色褪せていく暁のせいよ


季節が夏の終わりから冬へと移り変わり、名前が六本木で働き始めて半年が経っていた。

客の話では昨日、とうとう木枯らし一号が吹いたという。道理で寒かったわけだ、と名前はマフラーに首をすっぽりと埋めながら店への道を急いだ。
ハロウィンの終わった街には早速赤と緑のクリスマスカラーが溢れ、街中の音楽もこの時期にしか流れない曲へと衣を変えた。

師走に相応しく名前の働く花屋も多忙を極めていた。クラブや飲食店はクリスマスイベントや年末年始に向けた準備を始めることもあって、注文が殺到している。
去年は一人で切り盛りしていた店に従業員が増えたこともあって注文は単純に倍増していたし、名前の技量を見込んで指名してくれる客も多くはないがいた。その期待に応えるためにどんな花を贈ろうか、と悩む名前は店に着くと店長への挨拶もそこそこに仕事着に身を包んで、冷たい水に手を浸した。

運送会社から届いた荷物を片していると店の電話が鳴り響いた。注文かドライバーの配達漏れだろうか、と電話に出れば受話器の奥から聞き慣れた声がして、名前の心は少しばかり弾んだ。

『名前か?』
「竜胆さん!こんにちは、急ぎの注文ですか?」

あの夜から三ヶ月が経っても変わらず竜胆は想い人へ花を贈り続けている。竜胆にとっても、名前にとっても花束を作ることはもはや日課となった。そのせいか、名前と竜胆の間では行けないときにだけ連絡するという新しい決まりが自然と出来上がっていた。

『や、悪ぃ、今日はそっち行けそうにねえ』
「わかりました。わざわざありがとうございます。予定変わったら連絡くださいね、すぐに対応します」
『サンキュ。あー、名前』
「なんですか、竜胆さん?」
『や、なんでもね。頑張れよ』
「ふふ、はい、竜胆さんもお仕事頑張ってください」

ぷち、と切れた音声に少しの寂しさを感じながら名前は受話器を置く。竜胆の後ろからは蘭の声も聞こえて来た。早く、と急かす蘭と応じる竜胆の姿が目に浮かんで、名前はひっそりと笑みを零した。
自分のやわらかいところを見せた名前と竜胆の距離は少しだけ縮んだ。客と店員という一線を越えることはなかったが、それまでの関係とは異なる、明らかに気安いものへと変わっていた。

たまたま来店の重なった蘭がその様子をにやにやと半笑いを浮かべながら指摘をしてきたので、名前はそれが自惚れではないことに少しだけ嬉しくなったりもした。竜胆のばつの悪そうな顔がなによりもその証拠であったが、名前は心の内にそれを留めておいた。指摘すると竜胆が拗ねるからである。

笑った顔。少しだけ怒った顔。拗ねた顔。寝不足。不機嫌。上機嫌。
竜胆は咲き乱れる花の如く、様々な表情を見せるようになった。蘭と比べて大きく表情が変わらない、繊細な竜胆の感情を見分けることができるようになった。

名前も竜胆に対して定員と客の一線を越えないものの、それなりに感情をぶつけることが出来るようになっていた。上手くいってんじゃん、と蘭がにやけるのはそういう理由であることを二人は知る由もないが。

竜胆は相変わらず花を買っている。送り先である竜胆の蝶のことを、名前は一切知らない。竜胆の想い人のことを思うと竜胆と仲良くなっていくことに、少しだけ名前の心に罪悪感が宿ったがそれ以上に居心地のいい今の関係を手放せずにいる。
職場と家を往復し、借金を返すだけだった名前の生活には、確かに新しい色が添えられていた。





厚手の一目で高いとわかるファー付きのコートに身を包んだ女が店を訪れたのは、竜胆との電話を切ってからしばらくのことだった。

いらっしゃいませ、と作業場から出て声を掛けると形のいい、綺麗に揃えられた眉が不機嫌そうに顰められた。待たせてしまったんだろうか、と思ったものの自動ドアの開閉音に気付いてからそう時間が経っているわけでもない。名前は元からそういう人なのだと察してあまり声を掛けずそっとしておくことにした。

