残夜を辿れよ


部屋で卑下た笑みを浮かべて金を数える奴らを、暴力で制圧するのは本当に簡単だった。
名前を襲った奴らを動かなくして、息をしている最後の一人を拷問用に持ち帰ろうとした時、ふいに兄貴が名前のことを尋ねた。

「なぁ、お前ら女一人襲っただろ。そいつどうした」
「っ、兄貴……!」

どうしてそんな、分かりきったことを聞くんだよ。

その問いかけに魂の底の一番やわらかい場所を撫でられたような、湧き上がる不快感に体が重くなった気がした。やめろ、と足を踏み出そうとした瞬間、何かを察したのか、振り返った兄貴の表情がすとんと抜け落ちる。足は結局その場に縫い付けられたままになった。

他人に向けられることはあっても自分に向けられることなどほとんどない、兄貴の感情も興味もない虚な表情。昔から苦手だったそこに、駄目押しとばかりに「竜胆」と一言で制されればもう何も言えなかった。
再び男に向き直った兄貴が、急に理解できない生き物に見えて、心臓が震えた。
こんな世界だ。好きにしていいと言われた女がどんな末路を辿るのか、嫌でも想像がつく。

知りたくはなかった。聞きたくはなかった。
手に入れたいと思った女が、どうやっていのちを散らされたかなんて。
きっと美しくは死ねなかった。尊厳も、生命もすべてを蹂躙されて、貪り食われるように死んでいったに決まっている。きっと、俺への呪いの言葉を紡ぎながら。

世間知らずではあったが聡い人間だった。人と感情の機微を読み取るのが得意で、無欲とはき違えた諦めと拒絶を繰り返していた。だから。きっと早々に、自分の死を受け入れた。
誰しもが感じる死への恐怖はきっと俺へ向かう。恨みの言葉となって。


あなたのせいだ。
おまえのせいでわたしはしんだ。
おまえがわたしをころした。


ーーそれでいいと思った。
名前がされた仕打ちに比べれば大したことじゃない。
どうせ地獄に堕ちる身だ。名前とは行く先が違う。いつまで生きられるかわからないなら、生きている間ぐらい名前に呪われたかった。

そうすれば、名前はずっと俺の側にいてくれる。

仄暗い幸福感を感じながら煙草に火をつけて、その煙を肺に落とした。
上層の組織の内情を洗いざらい吐いた男に残された道は一つしかない。兄貴の聞きたいことはこれで最後だろう。それを聞いたら、その後は俺にくれよ。いいとこを持っていくのは昔から変わんねえけど、今回だけは譲れない。これは俺が貰う。きっと兄貴も分かってくれるはずだ。

どうやって名前の以上の苦しみを与えてやろうか。そう思っていたのに、男の喉から漏れた言葉が血溜まりに落ちた瞬間、薄い氷で形作られた殺意が音を立てずに砕けた。

「ま"ぁ"、だ、ぉ"、ごぁ"っ、ふどお"、の、ふね"に"、い"るっあぁあ"あ"あ!!」
「はは、だってよ〜、竜胆」

今しがた顎を砕かれた男の言葉を兄貴が笑いながら繰り返した。その言葉を噛み砕いて、理解して、そして思わず兄貴の背中に視線を向けた。
兄貴は特に振り返ることもなかったが、ひらひらと振られる手が何を示しているのか分からないわけがない。

そのまま何を言うでもなく、身を翻して血の匂いが酸素に溶け込んでしまったかのような部屋から出た。
外の空気は相変わらず冷たい。体を包む乾いた冬の空気はさっきまでと変わらないというのに、どうしてか新鮮さを感じさせる。
扉を閉める寸前、部屋からは獣の咆哮にも似た声が聞こえてきたがそんなことは全く気にならなかった。階段を降りる足が早くなる。

生きている。名前が、まだ。

本当か。嘘かもしれない。罠の可能性はゼロじゃない。慎重に行くべきだ。
そんな警鐘が鳴る一方で、名前が生きているという事実に胸元の銃の存在を確かめる手は震えた。

それまで体を支配していた全てを焦がすような冷たい熱が瞬く間に色を変えていく。興奮ともとれない何かが燃え上がるように体を支配していた。
その感情が何かわからないまま、車のキーを回した。いつの間にか暗くなった首都高をテールランプがなぞる。アクセルは異様なほど軽かった。




埠頭には本当に誰も居なかった。
小さな貨物船のような寂れた船が置き去りにされたように泊まっている。それを確認してから静かに船内に身を滑らせた。周りに人の気配はない。
エンジンルームにもどこにも、名前どころか人がいた気配すら見当たらなかった。この船だけが時間を止めているかのように静まり返っている。

残りは船底にある貨物室だけだ。音を立てないように扉を開けると予想に反して明るい室内が広がっていた。がらんとした、何もない部屋にただひとり、名前がいた。体を縛られて、目隠しもされて体を投げ出してはいたが、意識はあるらしい。

