息絶えた朝焼け
そう、あんた、花がすきなの
ひときわ儚いいのちの匂いがした。
ひそやかな夜を溶かした声色が、澱のようにゆっくりと白い病室に沈殿していく。
それまでの歪な形をしていた生活とは全く違う世界が少しずつ、ベッドの上で息づく命の輪郭を曖昧にしていた。消毒液の匂い、知らない誰かの息遣い、風に揺らぐカーテンの影。陰鬱な色で出来ている世界が広がっている。
花瓶についた水滴を拭きながら零れていく言葉に耳を貸す。自分の子供について何も知らないことを謝るそれは、ただの文字の葬列にしか聞こえなかった。耳に入っていく音が鼓膜を浸潤していく。
諦めと死で縁取られた言葉が少しずつ養分となって、いずれ不吉な花を咲かせるのではないかとさえ錯覚した。そっと視線を外す。
顔を見ながら話すことなど出来なかった。その顔に僅かでも死の影を見てしまえば、もう引き返せなくなる気がした。それでも、養分となる言葉は止まらなかった。
蕾が開くのを止めるすべがないのと同じで、それを止める方法など知らない。ブリキの軋む音が、どこからか聞こえる。
『なら……小さくても、不格好でもいいから――』
ああ、あのひとは、母は、なんと言っていたんだろうか。
ゆらゆらと揺られている。
頬杖をついて机の上で船を漕いでいるときのような、まどろみの淵を指で優しく撫でられている心地よさが体を包んでいた。誘われるがままもう一度意識を離そうとした瞬間、浮上していく意識を遅いと詰るように頭に痛みが走った。
「ぃ……っ、た……ぁ、」
痛い。痛い、なんで。ぐらぐらと揺れるのが地面なのかそれとも頭の中なのか分からない。貧血のような酩酊感と頭に直接針を刺されたかのような痛みが交互に襲ってきて、吐き気が込み上げてくる。
どうして。痛みの合間に記憶の最後を手繰り寄せる。ああ、そうか、強盗に殴られて、それで、私。
朧気ながらに自分の状況を把握しようと目を開ける。どんなに周りを見ても視界が暗いまま変わらないことに気付いて、思わず声を上げそうになった。それと同時に目を覆う布の感覚に言葉が出てこなかった。
目隠し、されてる。固い床と後ろに回された手足にも似たような感覚があるから、縛られて転がされているみたいだった。
それになんだか異様に寒い。命を奪うほどの寒さじゃないけど、それでも底冷えする寒さが体から熱を奪ってくるせいで、歯がかちかちと鳴った。その震えが寒さのせいなのか、恐怖から来るものなのか自分でもわからない。
上がる息と壊れそうなほど大きく脈打っている心臓の音が少しずつ落ち着きを取り戻して、ようやく周りのことが少しだけ分かるようになってきた。
周りからはなんの音もしなくて、きっと無人の船の貨物室か何かに閉じ込められているんだろうと想像がついた。海辺と分かったのは少しだけ潮の香りがするのと、気のせいではない揺れてる感覚のせいだった。
エンジンの音がしないから、たぶんどこかに停泊中なのかもしれない。少しだけ自分の状況が分かって冷静になる。
でも、このままここにいるのが良くないことくらいはわかる。逃げなきゃ、ここから、誰もいないうちに。
どうにか抜けようとしてもきつく縛られていて、目隠しも手足の拘束も外れない。焦って、それでもどうにもならなくて、しばらくめちゃくちゃに動かしているうちに手首に痛みが走って思わず動きを止めた。
頭も痛いし、腕も、足も痛い。どうしようもない状況に、何もできなくて泣きそうになる。
なんでこんな、私ばっかり。ちがう、今はそんなこと考えてる場合じゃない。ここから逃げなきゃ、逃げて、戻って、それで。それで。
戻って、どうするんだろう。
ふと浮かんできた疑問がぞわぞわと背中を這いあがっていく。それまで感じていた寒さとは違う、末端から血液が少しずつ凍りついていくような錯覚に指先が微かに震えた。
戻ったところでまた借金に追われる生活が待っている。返せる目途なんか立っていない。帰って会いたいと思うような肉親もいなければ、友人もいない。
