夜明け前に眠ろう


焦げつく匂いと有象無象の喧騒が、肺の奥にある臓器ひとつ一つにまでまとわりついているような気さえしている。
意味もなく駆け回る警察の中に明らかに違う目が混ざり始めた気配がして、竜胆はようやく花屋の前を後にした。

職業柄、人目につく場所とはとことん相性が悪い。特にこういった騒めきと混乱が支配する現場は最悪だった。混乱に生じて事を成しやすいのは警察も同じで、これ以上この場に留まれば刑事に絡まれるのは目に見えている。ここにいること自体が梵天の不利益になりかねない。その判断が竜胆の背中を押した。

日本の犯罪組織として、世界に堂々と名前を響かせている梵天の最高幹部ともなれば、その情報には千金に値する価値がある。
どこにいるか、何をしているか。生活リズムや住所は当然、吸っている煙草の銘柄。愛用するブランド。
そんな些細なことすら知りたい人間はごまんといる。マイキーには及ばないまでも最高幹部である竜胆にも当然、そうさせるだけの立場と力があった。

その立場ゆえに、いつもなら騒ぎの渦中に飛び込むことはなかったし、警察が来る前にはその場所を離れている。ずっとそうやってきたのに、今だけはその足はなかなか動こうとはしない。それこそ、蘭から戻って来るよう催促の電話が鳴り響くまで、竜胆の足は凍り付いたようにそこから離れなかった。

竜胆たちの生きる世界で引き際を見誤るということは約束された終焉だった。死は容易く、そして不躾に扉を叩いて終わりを連れてくる。
十代そこそこで六本木を仕切っていたころから、そういった匂いを嗅ぎ分けるのは上手かったように思う。その匂いは今まさに竜胆の肺に重く沈殿していた。

頭ではわかっている。今が引き際だ。そう理解しているのに、それでも動けなかった。動きたくなかった。
このまま待っていれば、そのうち名前が帰って来るんじゃないか。

出来損ないの淡い期待を抱いて、それが炎に焼かれていくのを眺めては、また期待を抱く。無駄だと分かりながらも、ずっとそんなことを繰り返していた。そんな幻想の甘く芳醇な匂いが、淡い死の匂いを掻き消そうとしている。

「灰谷さん、襲ったのは最近ここら辺でクスリを捌いていた例の中国の、」
「……」
「……、九井幹部、三途幹部からも帰還指示が、」
「――……わかった」

何度かの呼び掛けに応じてようやく反応を返せば、部下のほっと息を吐く気配がした。
未だ燃え盛る花屋を視界から弾いて車へ向かう。背後では一際大きな声が上がると同時に大きな音がしたが、竜胆が振り返ることはなかった。あんなにも動かなかった足はいまや迷いなく人混みを掻き分け、上質な皮張りのシートへ迷いなく身を滑らせた。バタン、と世界を切り捨てる音が竜胆の首筋を撫でていく。

車は縫うように六本木の街を通り抜けている。警察を振り切るようにいくらかの細い道を通って、気付けば事務所へ戻る道を走っていた。いつもと変わらない。ただ、あの細胞一つひとつに焼き付くような熱の名残と、相反するように冷たい指先以外は。

竜胆は事務所へ戻る前に、部下へもう一つの火災現場に向かうよう指示を出した。その火災現場がどこかは知らなかったが、一度だけ通った道をなぞりながら走っているのが分かって、諦めと喪失感が雪崩のように竜胆を襲った。
止まった車の窓越しに見える見覚えのある古いアパートは、もはや崩れて燻った煙を出すだけの物言わぬ残骸となっていた。碌なセキュリティも存在しない、崩れてしまいそうな錆びた手摺りを鈍く輝かせていたあの場所は文字通り灰と化している。

窓の外から車内に視線を戻した竜胆が「出せ」と告げれば静かに車が滑り出した。顔を覆うでも項垂れるでもない竜胆の様子に、バックミラー越しに運転手の気遣うような視線が向けられているのがわかったが、今の竜胆にとってはどうでもよかった。
いつも花屋までの送迎をさせていたのはこいつだったから、思うところの一つや二つはあるんだろう。

ふと髄の奥に浮上した声と匂いを思い出して、竜胆は喉を掻きむしりたくなるような衝動に駆られた。

花屋にもアパートにも関係する人物は一人しかいない。狙いは明白だった。
部下の言うように中国マフィアの新興勢力なのだとしたら、些か不自然が残る。花屋はただの六本木の古参が営む店であり、どの勢力図にも記されない非武装地帯だ。利害など存在しない店と人間が、ここまで徹底的に尊厳を奪われる理由などない。

そう言いたかった。言えればよかった。だが、頸に刻まれた月がそれを許そうとはしない。

馬鹿でも分かる。自分があの店に行くようになったことが全ての発端で、あの店にその価値を持たせたのは紛れもなく自分だった。そして贄の矛先は、その店で最も弱いものに向けられた。だが梵天の、竜胆の名前があれば余程の馬鹿でない限り手を出そうとはしないはずだ。その筈だった。
だが、どこにでも竜の鬚を撫で虎の尾を踏む蛮勇は存在する。竜胆の前にも平等に。

『さっさと囲っちまった方がいいんじゃねえの?』
『……無理だろ、あいつ、そういうの似合わねぇって』
『フーン、まあ、竜胆がいいならいいんじゃねえの』

かつて話した言葉が自分を抉る。ギリ、と奥歯が擦れて嫌な音が体に響いた。
こんなことになるなら。こんな形で手を出されるくらいなら、蘭の言う通りに早々に囲ってしまえばよかった。家も、友人も、仕事も全部奪って、自分だけしかいない世界にして。そうして誰も手の出せないところに閉じ込めてしまえば、きっとこんなことにはならなかった。
中途半端に自由にさせていたからこうなった。日向の道を歩いていてほしいなんていう甘い考えなど、持つべきじゃなかった。