名前だ。間違いない。本当に、生きてる。よかった。本当に。

階段から降りる。駆け寄って、寒そうな体を温めてやりたい。もう大丈夫だ。手を握って、安心させてやりたい。心臓よりも緩やかに靴底が乾いた音を立てた。

「ひ、……っ!」

その瞬間、名前の口から漏れた小さな悲鳴が耳に届いて、足が凍りついたように動かなくなった。
名前の体が震えているのが見えた。額に付いた乾いた血の跡も。過呼吸みたいに荒くなった息が小さな口から零れていく。

怯えている。名前が。誰に。俺に。
そう思った瞬間、急に足元が抜け落ちたような感覚に襲われた。名前にとっては俺もあいつらも変わらない。同じ夜の闇でしか生きられない人間だ。

今は塞がれている名前の目は、きっと今までと同じじゃない。春のようなやわらかさは消え失せて、閉ざされた氷の世界のような冷たさと怯えを孕んでいる想像が簡単についた。あの蕩けるような瞳は、きっともう二度と見れない。それどころか、きっと怯えた目で俺を見て、そしてぎこちなく笑うんだろう。

嫌だ。そんな、目で見られるくらいなら。

名前に灰谷竜胆であることを告げられなかったのは、名前に夜の底の人間だと見られたくなかったからだ。
普通よりも少し踏み込んだ関係が心地よかった。向けられる全幅の信頼が温かかった。そうしてあの日愛おし気に花の名前を呼んだように、やわらかい瞳のまま俺を見て欲しかった。
それが、見れないというなら。

いっそ、この手で折ってしまえ。

銃口をそのまま名前に向ける。
簡単だ。指先に力を込めて、引くだけだろ。さっきまでやって来たことと変わんねえよ。そう思いながら指先に力を込める。
最後まで引くだけだ。苦しまないように、一発で。すべての花びらを散らせてやらなければ。

白い棺に入った名前の姿が脳裏に浮かぶ。綺麗だ。でも一人きりだと寂しいだろうから、送るときには竜胆の花を敷き詰めてやろう。
他の花なんかいらない。俺だけでいい。冷たくなったその手に握らせてやれば、きっと死んだ後も俺のことを忘れないはずだ。

だから、美しい瞳のまま、死んでくれ。

引き金に力を込めた瞬間、ふわりとやわらかい匂いがして、声が聞こえた。


『私、秋の花だったら竜胆が一番好きなんです』


引き金から指が外れる。
名前は今も震えたままだ。恐怖に怯えてながら唇を噛み締めて、息を荒げているのが見える。噛みすぎて唇に血が滲んでいた。
噛み締めた奥歯の擦れる音が自分の体に反響する。

冬のように美しく、春のような朗らかさを持つこの花を散らすことが、どうしても出来ない。

散って欲しくない。枯れて欲しくない。ずっと、綺麗に、優しいまま咲いていて欲しいと。そう思ってしまった。
同時に分かる。このまま名前が美しい花であるためには、俺が触れてはならない。

俺が名前に触れなければ、名前はどこかで花に囲まれながらきっと幸せに過ごす。そうさせる。国内でも海外でも、梵天の力をもってすれば女一人の人生を作ることは朝飯前だ。
でも、一度でも触れれば、きっともう手放せない。地獄よりも暗い夜の底に閉じ込めて、誰にも触れられないように仕舞いこむ。たとえ名前が拒否したとしても。

わかり切っている。そんなこと、できない。血と暴力では花は咲けない。
だから、このまま警察を呼んで保護してもらうのがいい。そして、どこか、海の見える町の小さな花屋で、淡い色に囲まれて生きる。名前には、それが似合う。
借金はチャラにさせる。それでいい。名前が、どこかで、幸せであってくれれば。俺が、もう二度と触れられなくても。

さっきまで引き金を握っていた手が導かれるように名前に向かう。最後に、一度だけでいいから触れたかった。一生忘れない温もりを、やわらかな匂いを、本能の奥底まで刻み込みたい。
だめだ。触れるな。触れたら、もう戻れなくなる。理性がそう叫んでいる。わかってる。触れたら、もう。

心臓が軋む。触れたい。

触れたい。名前に。

叫びだしたくなるような衝動が腹の底で暴れている。
血が出るほどにその手を握って、息を詰めて、そうして伸ばした手を引いた。指先に熱は触れなかった。これでいい。後は電話をするだけだ。
そのまま足を踏み出した瞬間、背中に音が投げられた。

「竜胆さん」
「―――っ!」

確信めいたその声に足が縫い付けられて、腹の奥に押しとどめていた何かが破裂した。体中に熱が走る。ギリ、と今度こそ奥歯が音を立てた。
なんで、なんでわかんだよ。馬鹿じゃねえの。折角手放してやろうと思ったのに、なんでお前はそれを、こんな踏みにじるんだ。

言葉にならない。ぐちゃぐちゃになった感情が体中を巡っている。衝動のまま何かを壊したくなる。壊したい。渦巻く感情を、激情を、どこかへ逃がしたいのに、何もない。
壊したい。壊したい。壊したい。

窓ガラスでも、壁でもなんでもよかった。この渦巻く感情をどこかに逃がせるのなら。
人間でも。

もう一度、銃口を名前に向けた。
なんで、こんな掻き乱されなきゃねえんだよ。俺が、名前に。

憎しみに似た感情が湧き上がる。もう、どうだっていい。

今度の引き金は、想像よりも軽く引けた。




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