ポップコーンも弾ける月夜


「美味しかったです〜!」

お店を出て開口一番、思ったよりも興奮した声が出た。もう本命がどうとか、竜胆さんの想い人がどうとかそんな遠慮は吹き飛んだ。人は美味しいご飯の前にはあまりにも無力。ごめんね、本命さん。でも振り向かないあなたが悪いんです。

ひとしきり料理に舌鼓を打って満足したし、さあ帰るかとお財布を取り出したのに私のお財布から英世は一人も欠けることなく収まっている。いつのまにか全部、竜胆さんが払ってくれたらしく立ち上がればあとは店を出るだけだった。流石に、と竜胆さんの腕を掴んで思わず止める。

「いや、竜胆さん、流石に……!」
「俺の顔潰すのかよ」
「そういうわけでは……!」
「ならいーじゃん」

よくない……!ちっともよくないです……!流石に全額出して貰うなんて申し訳なさすぎる。私は貢がれるキャバ嬢でもないただの花屋の店員です!それでも食い下がる私のしつこさに呆れたのか、竜胆さんはじゃあ、と私の目を見てにやりと笑った。

「今度、俺のワガママ聞けよ?そしたらそれ貰ってやる」
「う。分かりました」
「ちなみにおいくらですか……とは言っても手持ちはあまりないですけど……」
「三千円」
「絶対嘘ですよね!?」

絶対にこれは万超えます。桁が違います。居酒屋チェーンの飲み放題じゃないんだから……!そう言ってコンビニのATMに駆け込もうとする私を、今度は竜胆さんが押しとどめた。離してください、と力んでも竜胆さんは全然びくともしない。
ぐぬぬ、と歯ぎしりせんばかりの私を見て竜胆さんは呆れたようにため息をついて、そしてふ、と力を抜いた。

それまで力を掛けていた先が無くなってバランスが崩れる。やばい、転ぶ、と思うと同時に何かにぶつかった。途端、ふわりと全身がやわらかな匂いに包まれた。
星のさやけさと月の光をたっぷりと含んだような、煙草の匂いまじりの、あまい香り。

この、におい、竜胆さんの。

恐る恐る顔を上げれば蘭さんと同じ花札みたいな刺青と、私にはない喉のふくらみが無防備に私の前に晒されていた。男性には不釣り合いなほどの、白い肌に思わず息をのんだ。それと同時に体を包み込む熱に心臓の形をなぞられた気がした。

抱きとめられている。竜胆さんに。
その状況に気づいて離れようとしたけれど、竜胆さんの拘束は解けない。あまりの近さと熱と酔いそうなほどの匂いに、私の体が強張ったのを感じたのだろうか。ふわ、と竜胆さんの髪が頬を撫ぜた。耳元に、触れない熱が確かに存在していた。

「名前さ、……俺の言うこと、信じらんねえの」

夜に帳を降ろすような、ひそやかな声が鼓膜を溶かした。

暗闇を彷徨うにように視線を上にずらせば竜胆さんの顔が視界いっぱいに広がった。そして、思わず言葉を失った。その顔があまりにも可愛いかったからである。

少しだけむす、とした拗ねた言い方と眉間に寄った皺に、心臓がぎゅんと痛いほど音を立てた。こ、こんな大人が子供みたいな顔して拗ねるなんて、ず、ずるすぎない!?喉元に刺青を入れてるちょっとワルな大人のくせに!

やっぱりホストは人心掌握というか、自分の顔の良さを分かっているんだな、と思った。いかにもな殺し文句だったからまだ気づくことが出来たけど、これがもっと他の言葉だったらわからない。恐るべし、ホストの底力。

「い、え」

ばくばくと鳴る心臓の音を落ち着けるのに必死だった私は熱に浮かされたように、その言葉を口にして三千円を支払うことになった。絶対足んないから今度高いお菓子でも用意しておかなくちゃ。

それでも、初めて竜胆さんに自分の意志を突き通せたので少しだけ満足だ。お財布には痛手だけど、それ以上に価値のある時間と料理と幸福感が足取りを軽くしていた。
ひと悶着あったものの、人生初のいわゆるコース料理の料理の数々はどれもこれも言葉にできないほど美味しかった。竜胆さんともお店じゃできない話をたくさんしたし。といっても竜胆さんはほとんど私の話に耳を傾けるばかりだったけど。

「本当に美味しかったです!幸せってああいうことなんですね〜」
「……安すぎんだろ、」
「えへへ、ほんと、もう大満足です!あんな、美味しいご飯この世にあるんですね!お肉とか、なんか溶けてすぐ無くなっちゃいましたよ!?」

竜胆さんは私の大したことない、代わり映えしない日常を飽きることなく聞いてくれた。なんて優しい人なんだろうか。こういうとこがホストに向いてるんだろうな、女の子はお喋りが好きだから。
今だったら竜胆さんの想い人に、竜胆さんのいいところ猛アピールできるのに。この街での恋はきっと、普通の恋よりも何倍も難しいんだろう。

腹ごなしも兼ねて竜胆さんと歩いていると見知った大通りに着いた。思ったよりも家が近いことに驚いてそのままのテンションで別れを告げたにも関わらず、竜胆さんは帰る素振りを見せなかった。