店長は買い付けに市場に行っているので店には名前しかいない。注文が入った場合はこちらを優先しようかな、と思っていると高いヒールを打ち鳴らして女が目前に迫った。あまりの近さと勢いにたじろぐ名前などお構いなしに女が口を開く。

「この店で働いてる女って、アンタ?」
「は、はい。そうですが、」
「アンタ、竜胆さんのなんなワケ?」

咄嗟になんて返していいか分からず、答えに詰まった。竜胆、と言われて名前はなんとなく事情を察した。きっとホストである竜胆の客だ。滲み出る怒気が名前をさらに焦らせた。

あまりの怒気に客ではなく、例の竜胆の想い人なのかもしれないとまで思えてきた。どちらにせよ、名前が心のどこかで恐れていたことが現実になってしまった、と内心で焦った。
竜胆とはただの定員と客の関係で、想像するようなことは何一つない、竜胆は誰かに贈る花を買っていただけだと名前が弁明をしていた、その最中。

「アンタ、竜胆さんの何なの」

同じ質問をされただけだというのに、
すとん、と何かが落ちるように女から表情が削ぎ落された。急に能面のように一切の表情を浮かべなくなった女を見て、名前の心臓が早鐘のように鳴り響く。真っ赤に艶めいた唇から出て来た言葉は温度を一切持っていなかった。渇き切った音に自分でも思わず体が固まるのが分かる。

「っ、ええと……えっと、常連の、」

お客様です、と続く言葉は強制的に切られた。パン、と肌と肌のぶつかる音と遅れてやってくる熱とひりついた痛みが頬に走って、叩かれたのだと気付いた。

何をするんですか、と文句を言おうにも喉からは何も出てこない。おそるおそる視線を戻した先の女の目には、苛烈なまでの憎悪にも似た感情が炎のように燃え盛っていたからだ。
狂気じみた視線に晒されて背中に寒いものが走る。これまでの人生の中で感じたこのない、言い知れない恐怖が名前を包み込んでいた。

「バカにしてんの!?嘘ばっかいいやがって……!竜胆さんが誰かに花を贈ってるなんて聞いたことない!」
「そ、うは言われましても……」
「誰に聞いても同じ答えが返って来るわよ!竜胆さんが何かをくれることなんてない。みんな知ってる!」

その言葉に腹の底に何かが淀んで溜まっていく気がした。そんなはずはない。誰かに贈っているはずだ。そうでなければ、竜胆は何のためにあの頻度で花を買っていくのだ。

とてもではないが自分のために買う頻度ではない。花だってその日のうちに枯れてしまうほど寿命が早いわけではない。ひと昔ならいざ知らず、今は花が長持ちするような薬品だって開発されている。それも欠かさず渡している。
誰かにあげていないというなら、一体あの花は、どこへ。

言い知れない不安に震える体をなんとか押さえつけてそんなはずはない、と湧き上がる自分の想像を否定する。竜胆が、そんなことをするはずがない。でももし万が一、誰にも贈っていないという、この人の言葉が本当なら。
花が向かう先はおそらく一つだ。脳裏に茎の長さがばらばらの、不揃いな花束が思い浮かぶ。違う、そんなはずは。あの竜胆が、そんなことをするはずがない。

「で、でも……竜胆さんは、確かに花を購入されて、誰かへの……」
「たかが花屋のアンタが、竜胆さんの何を知ってるのよ!竜胆さんは、そういう人なの。誰かに施しを与えることはないの。誰かに、なにかを与えてくれることなんてないの!」

女の言葉が、名前の心の一番やわらかいところに突き刺さった。たかが、花屋が何を知っている。その言葉は名前の心臓を抉るようだった。
名前が知っているのは竜胆のほんの一部だ。作業場の丸椅子に座って世間話をする姿、数回だけ食事を共にしたときに見せた気安い姿。名前が知っている竜胆はそれだけだ。指折り数えてもそれ以外の竜胆を探すことはできない。

