悪夢を正夢にする方法

「あ、あ、あの……つまらない、もので、すが……」

新品の湯飲みに注いだ水面には、新緑の色彩を写し取ったような淡い色が広がっていた。とてつもない波紋を描きながら。報道陣の前に晒された時の方が余程マシな震え方だと思う。そもそもだ。
どうして突然の来訪、もといダイナミック不法侵入をぶちかました夏油傑に、長居の口実となるようなお茶を出しているか。それは夏油傑の発言が発端である。

今日は良い天気だよ、思ったより暑い。

さんさんと降り注ぐ朝の日差しに目を細めながら、夏油傑は音を立てずソファに腰かけた。
ぴっちりと絞められた黒のシャツ、スーツ、ネクタイをこれでもかと私の前に晒しながら、夏油傑がにこにこ笑っている。クールビズという言葉が喉元まで出かかったが、今だけは環境問題にも目を瞑って貰う他ない。北極の氷なんかよりも先に私の命が消えそうである。

深淵の方がまだ浅いと思われる深みのある笑みを見て、私は察した。暑くて喉が乾いてるんだけどお茶も出ないのかい、ということだろう。なんと読解力の必要なことか。読者に優しくない指南書そのものである。
部屋のソファに深く腰掛けた夏油傑に、すぐに、と言えば悪いね、と返事が返って来た。どうやら意味は正しかったらしい。

この家の中で一番良い茶葉を引っ張り出してきたつもりだ。いつだったか、なんかのパーティーで土産物として貰った高そうな店の、高そうな名前の茶葉だ。これだけ豪勢であれば失礼のないレベルのはず。ネットの先生に入れ方まで教えて貰った。完璧だ。大丈夫。

音ひとつ立てようものなら首がはねられるのではないか、そんな緊張の糸が部屋に張り巡らされていた。ローテーブルに湯飲みを置けば、ようやく私に固定されていた視線が外された。針の筵とはこういうことか、とひっそり肩の力を抜いた。

お茶出しひとつでこの有り体である。
あと何度地球が滅びれば私の心に穏やかな心が訪れるんだろうか。かつてないスケールの大スペクタクル巨編に全米が震撼している場合ではない。私の今が大スペクタクルだ。

「ありがとう。名前の部屋、意外と綺麗なんだね」
「……担当が一昨日、勝手に、模様替えと整理整頓を……」
「それって、男?」
「いえ!女です!!私にティーンみたいなコテコテの恋愛を書けって言ってくる合コンとネイルに命を掛けてるどうしようもない編集担当です!!」
「よかった。男ならどうしようかと思った」

どうするつもりだ。湾か、また海底行きの超特急なのか。
というか男だろうが女だろうが会って数時間の貴方に口出しされたくないんですけど。流石に目の前の人間にそれを言うことは出来ないのでそっと心の内に留めておく。わたし、かしこい。やばい、徹夜のせいでテンションおかしくなってきた。

正直何が地雷なのか全く分からない。移動する地雷原もかくやの物騒さである。肝心の夏油傑は湯飲みの淵をなぞりながら、楽しそうに私を見るばかりでそれ以上何も言わない。いやそもそもだ。マジでこの人何しに来たんだ。昨日は人のことを猫扱いした挙句、死なないだの殺さないだの言っていたはずだ。

まさかもう気が変わったとか?いやいや数時間で気が変わるとかないでしょ。カタギには手を出さないし、約束は守るし、筋は通すのが極道のはずである。

それはさておき、とにかく夏油傑には話を進めてもらわなければならない。もし万が一夏油傑がこのまま居座ってあのキャンキャン鳴く担当とかち合おうものなら、文字通りの地獄が製造される。
あの担当のことだ、顔だけはいいこの男に絶対に食いつくに違いない。私の家が修羅場になるのはごめんだ。

「そ、それで、その……えっと、本日はどのようなご用向きで……」
「昨日言ったじゃないか、忘れてしまったかい?」
「申し訳ございません私の惰弱な脳では処理できませんでした差し支えなければ御教示賜れますでしょうか」
「そんなに怯えなくていいよ、私と名前の仲じゃないか」

いつの間に親密な関係にされている。恐ろしい。これが反社の手口。
そんなに仲良くなるほどのエピソードがあったとも思えないが、ここまで言うのであれば最悪の事態は免れたのではないか。これから殺す相手にそんなに親し気にするとも思えないし。よかった、と胸を撫で下ろした。

あはは、とへらへら笑えば同じように夏油傑も笑みを返してきた。さっきまでと変わらない笑みのまま、夏油傑の形のいい唇が開かれた。

「昨日のことを知られてしまったからけじめをつけないと、と思って」





「な、は、い、いやいや、け、けじめ、……、ですか……、いや、だって、それはあなたが勝手に……」
「でもあの場に来たのは君自身の意志だろう?」

この場、このタイミングで言われるけじめが何を指すのかなんて聞かなくても分かる。
急激に心臓から血液が送り出されて、体中にいやな音が反響していた。足元がおぼつかなくなるような、不愉快ともいえる浮遊感に、腰から下の感覚が消えていく。

