息詰まる孤高が綻ぶまで

「ちょ、う、へんなら、あります」
「―――へえ」

愉悦をたっぷりと込めた声が、喉をゆるやかに絞めつけるように柔らかく落とされた。産毛を逆撫でる恐怖と、僅かに見えた希望が松明のように頭の中で揺らぐ。

震える呼吸をなんとか押し殺して、分厚い胸板の先の夜を飽和させた瞳を見上げた。
逆光の中で、星をも飲み込むような黒い瞳が僅かに瞬き、片手にぶら下がったネクタイがその続きを促すようにゆらゆらと揺れている。

面白い生き物を見つけた、と言わんばかりに歪む黒い三日月が変わらずに私を見下ろしてきた。これは賭けだ。私が賭けた、一か八かの勝負だ。そして―――乗ってきた。

「まだ、書きかけの、全然、その、かたちになってないですけど、それでも、導入は、もう」
「どこにある」
「つ、つつくえの、パソコンに、」

思ったよりも低い声で場所を問われて、尻すぼみになっていく言葉で答えた。待って欲しい、確かに勝負に出たつもりだが、想像以上に目がギラギラしてないだろうか。
ひょえ、という言葉はなんとか飲み込んだが、勝負師のごとき凛とした佇まいは無限の彼方へ去った。

夏油傑は机のデスクトップに視線を向けて、いくつかの思考を逡巡させたようだった。私を消すか、書きかけの小説を読むか、その天秤が震度5強ほどで揺れているんだろう。
まさか数万字の文字と自分の命が天秤に掛けられる日が来ると思わなかった。

覆い被さっていた体が音もなく離れていき、そのまま引き寄せられるように机へと向かっていった。カチ、とマウスをクリックする音が聞こえてくる。

「最近つまらない女向けのエッセイばっかり書いてると思ったけど……へえ、サスペンスかな」

窮屈そうに椅子に収まった体がパソコンの画面を向いて、同時に椅子が耐えきれないようにギシリ、と悲鳴をあげた。私の体をすっぽりと覆うようなほどの大きさを誇る、家具メーカーの主力商品であるにも関わらずだ。根本的に骨格が違うことをまざまざと見せつけられた。本当に股下が3mあるかもしれない。

カチカチ、とマウスをクリックする音が数度して、やがてその音がピタリと止まった。それ以降、夏油傑は動かなくかなった。5分、10分が経っても夏油傑の喉は変わらず仕事を放棄している。

言うなればあまりにも沈黙だった。先ほどまでアルカイックスマイルのお手本のような笑みを乗せていた口元は、今や固く結ばれている。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ瞬きはめちゃくちゃ減った。可哀想に、私が眼科医ならドライアイの診断を下す。

しかし、そろそろ膠着状態をどうにかしたい。私はここから動いていいんだろうか。恐る恐る声を出してみることにした。

「あ、あの……」
「今読んでる」
「あっはい」

そう言われてしまえば私が出来ることはない。読んでいるということはその分、あのネクタイが本来と違う働きをする予定はないということだ。大賛成だ。おおいに有給を消化してほしい。
なんだったらこの夏油傑という地球環境の行く末に1ミリも興味がなさそうな不届き者に、ノーネクタイという常識を是非とも刻み込んでいただきたい。




結局のところ。
あの場から転がるように帰ってきた私は当然のことながらおやすみ、と安らかに眠れるわけもなく気付けばパソコンの電源を着けていた。小説家とは厄介な生き物なのだ。

どこのだれでもない、顔のない女の日常の切れ端を上書きしていくように、垣間見た夜に住むものたちの世界が脳裏に広がっていく。それもこれも、全て夏油傑が登場人物などと言ったせいだ。気になるだろうと問いかけられた瞬間、頭に浮かんだ人間が苛烈に命を燃やし始めた。

どうかしていると思った。さっきの今だ。本来なら警察に通報すべきだ。怪しいとしか思えない現場だった。
しかし、私の指先はスマホの電話画面ではなく、キーボードに誘われていた。
指先が震えた。私は、今、とてつもなく間違った道を歩もうとしているのではないか。

浮世離れした現実に出くわした高揚と命の危機に直面した恐怖。恐ろしいのに、どこかでこの先自分はどうなるんだと俯瞰的に見ている自分もいる。アドレナリンだかエンドルフィンだかが出ている自覚はあった。不釣り合いなくらいの興奮に、お腹のそこから沸き上がってくる衝動。

アルファベットを一押しした。n、と画面に刻み込まれた文字が目に映ったその後のことは良く覚えていない。気づけば数万の文字と、青白いやわらかな朝の光が私の視界を埋め尽くしていた。




