断罪の曙をまっていた


まだ冬の初めだというのに、肌を刺すような凍てついた声色が口から零れていった。細胞の一つひとつまで冬を呼ぶような声を出せたことにも驚く。なにより、どうして自分がこんな冷たい声を出しているのか、名前にはわからなかった。

それは竜胆も同様で、いつもの物憂げに細められている目を大きく見開いて名前を見ていた。思っていなかったことを聞かれた竜胆は虚を突かれた表情を見せていたが、名前の問いの意図を理解した途端に顔色を変えた。

そんな竜胆の様子は名前の目には形になりそうな言葉を無理矢理、手探りでかき集めているようにも映った。名前の表情は動かないのに、竜胆の表情は目まぐるしく動く。いつもは名前がころころと表情を変えて、それを竜胆が眺めているが、今だけはその役割が逆転していた。

「あー、その、ちゃんと」
「竜胆さん、は、誰にも贈り物をしない、って、聞きました」

その一言で竜胆の表情が強張ったのを名前は見逃さなかった。はく、と薄い唇が動いて意味をなさない言葉が雪のように薄く降り積もる。

「は……、なんでそれ……」
「なのに、なんで、お花、毎日買っていくんですか……?誰にもあげないのに、あんな沢山の花、どうしてるんですか?」
「どうって、」

竜胆が言い淀む。それが名前にとっての答えだった。
じわりと端から色が腐り落ちていくように、名前の世界がブリキのくすんだ灰色に変わっていく。色が消えて、全部があの人形の住んでいた狭い部屋と同じ色を纏う。

花を購入したのは客である竜胆だ。竜胆が買った花を捨てようが、燃やそうが口出しできることではない。店と客の関係である以上、個人的な感情を持ち込んではならない。それは、社会に出た名前が初めに学んだことだった。

見覚えのある花束が路地裏に捨ててあろうが、青いゴミ回収車に拾われようが、買った後のことは客が決める。どれだけのやるせなさと罪悪感が込み上げて来ても心の内に留めて、昇華させなくてはならない。たとえ何度同じことをされても。それが仕事なのだから。名前はずっとそう言い聞かせてきた。

しかし、内心ではそんな態度を取る人に辟易としていた。
形あるものを大切に出来ない。たかが花、と見下す。そんな人間がうわべだけの美しさを求めて花を買いに来ることに、虫唾が走ってしょうがなかった。そういう人間が嫌いだった。同じように、路地裏に捨てられてしまえばいいとさえ名前は思っている。

知らないホストや金持ちが路地裏でどうなろうと知ったことではない。己は全てを救うヒーローではないし、聖母のような慈悲を持ち得ているわけでもない。酷い女だと思う。それでいいと、思っていた。

でも、竜胆がそんな人間と同じだとは思いたくなかったし、自分が酷くて醜い自分勝手な想いを持っている人間であると知られたくなかった。

これは自分のわがままだ。薄汚くて、どろどろしている救いがたい欲だ。竜胆がそういう潔白な人間であってほしいと勝手に期待して、勝手に裏切られたと思いあがっているどうしようもない人間。浅ましい。夢見がち。ないものねだり。自分を罵る言葉ばかりが泉のように湧き出てくる。

それでも、竜胆にだけはそう思われたくなかった。他の誰が離れて行ってもいい、けれど、竜胆だけは。

それが何を示すかわからないほど、名前は馬鹿ではない。呪いにも似た執着に気付くと同時に、どうしようもないほどの虚無に襲われた。そうして、夜の帳が落ちてくるように分かり切った現実が降り注ぐ。

竜胆には、竜胆の蝶がいる。
花のことなど何も知らないこの人が、毎日花をあげたくなるような蝶がいる。
羨ましかった。その視線を少しでもいいから向けて欲しかった。でも、花束を見る竜胆の目があまりにも美しく、優しくとろけるのだから、それが見れるだけで十分だと思っていた。
その花が役目を全うして、竜胆が喜んでくれるのなら、報われる。そう思っていた。思い込んでいた。

