払暁のすきまを縫いとめて


記憶の中の母はいつだって擦り切れていた。

窓の外を見ながら煙草をふかして、流れる雲を飽きもせず見ているのが、家にいる母の姿だった。
母は借金を返すために昼夜関係なくどこかに働きに出ていたから、私の知る母はいつだってその姿だった。そんな母を、本当は何かの抜け殻ではないかと思ったけれど、肺から吐き出される煙と時折呼吸に合わせて赤く光る煙草の火が母が生きていることを教えてくれた。

いくら呼び掛けても母は私の呼びかけには反応しなかった。まるでねじを巻き損ねてしまった、ゼンマイ仕掛けのブリキの人形のようだった。
ある日、私の母は病気を患っているかもしれないと心配する学校の先生達の立ち話を聞いた。そうか、母は病気なのだ。そう思った。

そんな母に少しでも元気になってほしくて花束をあげた。道端に生えていた、どこにでもある花だ。
きっかけは学校の授業で読んだ、魔法使いが美しい花で不治の病にかかった少年を治し、みんなで幸せに暮らして終わる物語だった。

ハッピーエンドを求めていたわけじゃない。でも、そんなことをやりたくなるほどの無力感と抜け出せない閉塞感に陥っていた。
茎の長さもバラバラ。花びらも足りない。それでも一生懸命集めた、人生ではじめての花束だった。それまで動かなかった母が視線を下げて花を見たのを目の当たりにして、私の心は震えた。

ありがとう、嬉しい、大事にするね、――さん。
母が口にしたのは父の名だった。それでも、母から貰える言葉が嬉しくて毎日花を摘んでは渡した。使い回しでもいい。ちぐはぐだっていい。私が母から貰える唯一のものはそれしかなかったからだ。
今思えば形だけの感謝だったのかもしれない。その花は翌日にはゴミ箱に捨てられていたから。

最初は悲しかった。けれど、いらないのだと思って花束を渡すのをやめると母はまたブリキの人形に戻った。とうの昔に居なくなった父の幻影の中に生きている、歪で、愚かで、可哀想な人形だった。そんな母が見たくなくて、花束を渡し続けた。花束は変わらずゴミ箱に捨てられていた。

多くは持てない生活だったから、欲しいものもやりたいことも全部我慢ばかりだった。友達もいないから誕生日プレゼントをもらったこともなかった。それなのに、貰ったものすら大切にできない母が嫌いで、憎くて、疎ましくて、それでも愛しかった。家族だから、母だから。
私には、この人しかいなかったから。





母が本当の病に侵されていると知らされたのは、母の借金が返済を目前に控えたある日のことだった。
職場で倒れて検査した結果、重度の病気が見つかった。適切な治療を受けなければ確実に死が訪れる。それが分かっていても私たちにはどうすることもできなかった。お金がなかったからだ。

手術を受けても、延命治療をしてもしょうがない。そう言った母は入院することを拒んだ。だけど自宅での療養はそんな楽なものではない。介護も私ひとりでは出来なかったし、様々な申請や手続きを中学生になったばかりの子供がどうこうできるわけがなかった。
結局、私は母の名前を使って金を借りて母を入院させた。だけど、たぶんその判断は遅すぎた。

「名前、あんたは真っ直ぐ、強く生きなさい。人は一人よ、ずっと誰かが助けてくれるわけじゃない。他人に自分を委ねては駄目。心を貧しくしてはだめ。目先のことに囚われてはだめ」

初めて名前を呼ばれた。死を目前にしてやせ衰えた母は、ようやくブリキのおもちゃではなくなった。滑らかに動き出した母を見て漠然とした恐怖と孤独を覚えた。もうねじを巻く必要はなくなったのだ。命が、終わるから。

あれほどまで嫌い、疎んでいた母が居なくなるという事実にただ寂しさが浮かんだ。お伽噺じゃない現実が薄ら笑っているような錯覚すらした。濃厚な死の匂いが、カーテンで閉め切られた病室に漂っていた。