俺が、名前を殺した。


膨大な質量を持った感情がどろどろになって解けないまま沈殿していく。今すぐ何かにぶつけて、壊して、その感情ごとどこかに捨ててしまいたかった。

新興勢力の動き、梵天への宣戦布告、野良犬も食わないようなクソの計略。散らされた淡い命。
全てが繋がると同時に竜胆の心に店を燃やした温度以上の激情がせり上がってきて、臓腑を焼くように熱が渦巻く。

今すぐにその馬鹿どもを竜胆が知る中で最も惨たらしく殺してやりたかった。凍らせて魚の餌にするのではなく、生きながら魚に喰われるような底の見えない地獄を出来るだけ長く味わわせてやりたい。
手を出したことを後悔させて、名前にした以上に尊厳を蹂躙して、塵ほどの価値もない命を踏みにじるのだ。
しかしながら、感情の赴くままに力を込めようとした竜胆の手は依然として沈黙を守っていた。

竜胆を梵天たらしめる矜持が月であれば、激情を抑えるのもまたその月だった。

名前と竜胆はただの花屋の女店員と客という関係でしかない。名前は竜胆の女でもなければ、構成員でもない。竜胆と名前を結ぶ線はあまりにも細く、そして脆かった。梵天の灰谷竜胆にとってその選択肢は薄氷の上を歩くに等しい危うさを孕んでいる。

先に手を出したのは向こうだが『梵天』に傷が付けられていない以上、報復する理由としてはあまりにも弱すぎた。最悪の場合、こちらが先に手を出したと言われて全面抗争の引き金になりかねない。代償はあまりに大きく、その判断は竜胆が下せるものではない。

その事実に竜胆は今度こそ耐えきれず、渦巻く憎悪をシートに叩きつけた。あとで修理代を請求されようがどうでもいい。行き場を失いつつある憎悪をどこかに向けなければ気が狂いそうだった。
もう一度拳を振り上げて硝子でも殴ろうとした手に一瞬だけ荒れた手の感覚が甦って、竜胆の拳から力が抜けていった。

ごめん、名前。俺はお前のために何もしてやれない。

梵天であることを後悔したことはない。きっとこれから先、梵天のために生きて死ぬのだろう。それでも、たとえ地獄に落ちたとしても、あのやわらかな匂いと美しい白銀の世界は失いたくはなかった。
世界が暗くなる。青と白の明瞭な世界は灰色と鈍い白に変わって、容赦なく命を奪うほどに凍てついた。

雪原の足跡だけを、遺したまま。





ふと、エンジンが止まった。考え込んでいるうちにどうやら事務所以外の場所に来たらしい。そこが見慣れない場所であることを瞬時に理解して胸ポケットの銃に手を掛ける。同時に扉が開いた。

「よー、竜胆、派手に燃えたなぁ」
「なんだ……兄貴かよ……」

見知った顔に安堵した竜胆がシートに体を預けると、蘭は笑いながら欠片も重さを感じない声と言葉で同情を寄越した。流石の兄貴でもこの状態の弟に対してその反応はどうかと思う。

「竜胆に言ってなかったことあってさあ」
「兄貴、悪ぃけどそれ今必要な話?」
「あの花屋の権利、買っといた」
「は?」

蘭に渡された書類には、権利譲渡の内容が記載されていた。あの店の住所とジジイの印鑑、そして蘭の名前。それだけなら最悪偽装も考えられたが、承認の最終確認者は九井一の名前がある。流石の蘭も梵天の金庫番である九井の名前を勝手に使うほど愚かではない。
考えられることはただ一つ。この書類が本物で、あの花屋は梵天の傘下、それも直轄に下ったということだ。

そして、それだけで十分だった。梵天のシマに手を出すことがどういうことかを、行儀の悪い犬に骨の髄まで刻み込める。大陸の連中に梵天の名を刻み込んで、弔いに大華を咲かせてやることが出来る。あの世まで届くような復讐の花だ。
思わず笑みを浮かべた竜胆を誰が止められようか。復讐は蜜より甘く、地獄より芳しい。

「これであいつら潰せんぞ〜、お兄ちゃんに感謝しろよ」
「……ありがとな、兄貴」
「それとな」

蘭の言葉の温度が急速に冷えていった。なんだ、急に、と思った途端、竜胆の耳にひっそりと言葉が落ちて来た。

「周辺の店の防犯カメラを押えた」

温もりを奪い去っていく夜の匂いがした。
さっきまでの軽い調子の蘭の声は成りを潜めていて、竜胆は唐突に昔を思い出した。まだ自分たちが六本木ではしゃいでいた頃の、感情と愉悦の赴くままの蘭が本当にキレたときに出す声。感情も表情も、ごっそりと落とした姿が頭に浮かんだ。どうやら、名前に手を出されて怒っているのは竜胆だけではないようだった。

蘭は基本的に他人に興味がない。しかしながら一度懐に入れた人間にはどこまでも甘く、そして過度ともいえる情を注ぐ。竜胆は懐に入った人間を蘭のお気に入りと認識していたが、どうやらいつの間にか名前もその中に入っていたらしい。そうでなければ、蘭がここまで激怒する理由はないからだ。

「場所も割れてる。そんで、首領から伝言。『好きに食え』」

その言葉に、それまで凍てついていた竜胆の心に急速に業火が灯る。

「――兄ちゃん」

それだというのに、竜胆の声に熱は灯らない。

「そいつら、どこにいる」

竜の逆鱗が震える。




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