それが、誰の手にも渡らずに捨てられていると聞いて、名前の心は蹂躙された。がんじがらめ封をして仕舞いこんだ淡い想いをぐちゃぐちゃに踏みつけられる錯覚さえした。

小さい頃、毎日のように捨てられた花を見ていたときと同じ、自分のしていることが全て無駄なんだと突き付けられる感覚が心臓の奥から這い出てくる。無駄だった。自分がしていたことは何もかも。

ならば、もう。母に花を贈るのを諦めた時のように。
自ら手折って終わりにしよう。

「私が作った花、毎日ゴミ箱に行ってるんですか」
「ちが、」
「私のことは。嫌いでもいいです。でも、もう花を無駄にしないで、ください。お願いします」

顔を見れないまま、竜胆に向けて頭を下げる。竜胆が息をのむ音が、名前の耳に届く。
竜胆に見放されたくなかった。自分の顔を竜胆にも見られたくなかった。がらんどうのブリキの心臓になおも住まう、竜胆へのどうしようもない自尊心と恋に似せた虚栄心だけが、からからと軽い音を立てて転がる。

結局は自分もこの街の路地裏に捨てられるに相応しい人間なのだと、薄汚れたスニーカーのラバーを見てそう思った。





しばらく黙ってしまった後、それでもなお「また来る」と言った竜胆さんは三日が過ぎても来なかった。

当然だ。あんな急にキレられて、好き勝手言われて。私だったらもう会おうと思わない。来店できないという連絡も止まった。あのしっとりと夜を孕んだような声も、花に紛れてしまうほどに軽やかな竜胆さんらしい香水の香りも、もう随分と遠ざかってしまったようだ。

はあ、とため息ばかりが出てくるのを止める術はなかった。どうしてあんなことを、と後悔しても何かが進展するわけでもない。出来るならあの時に戻って自分を殴りたかった。沈黙が降りる中、離れて行った背中がずっと脳裏から離れない。

今まで離れていく背中なんて何度も見てきた。名残惜しくはあったけれど、仕方のないことだと割り切れば大丈夫だった。いつもみたいに、ネジを回さなければいい。母みたいにブリキであれば心臓は痛まない。そのはずだった。
でも勝手にねじは巻かれている。心臓は痛むし、胃の奥から込み上げてくる焦燥と後悔はいつまでも纏わりついて離れない。今、こうしている間も。

手を伸ばすことを諦めてしまえば必要以上に傷つくことはない。それはとうに知っている。なのにどうしてか、竜胆にだけはうまくいかない。
気づかぬうちに咲いていた執着にも似た感情のせいだ。その想いごと手折ると決めたはずなのに、未だ心にその想いは咲いている。花屋だから花の咲かせ方は知っている。けれど、感情の枯らせ方は知らなかった。

「名前、会合に行ってくるから開店までは頼んだぞ」
「はい……」
「なんだ、竜坊とまだ喧嘩してんのか」

呆れたように店長が私を見ながらそう言った。ここ数日の私の落ち込みようを見ていた店長はいい加減にしろ、とぴしゃんと私を叱った。
噂が回るのが早いこの街では私の身に起こったことはいつの間にか知られていて、それはもちろん店長も例外じゃなかった。最初は何も言わなかった店長だったけど、あまりに仕事に集中できていないのが見て取れたせいかお説教にいたったらしい。本当にダメダメだ私、こんな迷惑ばっかかけて。

「すいません。でも、……喧嘩じゃないです、その、私が勝手に……」
「マァ言わねえ竜胆も悪いが……特にお前は思い込み激しい上に諦め癖があるからな」
「お、思い込み……諦め癖……」
「気づいてねえのか。おまえさんはどうにもすぐに諦めるきらいがあるだろう」