店長は心配してくれるかもしれないけど、しばらく連絡が取れなくなったら今までの従業員と同じように退職処理をされて終わるんだろう。
よくよく考えてみれば私一人いなくなったところで、誰も心配しないし、探しもしない。
私って、こんな、何もなかったっけ。
分かり切っていたのに、どこかで目を逸らしていた事実を突きつけられて、ふわふわしていた頭が急に冴えていく。それなのに体からは力が抜けていって、とうとう重力への抵抗を投げ出した。
もうどうでもいい。何もかも、考えるのが面倒だ。
借金があるからしょうがない。貧乏だからしょうがない。そう自分に言い聞かせて、今まで全部諦めてきた。
今まで自分の側から離れて行ってしまう人を引き留めることなんてしなかった。大事にしたいと思ってもいつか離れて行ってしまうくらいならと、零れていくものたちを拾い集めようとしなかった。
大事にしても結局はあの花束みたいにゴミ箱に捨てられるなら、いっそ何もない方がいい。だから、何もなくなるように、他人のせいにして自分を諦めた。
全部捨てて来た結果がこれだ。もともと私が持っていたものなんて、本当に僅かしかなかったはずなのに今じゃその大切なものすら、私の掌には残っていない。もう何もかも手遅れだ。
後悔にもなれない出来損ないの想いが嵐のように吹き荒れて、心が氷に閉ざされていく。
借りた金を返す。その為に働く。母との約束だから。今以上を望むな。どうせ手に入らないなら無駄だから。
借金を返してもやりたいことなんてない。今の生活に未練もない。私には、欲しいものなんか、ひとつだって。
『名前』
でも、ひとつだけ。もし、許されるのなら。
痛みの隙間を縫うようにして心臓の奥を揺らす声が鼓動を大きくしていく。凍り付いた心臓を無理矢理動かしているような痛みが広がって、逃げるように身を縮こまらせた。
ちゃんと伝えればよかった。竜胆さんに、ちゃんと、謝って、ただの花屋でも友達でも、どんな形でもいいから、これからも傍にいたいと言えばよかった。どうせ手折られる花だったら、一夜でいいから蕾を綻ばせて、そうして朝と共に枯れてしまいたかった。
肺の奥に匂いが香り立つ。秋の寂しさの中で凛と咲く花の名を持つ人の匂いだ。きっとこれから訪れる苦渋に私は耐えきれない。けれどこの匂いと名前があれば大丈夫な気がした。
心の中で竜胆さん、と何度も名前を呼ぶ。まるで呪っているみたいだ、と思いながらも止まらなかった。
なにもいらないから、これだけは、せめて持っていかせてほしい。
目の淵に滲む涙が目隠しの布に吸い込まれたとき、かつん、と音がした。
固い革靴の底が床を打つ乾いた音が心臓を跳ね上げた。突然の音に自分以外の誰かがいることを理解して、世界の音が自分の心音で支配される。
なんで、今まで誰もいなかったのに、誰がきたの。私を殴った人だろうか、それとも借金取りだろうか。
どっちにしても碌な未来にはならない。海が近いなら殺されて沈められるか、どこか海外に売られるかどっちかだ。借金が返せない人間の末路なんて、想像すればすぐに分かる。
作り物みたいな話だけど、今私が体験してることを思えば病気を治せる魔法使いなんかよりよほど現実的だ。
足音が止まった。すぐ近くで見られている気配がする。音はしない。それが逆に恐怖を煽って体が震える。
「ひ、」
声が引き攣った。もうどうでもいいと諦めたと思ったのに殺されるだろう未来を思うと、恐怖が指先まで広がっていく。
こわい、こわい。でも、どうせ死ぬならせめて痛くない方法にしてほしい。お願いをしたら、叶えてくれるだろうか。そう思って散らばる思考を掻き集めて、震えを押しとどめるように深く息を吸った。
僅かに届いていた潮の匂いを掻き分けるようにして漂ってきた匂いが、肺の奥をくすぐった。息が止まる。音が消える。
知っている。この香りを、私は知っている。間違えるわけがない。
「竜胆さん」
そう呟いた瞬間乾ききった破裂音が響いて、燃えるような熱が体を襲った。