「名前さぁ、いつも歩いて帰ってンの?」
「そうですよ?え、あの、竜胆さん……?」
「一人で帰らすわけねぇだろ、行くぞ」
「い、いやいや!駄目ですって!竜胆さんは、早くタクシーでも迎えでも呼んで帰ってください……!私全然、平気ですから!」
「早く帰って寝てーンだけど、俺」

じゃあ帰ったらいいじゃん、とは口が裂けても言えない。向こうは親切心かもしれないが、私はちょっと、その、自分の家を見られたくない。元より人に見られるとか招くとか、そういうのを完全に排除した格安の賃貸物件なのだ。寝るためだけの部屋と言っても過言じゃない。他の人なら露知らず、竜胆さんとなると話は全く別だ。

「い、いやですねえ、飲みすぎちゃったんですか、竜胆さん……。私タクシー呼んで――」
「名前、俺のワガママ付き合ってくんねえの」
「わ、わがままと、申しますと……」
「メシ代払わせて送りもしねえとか、俺、女に世話になる腑抜けって言われたくねえんだけど」

完全敗北だった。それを言われてはどうにもならない。この街ではそういうプライドは値段が付けられないのである。
もしかしてさっき引いたのはこの要求を通すためなんじゃ……いや、まさか、そんなヤクザみたいなやり口……。
とはいえ約束を破るわけにもいかない。そうなれば竜胆さんのことだ、さっきの三千円が十倍になって返ってきてもおかしくない。

結局、私はこっちです、と頭を抱えながら迷子のようにとぼとぼ歩き出した。この手の話で竜胆さんに勝てた試しがない。いつか勝てる日がくるんだろうか、なんて思いながらも静寂に包まれたアスファルトを歩く。

竜胆さんが私に追いつくように隣に並んだ瞬間、またあの香りが漂った。やっぱりいい匂いだと思うと同時に、少しだけその香りにさっきの熱と白くふくらんだ喉仏が脳裏を掠めていく。痛む心臓には気付かないふりをした。




「お前……マジでこんなとこ住んでんの……?」

私の家を見て零した竜胆さんの言葉だ。自分以外の誰かがここに来たのは初めてだけど、予想していた内容に思わず苦笑した。

「まあ、住めば都ですよ」
「おい、セキュリティどうなってんだ……?ザルだろ、どう見ても」

六本木はその日本有数の繁華街ではあるけれど、その一方で古くから人が住んでいるエリアもある。私はそのエリアの一番奥の、どの駅からも遠い坂の上、本当に今にも崩れ落ちそうなアパートの二階の一室が私の部屋に住んでいる。階段の手すりは錆びて塗装も剥げているし、一階の部屋の窓からは白い山積みになったビニール袋が見え隠れしている。たぶんゴミ屋敷ってやつだと思う。

他にも大量のアルミ缶とか、明らかに蹴られて凹んだままになったドアとか、不吉なものばかりが見える。絶対に引かれると思ったから竜胆さんには見せたくなかったのに。

「一応鍵は掛かりますし、取るようなお金も家財道具もないですし」
「そういうことじゃねえんだよ……!」
「大丈夫ですよ!それに、もともとこのあたりは家賃高いので……恥ずかしい話、私の稼ぎだとここが限界で……」

夜中三時に仕事が終わったところで帰る術はない。タクシーなんてお金が掛かるものに乗るわけにもいかない。
もちろん始発を待ってもいいけどその待つ時間を無駄にしたくなかった。三時に仕事が終わって、朝の五時までの二時間。二時間あれば多くはないけれど、動けばお金は入って来る。ぼうっとしているくらいなら帰って割のいい内職を進めた方が余程稼げると思って家はなるべく近くを探した。その結果がこのボロアパートだ。

六本木界隈にしては格安の家賃。前に住んでた人が殺されたとか、大家がヤクザだとか色んな噂の絶えない曰く付きのアパート。設備は最低限だし、竜胆さんの言う通りセキュリティはザルだ。少なくとも私みたいな女の住むところじゃないことくらいは、私にだって分かる。
でも、私にはその選択肢しか選べなかった。だから捨てられるものは全部を捨てて、そうしてほんのわずかな盗む価値もないものだけを持ってここで暮らしている。

「……そんなに、困ってんのかよ」

チップやってるだろうが、と言いたげな竜胆さんに私は苦笑するしかなかった。竜胆さんからしたら、あんなに大金をやっているのになんでだって言いたくなるのもよく分かる。でも私には私の譲れないルールがある。竜胆さんから貰ったお金をこの生活を潤すことに使うのは私の中ではルール違反だ。

いつも以上に難しい顔をした竜胆さんには話しておいた方がいいなと思った。何を思ってか私に沢山のお金を渡してくれる竜胆さんの善意を踏みにじらないためにも、私にはきちんと説明する責任がある。

「竜胆さん、ちょっと重い話していいですか」
「決定事項じゃねーか。つか、そのせいでここ住んでんだろ」

竜胆さんのいる業界も闇の深いところだ。私がこんなところに住んでいるなら、なんとなくその事情も分かると思う。この界隈じゃ特に珍しくもないそんな話だけど、竜胆さんには私の口からちゃんと話しておきたかった。
私、借金あるんですよ、結構ボリューミーな。そう言えば竜胆さんは分かっていたかのように眉間に皺を寄せるだけに終わる。

静謐さを閉じ込めた菫色の瞳が、朝焼けに色を添えるように美しく輝いていた。




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