しはしないだろう。その場にある駒全てを使って、兄さんを丸め込むに違いない。 その駒の中に、兄さんの弱点の一つ「平和島幽」がいるならば、彼は無敵だ。 そうして賭けにでた俺は、それに勝利した事を伝えられた。 予想通り、兄さんは臨也さんのものになった。 俺の手から、離れていった。 「それより……兄の事、大切に扱って下さい。少しでも傷つければ、許しません」 『大丈夫だよ。あの力が手に入った今は、俺はシズちゃんだって愛してみせる。籠の中で、可愛がってあげるよ』 「できれば、それ以上も」 『うーん、それはどうかな? でもシズちゃんの力は俺を惹きつけてやまないから、もしかしたら、そうなるかもね』 「……」 『でも幽君は変わってるね。あぁ違うか。――歪んでいるね、君も。俺も周りから言わせれば相当歪んでるらしいけど、君も俺と同じだ』 「……」 『だって、君の矢印はずっと報われない方向を指しているんだからさ』 「……」 無言で言葉を受け止める俺に臨也さんは別段怒りもせずに喋り続けた。次々に紡がれていくそれを聞きながら、ぼんやりと考える。 俺は兄さんが好きだった。 でもその感情以上に、幸せになって欲しいという思いの方が強かった。 臨也さんは兄さんの力を認めてくれた初めての人。例え会う度に喧嘩と称した殺し合いばかりする仲だとしても、あの力を褒めてくれた人には変わりない。 いつも周りから恐れられていた力。望んでもないのに怒るだけで外れるそのリミッター。 俺は怖くなんかなかった。兄さんを怖いと思った事なんて、一度もない。けれど、それをいくら家族である俺が言ったところで何の慰めにもならないことくらい、知っていた。 いつもの力のせいで孤独になっていた兄さんを怖がることもせず、対等にみてくれる人たちが兄さんにとっては必要不可欠で、そしてそれを一番近い形で叶えたのが臨也さん。 自分の中に芽生えた恋心に、兄さんは気付いてない。兄さんは良くも悪くも鈍感で単純で――恋を知らなかった。 いつだって臨也さんを殺そうとする場面に臨也さん以外の人間がいる事を、きっと兄さんは気付いていないだろう。 臨也さんが兄さんでない、赤の他人と話している。それだけで怒る要因になりえる。それが例え自分の友達であっても、兄さんは耐えられない。 あぁ、それは、それは嫉妬って言うんだよ、兄さん。 臨也さんの目が他の誰かに向く事が、耐えられなくて苦しくて悲しくて、そうして悲鳴を上げて、でもそれを「怒り」以外で表す術を兄さんは持っていない。自分だけを見ていて欲しくて、けれどそれ自体に兄さんが気付いていないなら。その恋の苦しさの波紋を、「苛々する」で片づけてしまった兄さんが「臨也さんを嫌悪しているために生じるものだ」と変換してしまうのは、ある意味仕方がない気がした。 好きなのに、その感情に気付いてない。 嫌いという言葉で自分が伽藍締めにされていることに、気付いていない。 それは見ているだけで辛かった。 けれど、それを直接本人に言うことは出来なかった。 だって、兄さんは信じない。例えその事実を俺から伝えたとしても、怒りの矛先は全て臨也さんのところへ向かう。吹き込まれたと勘違いする。 違うんだ、違うんだよ兄さん。 いくら言ったところで信じてはもらえないだろう。きっと別の人が言ったところで、それは一緒だ。なら、どうすればいい? どうしたら、気付いてくれる? 答えは、すぐに見つかった。 自分で気付いてもらうしか、もう方法はないじゃないか。 だから、事を起こした。きっかけはあの言葉だけで十分だ。あとは臨也さんが上手くやってくれると信じていた。皮肉にも、一番憎いあの男を信用した。 そっと目を伏せる。昨日嘘の感情を告げた後、兄さんは二重の意味でショックを受けたんだろう、俺と目を合わすことなく帰って行った。 一つは、臨也さんが俺と会っていた事に無意識でも傷ついて。 もう一つは、俺が兄さんが嫌いだと思っている臨也さんを好きだと告げた事に動揺して。 本当は遠くなっていくその背中に縋りつきたかった。嘘だよ、ごめん、って謝りたかった。 けれど全ては、兄さんの為に。 別に臨也さんのものになってもらいたいわけじゃない。本当は自分の隣にいて欲しい。笑ってて欲しい。ずっとずっと傍にいて欲しい。けれど臨也さんでなければ兄さんが満たされないのも分かっていた。 だから、だから……。 「俺では、駄目なんです。俺は理解ある弟として、兄を見守ることしかできません。傍にいるのは臨也さんじゃなければならない」 くすり、と忍び笑う声が電話越しに聞こえてきた。 兄さんの幸せの為にとずっと自分に言い聞かせてきた。俺じゃ駄目だと。臨也さんでなければいけないと。報われない。本当に俺も兄さんも報われない。これは一方通行の恋だ。 だって、俺は知っている。臨也さんは、兄さんを「駒」としてしかみていない。 ただあの力が欲しいだけで、兄さんを好きなわけじゃない。 それでも。 それでも、一縷の望みに縋りついてみた。臨也さんが兄さんを好きになる、その未来に。 彼は兄さんを受け入れてくれたんだ。だからそれなりに責任は取ってもらわなくてはならない。 俺の矢印は一生報われない、一方通行なものだけれど。 俺の恋は、最高に滑稽なものかもしれないけれど。 それが俺に出来る、兄さんへの想いの形だから。 「だから、兄のこと、宜しくお願いします」 |