思い返せば思い返すほど訳がわからない。どうして私は今こんなことになっているんだろうか。締め切りに追われた末の幻覚だと言ってもらった方がまだマシだと思った。

さっきまでの命の危機はどこへやら。ひとまず眠気覚ましにコーヒーでも淹れようかとキッチンに向かう。
すぐ現実から目を背けるのは私の悪い癖だとスイーツ恋愛脳の編集担当に言われた気がするが、聞こえが悪い。大いなる流れには逆らわない従順な性分と言って貰いたい。
そして招かれざる客にもその従順さは発揮されるのである。

「あの……コーヒー、飲みますか?」
「うん」
「……チョコとか」
「うん」
「……帰りません?」
「うん」

だめだ。聞いてない。生返事世界選手権が開催されればきっと日本代表の座を簡単に手にすることが出来たと思う。それくらい、絵に書いたような生返事だった。

これはもしや出て行ってもバレないのでは、と逃亡というゼッケンを背中につけた短距離走の選手が私の目の前を駆け抜けたが、その後に頭を振る。いやいや、ここで逃げれば今度は死というゼッケンを付けたマラソン選手が42.195qを走り切るスタミナで、どこまでも追いかけてくるだろう。そんな未来が見えた。

分かりやすく詰んでいる。今の私に出来ることは夏油傑の集中力を切らさないように息を潜めて見守ることだけしかない。昨日に引き続きインスタント密室が完成した。お手軽過ぎて涙が出そうだ。

次に、はー……というため息を夏油傑が零したのは、それからさらに15分が経過した頃だった。深々と落とされたため息に思わず肩が跳ねる。夏油傑は両手を組んでデスクに肘をつくと、その手に額を付けて視線をあげた。そして。

「――――続きは?」


なんかオタクみたいなこと言い始めた。


「いや、あの……」
「あの情報だけでここまで書けるのか……いやでも確かに、リアリティは少し……なるほど……」

私の返事などよそにブツブツと書いた話を分析する夏油傑にどんな言葉を返していいか全く分からない。少なくとも面白くないから射殺、という最悪のケースは免れたようだった。ほっと息をつくと同時に続きという言葉に思わず筋肉が固くなる。

おそらく執筆という仕事をする人間であれば誰もが感じる居心地の悪さが、むくむくと心臓の奥に込み上げてきた。

「それで、続きはいつ頃出来る?」
「書けないと言ったらどうするんですか」

馬鹿な質問をしてしまったと思ったときにはもう遅かった。
いつだってこうだ。考えなしというか、運がないというか、慎重でいなければいけないことほど一線を踏み越える足が軽いうえに、大抵足の先には沼が広がっている。迂闊という一言に尽きた。

「その、選択が、出来ると?」

きみに。
全身に北極の氷水をぶっかけられたような気がした。臓腑の奥からこみ上げてきた恐怖が水に垂らした墨汁のようにあっという間に全身に広がっていく。モニターから目を離した夏油傑はにこりと笑って、こつ、とその長い指先でデスクの天板を叩く。

「事の顛末は全部話そう。必要な情報も与える。だからさっさとこの物語を最後まで書き上げてくれないか?」

そうじゃないと仕事が出来ないだろう。そんな一抹の煩わしさを言葉の端に滲ませながら夏油傑はそう言った。さっさと、書けと。情報も、設定も全部くれてやるから書けとこの男はそう言った。ぶわり、と産毛が逆立つような感覚の波に呑まれる。

「じ、事実を、忠実に書き起こすのが小説家の仕事、じゃありません」

6時間耐久コースの末消えたプロットと徹夜明けの脳みそにとっては充分すぎる撃鉄だった。するすると勝手に口から漏れていく言葉を、夏油傑はただ黙って聞いていた。

現実に起きたことを書くのはタブーだ。万が一名誉毀損による訴訟なんてことになれば、出版社も私の名前にも傷がつく。私はどうだって構わないが、出版社はそうはいかない。
当たり前だ。紙の本が売れない昨今、訴訟沙汰ともすれば小さな会社など容易に吹っ飛ぶ。だから事実は書けない。

「登場人物の背景、事の経緯、感情の揺れ、私はそれを文字で繋ぐだけです。頭の中に情景を描けば、あとは勝手に登場人物たちが動き出す。彼らがどんな動きをするのか書いてみないと私にもわからない」

事実は書けない。そのままでは。
だが、頭に思い浮かべた彼らが限りなく事実に近い形で、新しい物語を作り始めるというのなら話は別だ。彼らに非はなく、その事実が現実に起こったかもしれないし、そうならなかったかもしれない。それは私にしかわからない。

「小説は自由です。現実を凌駕する未来が書ける。思い描くものが同じでも紡ぎ出される結末に同じものはない。……私の物語の結末は、私にしか書けない。その事実が、すでに起きたことだとしても」

これは賭けではない。もはや意地だった。怒りだった。小説家としてのプライドであり、私の尊厳の問題である。

「春山楡の書く小説は、そうやって作られていく。……物語は、完結するまでわかりません。貴方にも、私にすらも」




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