とてもではないが、同じ世界にいるであろう目の前の女よりも、竜胆のことを理解しているとはとても言えなかった。そうでなければ、竜胆が誰かに何かを贈ることがないことを、知っていたはずだ。

「竜胆さんはそういう人なの!それなのに、なんであんたは!あんたなんかより、私の方が絶対にあの人のこと分かってるのに!!」

そう言って女がもう一度手を振り上げた瞬間、店の扉を潜った黒い服の男が慌ててその腕を掴んだ。離しなさいよ、と喚く女を無理矢理引いていく。何事か、と目を白黒させているうちに交代するように見慣れた姿が顔を覗かせた。

「おー、名前。……派手にやられたなぁ。大丈夫か〜?蘭ちゃんが来てやったからもう安心しろ?」
「あ、蘭さん……ありがとう、ございます。へいきです」

熱を持った頬に自分で手を当てた名前は、いつもと変わらない調子で声を掛けて来た蘭になんでもないように努めた。痴情のもつれ染みた騒ぎの中心にいることがなんだか恥ずかしく感じて、名前はまともに蘭の顔を見ることができないでいた。それも分かっているのか、蘭は特に何も言わない。名前はその気遣いを有難く感じた。

「ン、ならよかった。じゃああいつは俺が貰ってくな〜。名前も一発やり返すか?」
「あ、いや……大丈夫です」
「そ?ちゃんと冷やしとけよ〜」

そう言って蘭はひらひらと手を振って出て行った。あまりの早さに呆然とする名前が、誰もいない花屋に残された。何一つ残っていない痕跡に夢だったのではないか、と思うもひりつく頬が確かな事実だと囁いてくる。
去り際、蘭に物騒な言葉を残された気がするが、名前の心を占めているのは、女の言葉と心臓の裏側をひと撫でされたような焦燥感だけだった。

誰にも渡していない。だったら、あの花は、竜胆さんは一体何のために。

自分の予想が間違いであってくれと、名前は願うしかなかった。あんなに楽しみだった竜胆と会うことが恐ろしく感じられて、名前はその場に立ち尽くすことしかできなかった。





数日後、いつもと変わらない様子で竜胆は店にやってきた。店に押しかけた女がその後どうなったか、名前が仔細を蘭から聞くことはなかった。しかし、竜胆の何か言いたげな様子を見るに、蘭から情報は共有されているだろうと名前は予想した。

「あー、名前。その、今日も見繕ってくんねえ?」
「はい、大丈夫ですよ」
「……名前、なんか機嫌、」
「大丈夫です、ちょっと、あまり調子が良くなくて。すぐ作りますね」

竜胆との会話を早々に切り上げた名前は、注文通り花束を作るためにケース内へ逃げるように視線を向けた。
いつも考えずとも動く手は今日はまったく動かず、しばらく考えてようやく数本の薔薇を取り出す。丸椅子に腰かけた竜胆は居心地悪そうに煙草に手を伸ばしていたが、その煙草に火はついていない。作業場に沈黙が落ちる。

何も言わない自分を心配そうに見上げてくる竜胆の気配を、名前はうっすらと感じ取っていた。一方で名前は頑なに竜胆の視線から逃げ続けていた。今、竜胆から何かを言われれば、名前は自分の感情をコントロールできなくなる自信があった。だから竜胆との言葉を最小限に留めて、視線から逃げた。
しかし、そんな名前の緩やかな逃亡を、竜胆が許すはずもなかった。

「……なあ、こっち見てくんねえの、なんでだよ」

はさみを握っていた名前の手の上に、竜胆が手が重なった。水仕事で冷えた指先に触れる熱に、竜胆のその言葉に。息をのむよりも早く、表面張力で堪えられていた名前の感情が決壊した。

「名前、体調、大丈夫かよ、この間の――」
「竜胆さん、私が作った花、どうしてるんですか」

シャキン、と鋏で落とされたのは花でないことは確かであった。




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