やっとの思いで平静を取り戻した感情の海はあっという間に猛々しく荒れ狂い、波を砕く冬の日本海の如く荒れた。は、と短く吐き出される息だけが震えて部屋を満たしていく。夏油傑は動かず、限界まで研ぎ澄ました刃のような目で私を見ていた。さっきまでと雰囲気が違いすぎる。

「た、ただ、その、通りすがり、なだけで……」
「でも、見たよね?あの場にいたことは間違いない。男の末路も知ってる。これ以上なにか理由が必要かい?」

知ってるもなにもその情報を押し付けてきたのは夏油傑である。男がどうなるのか、何が起きているのか、丁寧に説明して、頼んでないのに続報という新しい種を蒔いたのはこの人だ。
なんという理不尽。これまで生きてきてこんなにも不可抗力、と痛烈に思うことはないだろう。

力の抜けた腰を引き摺って距離を取る。ずりずりと不格好な音がして、背中に壁が触れた。行き止まりだ。ひ、とひきつった声が漏れたのを合図に、夏油傑がゆったりと立ち上がった。
股下3mのリーチを活かしてあっという間に距離を詰めた夏油傑が視線を合わせるように目の前に腰を降ろす。あっという間に私の視界は夏油傑で埋め尽くされた。前門の夏油後門の壁。控えめに言っても絶体絶命だ。

「こ、ころ、すんですか、わたしの、こと。猫は、最後まで面倒を見るんじゃ、ないんですか」
「ああ、そういえばそうだったね。でも、『最後』は平等に、安らかに訪れるわけじゃない。知っているかい、名前、最期はいつでも作れるんだよ」

可愛いは作れるみたいなノリで言わないで貰いたい。いくらつやつや光る黒髪を持っているからとはいえ、トリートメントのコマーシャルとしては最悪の部類だ。いや違う、こんなことを考えている場合じゃない。諦めそうになる思考をなんとか引き戻す。

諦めるな。逃げなければ。生き永らえる術を、探さなければ。私の人生は、文字通りここで終章を迎えることになる。

「こう見えて私は本を読むのが好きなんだ」

抜けた腰の感覚は少しずつ戻ってきている気がした。どうにかしてここから逃げられないだろうか。目の前にしゃがむ夏油傑の懐から逃げ出して、廊下を走る。イメージだけは充分だ。ジャッキーチェンのように相手を倒すことはできないが、逃げ出すくらいは私にだって、できるんじゃないか。

そんな微かな動きが伝わったのか、逃げ場を奪うように夏油傑の片腕がそっと頭上の壁に押し付けられた。しゃがみ込むというよりも、もはや覆いかぶさられる一歩手前。同じくらいの高さで絡み合っていた視線が、たったひとつの所作で上から覗き込まれるような形になる。片腕だけで私の逃げ場はあっさりと奪われた。バレた。もうだめだ、逃げられそうにない。

「だから名前が春山楡だって知った時はとても悲しかったよ」

部屋の片隅に小さい世界が広がる。私と夏油傑だけで構成された、それ以外何も存在しない世界。夜を研ぎ澄ましたように広がる黒い瞳を見れば、絡みつくような腕の感覚が呼び起こされた。ぞくり、と背中が粟立つ。

「新人賞から名のある文学賞までを、たった1作品で総なめにした作家はきっと名前くらいだろうね。それだけに残念だ」

残念、と言う割には表情は全く変わらない。手折った花が枯れてしまったことを憐れみはするけれど、しょうがないと言って明日には忘れている。そんな声色だった。夏油傑のなかで私の命は、日常の代替品にも劣らないほどの軽さでしか存在していないことを思い知らされた。

行き場のなかった夏油傑の指先が、しゅる、とぴっちりと絞められていた首のネクタイを解いた。節くれだった、太い指が質の良い生地を滑る。その緩慢な動きに咽るほどの欲の香りが沸き立つ。
先週のエッセイで書いた、男のぐっとくる仕草。滲んだ疲労が少しのスパイスとなって女の鼻腔と本能を擽るだのなんだの、友達が言っていたことをそのまま書いた記憶が脳裏を駆けた。

抜き去ったネクタイをどう使うつもりなのかは、聞いてはならない。本能がそう告げた。

「――ずっと、待ってたよ。もう一度くらい名前の長編が読みたかったけど……仕方ないね」

恨むならあの場に来た自分の好奇心を恨むといい。

しとどに濡らした音を鼓膜の海に降らせて、夏油傑の瞳が緩やかに弧を描いた。




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