君を呪う朝


「ぁ、っつ!」

パァン、と反響する乾いた音が耳を貫いて、手首に熱が走る。それと同時に拘束されていた腕が自由になる感覚がした。
ほんの少しの時間しか拘束されていなかったはずなのに、思った以上にストレスに感じていたらしい。解放感にほっと息をつく。

覚えのある匂いに思わずその名前を呼んだ途端、体を押さえつけられた。手を取られたと思ったら、次の瞬間には乾いた音と線を引くような熱さが手首に走っていた。
あまりにも速い展開に抵抗なんかできる暇もなく、気付けば私の手首は自由になっていた。急展開すぎる。呆然としそうになる自分を無理矢理急かして目隠しに手を伸ばす。

とにかくこの目隠しを外したかった。すぐ傍にいるだろうその人を見て、そして。
言いたいことがいっぱいある。伝えたいこともたくさんある。でも、まずは、謝まりたい。

店長に言われて、借金取りに拉致されて、ここに居る間ずっと後悔ばかりしていた。
言わなきゃ伝わらないのに、なんで言わなかったんだろう。最後になるなら今思っていること、全部言えばよかった。いつかが当たり前だなんて、そんなことあるわけない。母が死んだときに、分かってたはずなのに。
また同じ過ちを繰り返す自分に腹が立った。惨めで、不甲斐なくて、どうしようもない大馬鹿者だ。

だから、今、後悔しないように私がすべきことを、伝えたいことを、この人にきちんと伝えなければ。
目隠しの結び目に手を伸ばして少し弄れば目元の締め付けが緩んだ。

「あ、おい、目開け――」

ばさ、と勢いよく目隠しを取り払って目を開ければ、竜胆さんが視界に広がるーーはずだった。その姿を見据えようとした私の目を、煌々と輝く照明が焼いた。

「ぁっ!? ま、まぶし!?い、いたい……! め、めが……!」

目の前が真っ白になった。寝ていた最中急に電気を付けられたみたいな、きゅうと目が絞られるような感覚。いつもよりも酷い痛みに涙が零れて目を抑えた。
そうだ、ずっと目隠しされて真っ暗だったのにいきなり明るい中で目を開けば当然そうなる。痛い、痛いと悶える私に微かなため息と笑い声が聞こえた。
くそう。めちゃくちゃ笑われてなんだか恥ずかしい。

少しずつ目が慣れて来たのか、だいぶ痛みもマシになった。おそるおそる目を開ける。さっきまでの焼け付くような痛みはない。
目を開ければ、瞼の裏に何度も描いた紫色が広がった。いつもよりもほぐれた柔らかい表情に思わず言葉が出てこなくなる。謝らなきゃいけないのに、何度も思ったのに。
だって、そんなの。反則だ。そんな、優しい顔するなんて。ずるい、勘違いしそうになる。まだ何も言えていないのに、許されたような気持ちになってしまう。情けない。

「大丈夫か?」
「りん、ど……さん、竜胆さん……っごめんなさい、私……!」

間近にあった綺麗な顔が少しだけぎょっとしたものになった。ちゃんと謝りたいのに言葉がつっかえて、せっかく綺麗に見えた視界も歪んでくる。竜胆さんの顔なんか見れないし、不細工な顔も見て欲しくなくて両腕で目を覆う。また視界が真っ暗になった。
それでも、暗い中で散らばる言葉を一つひとつ手探りで探して繋いでいく。

冷たい言葉掛けて竜胆さんを突き放した。自分から捨てるのが怖かったから、捨てるように仕向けた。そうすれば、諦められるから。
何かに縋りつく浅ましい自分を見たくなかった。
何も持っていない、がらんどうな人間の、取るに足らないプライドで、私は竜胆さんを傷つけた。おまけにこんなところまで来させてしまった。本当にごめんなさい。

ぐずぐずと鼻をすすりながらそう伝えると、仰向けのまま床に転がっていた私を竜胆さんが起こした。二人で固い床に座り込むと、竜胆さんは私を見てなにやら頭を抱えていた。
あ、あれ、おかしいな、怒られるどころか罵倒される覚悟だったのに。内心で首を傾げながら呼びかけても、「むしろコッチが悪いっつーか」とか「謝んの俺じゃねえ?」とか何やらブツブツ言っている。なんの話だろうか。

しばらくして自分の中で腑に落ちたのか、竜胆さんは気を取り直したように私の顔を見て、視線を額の傷に移すと顔を歪めた。なんで竜胆さんがそんな顔をするんだろう。別に竜胆さんのせいじゃないのに。今回は自業自得みたいなもので、そもそもはお金を返せない私が悪い。

「怒ってねえし、名前は悪くねえよ……謝んのは俺の方だわ。悪ぃ、痛かったし、怖かったよな」
「……確かに怖かったです、けど」

怖かった。殺されると思ったし、体を売ることになるんじゃないかと思った。けど、私が一番怖かったのは。

「竜胆さんに、もう二度と、会えなくなる方が、」

いやでした。
それを言ったらもう戻れなくなる気がした。けれども怖気づいた私が尻すぼみに放った言葉は、私たち以外誰もいない部屋には思いのほか大きく聞こえた。そういう意味合いにも取れる狡い言葉はしっかりと竜胆さんの耳にも届いたらしい。

