熱帯魚は夜半を泳ぐ


灰谷竜胆が花屋に訪れたのは久々であり、全くの偶然であった。

その日、竜胆の部下たちは最近広島の方から流れて来た中国マフィアの下っ端から情報を聞き出すのに忙しくしていた。にも拘らず兄である蘭から突然、俺の代わりに上納金の未納リストを受け取っておいて、などというお願いをされた。そしてタイミングの悪いことに、その時、花屋に行けるのは竜胆しかいなかった。
そういう訳で、竜胆は何年かぶりに六本木の古びた花屋に赴いていた。

「おい、邪魔すンぞ」
「おお、竜坊か。上納金のことだな、そこに座ってろ」

子供の頃から六本木を遊び場としてきた竜胆にとって、長い付き合いとなる花屋の店主は一種の悪友のような存在だった。
竜胆や蘭の粗暴な振る舞いや六本木の裏を牛耳っていく姿を怒るわけでもなく、生意気だなもっとやれ、なんて大口を開けて笑う稀有な大人だった。

当時の灰谷兄弟といえば同年代はおろか、大人も一歩引いてしまうような奔放さと残虐性を隠そうともしなかったし、少年院に送致もされていることでさらに箔も付いていた。
それでもこの店主だけは、六本木は自由であるべきだ、とのたまい竜胆たちを邪険にすることはなかった。

結果、竜胆たちは店主に懐き、時々気が向いたときや兄弟で大きな喧嘩をしたときなど、気分を変えたいときにこの店を訪れるようになった。
時が経つにつれ、竜胆たちはより深い闇の世界に足を踏み入れて行ったが、それを見ても店主は何も言わず、移り行くの六本木を受け入れた。
梵天のような若い組織が六本木を手中に収めることに反発される一方で、よく思わない店連中を説得したのはこの店主だった。

梵天はこの男なくしては六本木を手中に収めることは難しかったと、竜胆は密かに思っている。
今後も良好な関係を築いていくべきだ。これは梵天の、港区のアガリを一任されている灰谷兄弟の総意である。
だから今回はこうして竜胆がわざわざ足を運んでいるのだ。上納金未納者リストの受け取りなどそこらの下っ端でも出来るガキのお使いである。

「ジジイ、まだくたばってなかったのかよ」
「おまえさんを子供の頃から見て来たジジイはまだまだ生きるぞ。これがリストだ」

そう言って店主はリストを渡してきた。またか、と竜胆は隠さずにため息を吐いた。
この店主、戦後間もないころからこの地に店を構えたこともあって、方々に顔が効くし仕事もできる。しかしながら、いかんせん機械には滅法弱かった。このご時世に未だ手書きでリストを作成してくるのが普通だったし、リストの字が達筆すぎて大体が読めなかった。

しかし、リストは無碍に出来ない。また部下に解読からやらせんのか、と思いながらそのリストに目を通した竜胆は思わず煙草を落としそうになった。
均一となった機械的な文字は先月までのミミズがのたうち回ったようなものから進化を遂げている。バイトでも雇ったのか、そう竜胆が問いかけようとした瞬間扉が静かにノックされる音が狭いバックルームに飛び込んできた。

「配達戻りました、店長……あ、すいませんお話し中」
「構わねえ、どうした」
「4丁目のサロンから急ぎ入りまして、私対応していいですか」
「頼む」
「はい。失礼しました」

流れるようなやりとりに竜胆は信じられないものを見たような気になった。この店に、ジジイ以外の人間がいる。思わず竜胆はその女を繁々と見つめた。

視線に気づいたのか、女は竜胆に会釈をしてそっと扉を閉じて姿を消した。それまで口の中に籠っていた煙を吐き出す。どうやらこの店の時代を平成に進めたのはあの女らしい。なるほど、と竜胆は納得すると同時に珍しい光景に思わず黙り込んだ。

「……見ねえ顔だな、ジジイが従業員雇うの初めてじゃねえか」
「おお、いい拾いモンしたわ」
「若いのに珍しいな。こんなボロい店に勤めたがる物好きなんざ」
「金が欲しいらしい。借金でもあんだろ」

あっけらかんとそう言った店主に竜胆はなおざりに返答をしてリストに目を通す。まあいい。ひとまずリストは読めるので問題はない。次回はデータで貰うか、と竜胆は先ほどの女のところに向かった。ジジイにデータがどうの、USBが云々といったところで分かるとは思えない。どうせあの女がまとめてんなら、直で話した方が早い。

そう考えた竜胆は店の奥の作業場に足を向けて覗き込む。色に紛れて作業をする女を見つけた竜胆は、声を掛けようとして思いとどまった。

導かれるように花の間をひらひらと舞う指先に、花に向ける目に、竜胆の視線は惹きつけられた。
爪の先まで美しい女など履いて捨てるほどいる世界だというのに、竜胆には少し荒れた指先が、愛おしそうに花を手に取る手付きがなによりも美しく見えた。