「好きなものがあるなら、それに見合えるよう恥ずかしくない生き方をしなさい。自分が好きなものからも目を逸らす人間にならないように、強く」

最期に自分の人生を悔やんだのか。母はずっとそう言ってきた。これが最期の会話になる。そんな気がした。

「うん……あのね、お母さん。私、花が好きだよ。昔、お母さんが喜んでくれたから」
「そう、なら花みたいに、強く、どこでも綺麗に咲いてね」

母が花を貰っていたことを覚えていたかはわからない。でも、確かに母は私に言葉を、想いを遺していった。

母は多額の医療費が掛かったこと、上手に愛せなかったことを詫びて、そしてそのまま眠るように息を引き取った。男に騙され、望まない子供を孕み、それでもなお不器用に子供を愛した人の、穏やかな最期だった。
学校の授業を思い出した。いつだったか、不治の病の少年のもとに現れた魔法使いの幸せな話。母は不治の病ではなかった。でも魔法使いは来なかった。だから、そうはならなかった。

お金があれば治る病気だった。手術を受けるお金があれば、母の病気は治った。でも、お金がなかったから、母は返らぬひととなった。お金さえあれば。保険に入っていれば。父に借金を背負わされなければ。私を、産まなければ。きっと母はもっと、長く生きられた。
いくら泣いても、母はいつまでも帰って来なかった。





「母が死んで、しばらくは廃人みたいな生活して、気付けば施設に入れられてました。あんまり覚えてないんですけど、たぶん家賃も滞納してたんでしょうね」

子供が一人で生きていけるほど甘い世界でもない。私は施設に入った。そして、自分で蒔いた種はいまや毒の花となって私の生活を追い詰めている。

「十八で施設を出て、それからは借金返済のために働いてましたけど、全然返せなくて……期限過ぎそうな気がしたので、こっちに。普通の花屋よりも待遇いいですし」

親戚も頼れない、社会的にも立場のない子供であった私にまともにお金を貸してくれるところなどなく、行きついた先は怪しげな闇金だった。
借りた金額はあっという間に膨れ上がって私の手を離れ、私の生活と人生を苦しめていた。それでも後悔はしていない。自分で選んで、母のために使ったお金だ。だから、きちんと返したい。強く生きる。どんな環境でも咲け。母との約束は私に残された唯一だ。破るわけにはいかなかった。

「竜胆さんの気持ちは嬉しいんです。でも、私がした借金なので私が稼いだお金で返したいんです。母との約束なので。ごめんなさい」

心までは貧しくなりたくなかった。自分が苦労せず貰ったお金で母の借金を返せばなんだか母を裏切るような気がして、未だに竜胆さんから貰ったお金はお店の金庫の中だ。
私がちゃんと借金を返したあとに、あのお金はどうするか決めようと思っていた。竜胆さんに返してもいい。竜胆さんは受け取ってくれるかわからないけど。竜胆さんがいらないというなら巡り巡って、誰かを助けるようなお金にしてもいい。

どんなに困っても、竜胆さんと母に顔向けができないような使い方はしたくなかった。

朝の光が青白く街を照らしていた。タワーマンションの硝子にも錆びた階段の手摺にも平等に光が注がれていく。話が長くなるなら、と竜胆さんが買ってくれた自販機の缶コーヒーはすっかり温くなっているのに、最後の一口はいつまでも遠い。

そういう訳で竜胆さんからのチップは今のところまだ使う資格がないと思ってます。そう苦笑すれば、竜胆さんは呆れたように「難儀な性格してんなァ」と呟いた。私もそう思います。

「言いたくねえならいいけど、どんくらいあんの、借金」
「二百万、ですかね。利子がなければ、ですけど」
「……………………そうか」

渋い顔をした竜胆さんが絞り出すような声と共に頷いた。借金額はなかなかに膨れ上がっていた。金額が大きすぎて引かれてないといいな、と思う。まあ、引かれてもしょうがないんだけど。誰も借金持ちの女と仲良くしたいと思わないだろうし。そう思って同じ階段に座る竜胆さんを盗み見る。

どんなに仲良くなっても、この話を聞いた人たちは皆離れて行った。だから私には友達も大切な人もいない。もちろんそうならないようにはするけど迷惑を掛ける可能性がある以上、離れていく友達を止める資格なんてない。
竜胆さんは、賢いひとだから。きっと最良の選択ができる。もう何も知らない子供じゃない。言わなくったって適切な距離は置ける。