そう指摘されて思わず詰まる。すぐに諦めると言われたものの思い当たることは特にない。ただ、小さい頃から親共々借金に追われていたから、何かを持つことも欲しがることも特になかっただけで。
欲しいと望んでも手に入れられないなら、望むだけ無駄だ。与えられないのなら、欲しがっても無駄だ。ずっとそう思って来た。

だから、離れていく友達に縋ってはいけないのだと思っていた。寂しいことも悲しいことも、自分以上に不幸な人がいると思わなければ整理がつかなかった。そうして、全部捨てて、それで。ふ、と頭の奥に言葉が浮かび上がってきた。

『名前こそ、俺のこと勝手に捨てようとすんな』

捨てる。そんな、捨ててなんか。
ああ、そうか。私、今まで捨てて来たと思って来たものって。
全部私が、本当は欲しかったのに、無理矢理諦めてきたものだったんだ。

「やりたいこと我慢すんのも美徳だが、それだけじゃ欲しいモンは掴めねえよ。お前の好きなように言えばいいだろ」
「で、でも、そんなこと」
「やりたいことをやりたいっつってなにか問題あんのか?」

今度こそ何も言えなくなってしまった私に店長は豪快に笑って、「おっと、もう始まっちまう」と言い残して店を出ていった。
これから年末に向けた商工会の会合があるらしく数時間は留守にすると言っていたので、開店してもしばらくは帰って来ないだろうことは容易く想像できた。ばさ、とコートを翻して裏口から出て行った店長と入れ替わりに入ってきた冬の空気がふわりと項を撫でていく。ひやり、と心臓にも風が吹いた気がした。

「したい、こと……」

店長の言葉を噛みしめるように呟く。だれも拾わない言葉は雪が溶けるように消えて行った。
私がしたいことはなんだろうか。私は、竜胆さんともう会いたくないんだろうか。今までみたいに割り切って、次の日からまた借金を返したいんだろうか。違う、たぶん、どれも違う。

謝りたい。竜胆さんに、勝手に醜い嫉妬をぶつけてごめんなさいって謝りたい。このまま、今までのこと全部がなかったみたいに竜胆さんと会えなくなるのは嫌だった。竜胆さんが花を捨てていたとしても、想い人がいたとしてもいい。

どんな形でもいい。今はただ、竜胆さんに会いたかった。

会いたい。会わないと。ぐ、と手を握り込む。あの日、包み込まれた指先に熱が灯ったようだった。
決めた。竜胆さんに会いに行く。待ってるだけじゃ、今までと変わらない。竜胆さんがもう会いたくないって言ったら、それまでだけど。でも、また来るって言っていたから会ってはくれるだろう。なら、今度は私から会いに行かないと。

でもどうしたら会えるだろう。私は竜胆さんの連絡先も勤務先も知らない。ああでも、竜胆さんほどの綺麗な人だったら同じホストだったら知ってるかもしれない。……一日だけ、どこかのホストクラブに行って聞き込みでもしたら、働いている先くらいは教えて貰えるのかな。そうしたら、私は竜胆さんに会えるだろうか。

そう思った瞬間、背後で裏口の扉が開いた気配がした。店長ってば、ついさっき出て行ったと思ったのにもう戻って来たのか。また他のお店の方から早く来いと鬼電されると分かっているのにどうして毎回遅刻するんだろう、と思わず呆れる。客以外には時間にルーズな店長を残念に思いながら振り返る。お前のとこの店長しっかりさせろ、と小言を言われるのは私だ。それは困る。

「店長、忘れ物ですか?もう会合始まっ」


だれ


その瞬間、急に上から何かが落ちてきたような衝撃が走った。何も分からないまま足から力が抜けて転ぶ。痛いよりも、頭が熱くてどうにかなりそうだった。

なに、いまの、痛い、熱い。

なんで、だれ、なんで、あつい、


だめ、くらくな、る、もう、みえな、



わたし、まだ、りんどうさんに、なにも、





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