拒絶されることが怖くて、竜胆さんの顔は見れないまま視線をさらに下に向ける。しん、と雪が音を吸い込んだみたいな静けさが辺りを支配していた。
後悔した。逃げたい。消えてしまいたい。こんな、ずるくて、欲張りな言葉、言うんじゃなかった。どうしよう、誤魔化さなきゃ、冗談です、って言わなきゃ、竜胆さんが離れていってしまう。

焦る気持ちとは裏腹に、はくはくと口が動くだけで何を言えばいいか分からない。どうしよう、と思っていたら名前を呼ばれて顔を上げられた。恐る恐る顔を上げれば、綺麗な紫色の瞳が私をまっすぐに貫いた。

「俺に、名前の全部、くれねえ?」

その言葉に息を呑んで竜胆さんを見上げる。ぜんぶ、って。私の全部なんて、大して、なにも。そう言うよりも先に、竜胆さんの腕が伸びてくる。そっと、優しい体温が頬に触れた。

「花見てる時の目も」

涙の浮いた目尻を指が撫でる。

「なんも飾ってねえ水で荒れた手も」

するりと絡むように指が触れた。

「全部、俺にくれよ」

触れる指先は溶けるほど優しいのに、有無を言わせないその言葉と瞳の奥に燃えるような情動を見つけて思わず喉が鳴った。
痛いほどの沈黙と、瞳に映る熱の狭間に見え隠れする飢えと渇き。向けられる欲望にぞくりと背中が粟立つ。恐ろしさすら感じる、初めて向けられた視線。
でも、それすらも心地よく感じてしまう私は、きっと手遅れだ。

「……あげます。好きなだけ、私の全部」

私の言葉に、竜胆さんの口元が歪んだ。堪えきれない興奮や歓喜を無理矢理抑えて失敗したような表情に、心臓の奥が握られたみたいな痛みを訴えてくる。全部渡したっていい。もともと捨てようと思っていた命だ。竜胆さんになら、いくらでも好きにしてほしい。

「だって、竜胆さんのこと、わたし、もう、捨てられない」

いままでたくさん棄ててきた。借金があるから。貧乏だから。だからしょうがない。そう諦めたよう振る舞って、全部棄ててきた。普通も。より多くを欲しがることも。

でも、この人は。この人だけは。私のものにしたいと本能が告げている。

速度をあげる情欲。夜が底を持たないように、欲望が膨れ上がっていくのも止まらない。
もう竜胆さんに会えないかもしれないと思ったときの惨めさも、喪失感も。もう二度と噛みしめないというのなら。私はどこまでも堕ちていける。

小さくても、不格好でもいいから――どこででも咲ける、強い花になりなさい。

母の言葉が甦る。その言葉が、母と交わした最期の言葉だった。母がどういうつもりでそれを言ったのかわからない。でも。
強く咲けというのなら私は何もかもを捨てて、この人の為にだけ咲く花になりたい。どこででも咲けというのなら、この人の傍で咲いていたい。
独占したい。この人だけでいい。他のものはいらない。だから、貴方だけを私に頂戴。

「捨てない。名前こそ、俺もう捨ててやれねえけど、いいのかよ」

竜胆さんの試すような目が私を貫いた。これが最後のチャンスだ。夜の闇に紛れるこの人から逃げられる最後。竜胆さんが用意してくれた、最後のチャンス。

もう答えは決まっていた。
絡められた指を握り返す。熱がかさついた指先からじんわり滲んでいく気がした。ひく、と震える指先を逃がさないように捕まえて、すり、と指を撫でる。
さっきまで握っていた、人の命を奪う道具を使うことに慣れた指先。ところどころ固くなった皮膚を撫でるだけで、許されない罪の多さが分かってしまった。けれど。そんなことはどうでもよかった。逃げないで。逃がさないで。

「竜胆さんが捨てないなら、私も捨てません。ぜったいに」

――これは呪いだ。
私を竜胆さんに永遠に縛り付ける呪い。竜胆さんがどこに行こうと離れない、魂を繋ぐ呪い。

魔物が手を引いて夜の底へ連れ去っていく。日の光はおろか、闇を掻き分ける星月の光さえも届かない場所。私の想像よりも冷たく、暗い世界が待っている。それでも、この人と一緒にいれるのなら。

たとえそこが血と暴力で覆われた、闇の世界だとしても。

「死んでも、死んだ後も離さねえよ」
「じゃあ、……一緒に地獄にでも行きましょうか」

互いに呪いのような執着の言葉を吐いて、導かれるように唇を重ねた。
恐ろしいほど甘く、刺激的なのに、溶けて一つになって沈んでいくような浮遊感と腹の底に灯る熱。相手を蝕むように舌と指先を絡めたまま、明けることのない夜の底へ沈んでいく。

沈殿した夜の果てに咲く花の名前は、この人だけが知っていればいい。




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