名残惜しいだとか裏切られただとか、そういう感情を持てば辛いのは自分だ。いつもみたいに、母みたいに、ブリキの心臓にねじを巻かなければ、大丈夫。そうすれば、なにも感じなくて済む。
今までそうやって来た。だから、今回もそうすればいいだけだ。震えそうな声をなんとか押しとどめて、下がりそうになる眉と口元を無理矢理引き上げる。いつも通りの表情だ、だいじょうぶ。

「迷惑かけちゃうとあれですし。だから、竜胆さんも離れるなら今で――」
「たかが借金で離れるわけねぇだろ。名前こそ、俺のこと勝手に捨てようとすんな」

見透かされた。どきり、と心臓が唸るのを感じながらも、じっと私を見てくる竜胆さんの目から視線が逸らせなかった。

「ちゃんと約束守って、頑張ってんだな、名前」

そう言って竜胆さんは私の手を取って指先をそっと撫でて、包むように指を絡めた。
水で荒れた手だ。仕事をすればするほど荒れる手は乾燥の季節を迎える前からぼろぼろで、たまにお店にくる自分と同じ年代の女の人よりも余程みすぼらしい。それでも、竜胆さんの高い体温に包まれるような感覚に、どうしてか何もかも赦された気がした。

この街には訳アリの人が多くて、施設出の借金持ちなんかよりもっとしんどい思いをしている人なんてごまんといる。下を見ればもっと不幸な人だっている。自分はまだマシだ。好きな花に触って遠い道だけど借金を返している。だから、甘えちゃだめだ。自惚れちゃだめだ。これは普通。もっと頑張らなくちゃいけない。そう思っていた。

でも、竜胆さんの言葉と固くて大きな手から伝わって来る熱が、じんわりと体の奥まで沁みて絡み合った糸をほぐしていく。どんなときでも緩まなかった緊張の糸が、ふつりと緩んだ。自分が酷い顔をしてるのが分かって、竜胆さんの手を大事に抱えたまま膝に顔を埋める。子供みたいな仕草に自分で呆れながらもどうすることもできなかった。

「風俗も、考えましたよ」
「似合わねえなぁ」
「はい、お母さん、悲しむかなって。約束、破っちゃうんで」
「いいよ。名前は、それでいい」

その言葉と共に、ぽん、と頭に上に熱が乗る。見なくてもわかる。今私が抱え込んでいるものと同じものだ。やわらかく、溶けていくような熱が頭から全身に広がっていくような気さえした。カチリ、とゼンマイが巻かれる。音を立て始めた心臓が止まる気配はなかった。顔を押し付けた膝頭が熱い。濡れていく感覚が広がる。情けなかったけれど、それでも止めようとは思わなかった。

「いい、ですか、こんな、私で」
「じゃねえと俺が困る」
「はは、そうですかね……そうだったらいいな」

すん、とすすった鼻でたぶん私の感情は筒抜けだろう。それでも竜胆さんはその手を振りほどこうとしなかった。
生活は楽じゃない。借金もある。未来は見えない。
でも手に届く範囲に、大切なものがひとつだけ増えるのを私は確かに感じた。




「じゃあまた、店でな」
「はい、竜胆さんもお気を付けて。また、後で」

またね、と拙い約束を交わしたあと朝を迎えた街に消えて行く竜胆さんの背中に、こっそりと手を振ってから部屋に入った。薄暗い部屋は昨日となにひとつ変わっていないのに、すこしだけ明るく見えた気がした。

化粧もなにもかもそのままに布団に倒れ込む。今はただ、この幸福を噛みしめたかった。ぬるま湯に浸かっているかのような心地よさに全身が包まれていた。それなのに指先と頭が熱い。そこからぽかぽかと熱が広がっていくような気がして、気付けば思考が少しずつ途切れていく。

今日はいいことばかりだったなあ。あとでまた、竜胆さんに会えるの、嬉しいな。ああ、でもそういえば。崩れていく思考の中に、ぷかりと疑問が浮かび上がった。

俺が困る、ってどういう意味なんですか、竜胆さん。

答えが出ないまま、眠りの縁から手が離れるように私の意識は深いところへ落ちて行った。




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