黎明より遠いところ


世に言えない仕事をしていようが体を鍛えてようが、痛いものは痛いし精神的にクるものはクる。昔から腕っぷしに自信はあるが、それはあくまで喧嘩の話で、我慢だの気合だのでどうにもできないことはどうにもならない。

「兄ちゃん、俺フラれた」
「いや、ねぇだろ」

幹部だけが集った会議室に、もうやってられないと突っ伏した竜胆がこぼした言葉に、すかさず蘭がそう言い放った。

絵に書いたような凹んでいる人間の風体を示していたまま、変な体勢で重いため息をついたせいか胸まで痛くなってきた。その痛みが肺なのか、もっと臓腑の奥底から響くものなのか知らない振りをして、竜胆は再びため息をついた。

「恋煩いか〜?兄ちゃんが恋愛相談乗ってやるよ」

ニヤニヤと笑う蘭の声に竜胆の口が思わず歪んだ。完全に余計なことを言ったと今さら後悔した。
いくらメンタルが落ちているからといってこれはない。そもそも、自分と大して変わらない遍歴を持つ兄が何を指導できるというのだろうか。なんなら俺よりももっとエグい女の食い方をしているくせに。

蘭の言葉を肯定すればいいおもちゃにされることなど分かり切っている。しかし、それ以上に急下降していく気持ちを吐露する相手が欲しかった竜胆は、誘われるがままにそのまま言葉を零した。

「名前に謝られた」
「は?」
「もうすんな、って。無駄に買って無駄に捨てんなら買わないでくださいだと」
「バレバレかよ」

蘭がけたけたと「そう来たか〜」と言って笑った。眉間に皺が寄るのを隠さずに「兄貴、俺真剣なんだけど」と睨めば蘭は悪びれなく、しかし面白そうに笑いをかみ殺した。

名前の予想のとおり、竜胆が買った花は少しの時を経て咲く場所をゴミ箱へ変えていた。元より名前にしか興味のない竜胆が花束を毎日のように買ったところで、自宅には飾る花瓶すらない。それでも誰かに渡すのは癪だった。

そのせいであんなに名前を傷つけることになるなんて、竜胆は思いもよらなかった。氷のように透き通って何も映さない瞳に射抜かれてはじめて、竜胆は名前の最も忌避すべき傷に触れた挙句、最も唾棄にも等しい行いをしてしまったのだと、強く頭を殴られた気がした。
いつものやわらかな笑みではない、凍てついた冬の夜のような表情を見せた名前に、竜胆は何かを喪ってしまったことを確かに感じた。

遠ざかってしまった名前の表情ばかりが脳裏を掠める。あの日、とろりと目の奥を解かした名前の表情を、竜胆は未だに忘れられない。
腹の底からこみあがって来る、欲しいと思う情動は抑えなければならない。反射的にそう思ったが、結局は耐えきれずにこの有り様だった。

「あー……だっせぇ……」
「えー、マジで落ち込んでんの、竜胆〜。大丈夫だって、絶対。竜胆は蘭ちゃんの弟だろ〜?」

梵天の名前に釣られてくる女が纏う極彩色で世界が構成されていた竜胆にとって、名前への想いは新雪に足跡を残すような背徳のにおいを彷彿とさせた。禁忌的で、静謐で、穏やかな名前の世界には、きっと自分のような人間は似合わないとわかっているのに、それでも踏み入れたい欲が確かに存在していた。

そうして、気付けばその雪原に足を踏み入れていた。少しずつ増えていく足跡に名前の中での自分の存在を重ねて、一握りの楽しさすら感じていた。気付けば、渦巻く欲望を手近な女で発散させていた頃の、極採色に彩られていた竜胆の世界は一面の銀世界となっていた。

秋の移ろいも春の穏やかさもなく、音すらも奪っていく恐ろしさと触れれば融けてしまう儚さで、名前は竜胆の心を全て覆い尽くしていった。時に命を奪うような無慈悲と残酷さを孕んでもなおふわふわと舞う美しさは、手に入れてはいけない禁忌的な香りを漂わせていて、欲が煽られる。

雪原に佇みながら、しばらくすると雪に覆われて消えていく足跡を見ながら思う。きっと、名前は自分が手に入れるべきではない。借金を返済すれば、名前はきっと誰かと一緒に生きていくだろう。薬指に朧げな約束を纏って淡い色で縁取られた日向の道を行く。あの春の日差しのような瞳を誰かに向けて。

――いやだ。欲しい。どうしても、手に入れたい。

はちみつを煮詰めたような甘やかな瞳も。花びらのような軽やかな香りも。荒れた指先から伝わってくる低い熱も。全部絡め取って俺のものにしたい。喉を上下させてその無防備な肌に消えない印を残したいと思ったことは両手では足りなかった。

いつもそうだ。湧き上がって来る底なしの執着を抑えるので精いっぱいで、名前の前ではつい言葉が固くなる。名前に怖がられるのが嫌で自分の苗字すら明かしていないのを知った蘭に、ひとしきり笑われたことは今でも忘れない。

しかし、六本木界隈において灰谷の名前は想像以上の衝撃と恐怖を与える。僅かでもその片鱗を名前に見せるのが嫌で、竜胆は頑なに苗字を名乗らなかったし、名前に勘違いされていても特に訂正はしなかった。それがまさか回り回ってこんなことになるとは。

きちんと弁明をしなければ、と思ってもここ数日は立て続けにトラブルに見舞われてそれどころではなかった。時間が経てば悪いことにしかならないが、名前にする言い訳すら浮かんでこない。