仕事をする手だ。ネイルサロンとは無縁だろう飾り気のない手が、どうしてか竜胆の目を誘引する。鼓動が少しだけ刻む間隔を変えた気がしたが、それを確かめる前に竜胆の気配に気づいた女の視線が自分を突き刺した。

「あ、お話終わったんですね。すいません、お邪魔してしまって」
「……や、気にすんな。あんた、いつからここにいんの?」
「二週間前くらいですかね。飛び込みだったのに雇っていただいて、店長には感謝しかないです」

もう何年も剥がされていない従業員募集の張り紙がようやく仕事を全うしたらしい。給料はいいがそれだけだと竜胆は知っている。
腕は確かだが頑固者。今まで幾人もの従業員を雇っても長続きせず、この男と仕事ができるのは後にも先にもこの男の妻だけだろう。

そう言われていた男の元で働く、自分と同じか些か若い女。竜胆にとっては純粋な興味が湧いた瞬間だった。にこり、と女の顔にいかにも上っ面な笑顔が浮かんだ。

「花束を作る際は、ぜひご贔屓くださいね。お待ちしてます」

そう言って女は竜胆のことなどいなかったかのように、再び花束に視線を向けた。その刹那、さっきまで浮かべていた薄っぺらな笑顔が、とろりと溶けた。

凍てついた冬を溶かすような、陽だまりを閉じ込めた柔らかい視線が花に向けられたのを、竜胆は目の当たりにした。

綻ぶように緩んだ口元と慈しむような目元を見た瞬間、ぶわりと肺のさらに奥に優しい匂いが漂った。若葉の間を縫って届くやわらかな春の、甘い香り。花から漂うよりももっと甘くて、淡い色をした優しいもの。ざわり、と竜胆の心が波打って、強く握られたのではないかと思うほどに痛んだ。

先ほどの社交辞令以降、女の視線が竜胆に向くことはなかった。未だに波打つ心を携えたまま後ろ髪を引かれる思いを振り切って、竜胆は店を出た。もう一度振り返ると店先の硝子の扉越しに彼女の横顔が見える。雑踏に紛れて、またあの甘い香りが鼻を擽った。

脳裏には真剣でありながらもどこか優しさと甘さを孕んだ視線を花に向ける横顔がはっきりと浮かんだ。
もう一度、見れないだろうか。竜胆はそう思った。あの表情が綻んでいく様を、この街に不釣り合いなほど爽やかで柔らかい笑みを、もう一度間近で。

腹の奥からこみ上げてくる熱と欲を心に留めながら、竜胆は足早に身を翻した。あの匂いはどこかへ消えていた。





それからのこと、竜胆はなにかと理由を付けて花屋に行こうとする自分がいることに気付いた。

硝子越しに彼女の横顔があればつられるように口元が緩み、駐車場に店の車が無ければ分かりやすく口元が歪んで舌打ちが漏れた。
配達くらいジジイが行け、と思いながらもいないとわかっているのに狭い店内にその姿を探し、なにかと理由を付けてスケジュールぎりぎりまで滞在した。

梵天は暇ではない。日本の裏を牛耳る犯罪組織と名高く、その幹部となれば忙しさは明白だった。それでも、忙しい合間を縫って竜胆は店に顔を出した。
花弁より薄い建前をかざして今までの比ではない頻度で来店する竜胆に、店主は笑みを隠そうともしなかったし、面白がって彼女と竜胆を会わせないよう配達に行かせたりした。

もとより少年院に入るような喧嘩生活が骨身まで染みていたし、兄ほどではないが竜胆も隠されれば隠されるほど暴き、捕まえたくなる性分である。そのせいか、ひらひらと花の影に垣間見える彼女の姿を追うのは、竜胆にとって自然で、当たり前なことだった。そこに理由など、ないはずだった。

どうして彼女を追いかけるのか。

何度目かの来店で店主に聞かれた竜胆がその理由を考えたとき、竜胆の心はすとんと落ちた。熟れた果実が枝から離れていくように竜胆の心も宙を彷徨い、その笑顔が脳裏を掠めた瞬間、引力に導かれるように落ちていった。地面に落ちた熟れた果実から
じわりと欲望が甘ったるい匂いを纏って立ち上っていった。

あのやわらかな笑顔が見たい。
緩む唇を優しくなぞってやりたい。
甘やかな香りをずっと嗅いでいたい。

慈しむようなあの視線で、熱量で。俺を。

そんな欲望が腹の底から湧いて出てくるのを竜胆は自覚して、心臓を掴まれたような錯覚に陥った。自分には無縁だと思っていた想いが、あの視線で溶かされた雪解けと共に芽吹くのを竜胆は確かに感じて、そして頭を抱えた。

欲しい。どうしようもなく、彼女が欲しい。

自覚したときには、もう言い逃れができないほどの想いが膨れ上がっていて、竜胆はがっくりと項垂れた。
竜胆が仕事の隙間を縫い足しげく店に通い始めて二か月が経っていた。





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