正直に言うにしても、灰谷を名乗るのはできれば避けたい。ホストでないことを告げるべきだが、そうなるとあの花束の購入頻度は気が狂っているとしか思えない。引かれるのも避けたい。
かと言ってまた嘘をついてバレでもしたら関係修復は不可能だ。いっそ好きだと伝えるべきか。いや、ガキの恋愛じゃねえんだぞ。

分かりやすく詰んでいる。竜胆は過去の自分を呪い殺したい気分になった。蘭の言葉もまともに入って来やしないほどには。

「おい誰かあの辛気臭ェのどうにかしろ」
「うっせ三途バーカ死ねヤク決めてろ」
「死ぬほど機嫌ワリィな」

鶴蝶との話を切り上げたのか、三途が指さしながら蘭にそう言うのを竜胆はどうでもよさげに聞いていた。こんな女の機微とは無縁そうなヤク中に分かってたまるかよ。そう思いながらガリガリと頭を掻く。

名前のことを考えるだけで竜胆の肺には軽やかな甘い香りが漂ってくる。自己嫌悪でおかしくなりそうな今はその香りすら消してしまいたかった。ニコチンを入れたら多少マシにはなるだろう。

「灰谷さん!六本木の二か所で火事です!」

竜胆が煙草を取り出したタイミングで飛び込んできたのは蘭の部下だった。火事、という言葉に幹部の全員が反応する。
深い闇を多く抱える六本木で発生する火事は大体が宣戦布告と報復の意味を持つ。先ほどの会議でも上がった最近うるさい中国マフィアの仕業だろう。よかったな兄貴、これで仕掛ける口実が出来たよ。

燃えたひとつはボロアパートで、とつらつら零れる話を聞きながら、どうせやるならもういっそ全て吹き飛ばすくらい派手にやって欲しかった。
そうすればこの不揃いな気持ちも些かすっきりする気がした。その後はおそらく相手組織への報復に忙殺されることになるだろうが。

それはそれで、名前のことを考えなくなるからいいかもしれない。今は自分でもどうかしているくらいに名前のあの悲痛な声と小さな肩が、脳裏に浮かんでは消えている。末期だな、と思いながら箱から一本煙草を取りだす。

「あー?知るかよ、アパートなんざ唯の火事だろうが。お前らで処理――」
「そ、それが……もう一つは例の花屋で……!」
「は?」

蘭が気の抜けた言葉を返すと同時に、握っていた煙草がするりと手から離れていった。





スモークを付けた窓を閉めていても臭ってくる煙が、気持ちだけを追い立ててくる。例の花屋、と言われて思い浮かぶ場所はひとつしかなかった。それでもそんな訳がないと否定する自分がいる。車内には沈黙が流れていた。

現場に着くと多くの人でごった返していた。ぱちぱちと爆ぜる音が辺りを包みこんでいて、スマホを掲げてやばいと楽しそうに零す野次馬を殺してやりたくなった。予想よりも強い火の勢いに、傍に控えていた部下に声を掛ける。

「オイ、この店に二人いただろ。ソイツらどうした」
「店主は会合に出ていて無事でした。もう一人の従業員の行方は分かっていません。……ですが」

言い淀む部下に盛大に舌打ちを零す。ですが、の先がなんとなくわかったが、探せ、と言えば青い顔をしてどこかへ電話をかけ始めた。
そんなはずはない。名前は馬鹿じゃない。火事だと気付けばすぐに逃げられるはずだ。行方が分かっていないのは、きっと配達先で道草でも食っているか、会合に出てるジジイのところにいるからだ。そうに決まっている。そう思った矢先、鋭い声が飛んできた。

「竜坊!」
「ジジイ……!名前は!?なんで一緒じゃねえんだよ……!そう、だ、配達、配達行ってんだろ!?なあ!」
「……すまん」

今日の配達は終わっている。名前の携帯は繋がらない。

ジジイの掠れるような声が騒然とする現場の中でもはっきりと聞こえて、そのまま足から力が抜けそうになるのをなんとか抑える。ごう、と一層の勢いを増した炎の熱が頬を殴りつけてくるようだった。
危ないので離れてください、と消防隊員に押しやられて赤と黒に支配された店が遠くなる。

燃えている。花もあの丸椅子も、ショーケースも、全部。名前と過ごした場所が灰となって崩れて行く。喪失が乱気流のように入り乱れて、視界が奪われるのを感じた。まるでホワイトアウトだ。

頼む。

竜胆は今まで一度も祈ったことのない神に祈った。なにを祈っているのかも分からない。
それでも、何かに縋らなければ今すぐにでも火の海に飛び込んでしまいそうだった。その一歩を踏み出せなかったのは恐怖ではなく梵天の幹部である意味を、自分の価値を理解しているがゆえだった。

大将と慕っていた少年の遺志、マイキーへの忠誠、組織の幹部としての責任と矜持。それらががんじがらめになって、足をその場に縫い付ける。
チームを持たず六本木を手中にしていた頃とは違う。感情よりも理性が、呪いのように体を支配していた。そのとき。

「大変なことになっちゃいましたね、竜胆さん」
「――名前、ど」

ざわめきの中から、聞き慣れた声が聞こえた気がした。名前、どこに居たんだよ、心配させんなって。そう言おうとした。無事だったか、と軽く息を吐いて振り返る。

視線の先をいくら変えてもその姿がなくて、成り損ないの言葉が空気を震わせただけだった。

ごう、と炎の勢いが増す。どこかで悲鳴が上がった。
なあ、名前、早く出て来いよ。お前が無駄にしたくないっつった花、全部燃えてんだぞ。いやだろ、そう言ってただろ。なのに、なんで、どこにもいねえんだよ。


名前、俺、まだお前に何も言えてねえよ。


炎に揺らめく冬の隙間から、神の子の生誕を告げる福音が街中に響いていた。




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