はばまれた幻惑のさきには

開けない夜はないという言葉がある。

使い古されたフレーズだが、物事の終焉と希望を表現するには確かに絶妙な言い回しだ。俺たちの旅は始まったばかり、と一言添えればなお良し。
さらに夜と朝、暗と明。対比となる表現が秀逸なうえ、時間の経過も言外に示唆してくれる。まさに表現のバリューセットだ。

小説を書くにあたって、全員が違和感を抱かない表現と言うのは意外と貴重である。場所や身分で変わる価値観というのは万人には受け入れられにくい。この話とはそもそも世界が違う、と文字と現実の壁を認識されてしまえば、小説の世界はそこで文字通り終焉を迎える。

その点、時間というものは貴賤なく与えられているから、非常にありがたい存在だった。そういう作家の切羽詰まった背景があってあの言葉が生まれたのかもしれないと思うほどに。

が、私が言いたいのはめんつゆのような利便性や汎用性の高さではない。言いたいのは、人と場合によって必ずしも、朝は希望ではないということだ。むしろ今の私にとっては絶望そのものだった。ターン、とエンターキーを叩く音が明るくなり始めた3LDKの部屋に響いた。

朝がやって来てしまった。どうしよう。言い訳ができない。締切、締切が来ちゃった。やばい、昨日から全然進んでいない。書けない。

書けねえ〜〜〜!

「あーーー……眠い……目がシパシパする……」

年季の入ったゾンビの方がまだ生気に溢れているだろう唸り声が喉の奥から絞り出された。キーボードを避けるようにして机の上に倒れ込む。同時に、脳幹の奥を除夜の鐘の如く殴りつけてくる痛みと眠気をやり過ごそうと、眉間の皺を無理矢理伸ばしてみるが無駄だった。

冷蔵庫の住人と化している魔剤の投入は免れたが、代償として払わされた没入感が酷い。現実と小説の世界を区切る境界が朝ぼらけのようにあやふやになっている。体の奥にある疲労感にもう若くないことをまざまざと見せつけららた。逃げるように目を閉じそうになって慌てて開ける。このまま寝たら10時間は寝る自信があった。

「疲れた。無理だ。寝たら起きれる気がしない」

小説家と一口に言っても、世間が考える以上に格差が激しい。
名の知れた作家は引く手数多だが、そんな作家などほんの一握りに過ぎない。大体は私のように何かと掛け持ちをして生計を立てているものがほとんどだ。
そして私もバイトと作家業の二足の草鞋だ。そして残念なことに今日は原稿の締切日で、そしてバイトである。

「……執筆は後にしよう。そうしよう。今日は絶対に筆が進まない自信がある」

書けない時に書いたってろくな仕上がりにはならない。うん、そうだ。そうに決まってる。これは作家同士の集まりでも同じ話がされていたから間違いない。あの有名な大先生もそう言っていた。時代は繰り返す。しかし社会人として原稿を落とすわけにもいかない。

しょうがない。眠気覚ましにコーヒーでも煎れるか、とインスタントコーヒーを適当にマグにぶちまけてウォーターサーバーの温水ボタンを押した。濃すぎる気しかしない。

軽い水音を立てて質量を増していく黒い液体を見て、なんとなく暗闇でも鈍く光る瞳を思い出した。ぞく、と背中を何かが駆けていく。誤魔化すようにコーヒーをあおって、悲鳴をあげた。熱い。絶対に喉をやけどした。おまけに濃い。最悪だ。
それもこれも、全部あの、夏油傑とかいう男のせいだ。げとうすぐる。もう一度口の中でその言葉を遊ばせた。

「昨日の記憶、曖昧だなあ……小説がどうの、猫がどうの言ってたな、どういう話の繋がりだっけ……だめだ、思い出せない……脳が記憶に留めることを拒否している……」

夜に住むものたちのねぐらから帰って来たのは、つい数時間前のことだ。なんと五体満足だった。
命からがらという表現に相応しいほど震えながらも、どうにかしてあの場から離れた私は転がり込むように部屋へ帰ってきた。どうやって帰って来たのか覚えていない。私は夏油傑をどうやって愛車から追い出したんだろうか。

昨日のハイビームに照らされた先の出来事も告げられたケースの中身も、全て幻だったんじゃないかと思う。けれどあの蛇のように体に巻きつく腕の底知れない薄気味悪さと、耳に残る湿った吐息が確かに否定してくる。

『好きなものはーーーさいごまで愛でる性質だから』

ぞく、とまた背中が粟立った。何が好きなものだ。会って3秒で恋に落ちるひと昔前の漫画じゃあるまいし、と頭の中の夏油傑にボディブローを食らわせる。頭の中でくらい好きにさせてくれと思ったが、あの笑顔が浮かんだ瞬間拳を降ろした。

まあ、もう会うこともないだろう。個人情報が丁重に扱われることを法律で決められている法治国家である。名前くらいではどこに住んでいるかなんてわかりはしないはずだ。
あーそれにしても怖かった。ヤクザなのかただのチンピラなのか知らないが、関わってはいけない人種なのは確かだ。

もう一杯コーヒーを注いで椅子に腰かける。目の前のデスクトップには書きかけのワードが開かれたままになっていて、余白の手前でカーソルが点滅していた。しょうがない、まったく気が乗らないが書くか、とキーボードに指を置いた瞬間だった。

ぴんぽーん

部屋中に悪魔の来訪を告げる音がした。原稿の取り立て屋のお出ましである。流石担当編集。私の行動パターンを熟知している。これは何がなんでも書かせる気だ。

「あー…………うん、居留守を使おう……真っ白だし……」

ぴんぽーんぴんぽーん

「早く諦めてくれ……書けてないんだよ……」

吹雪が過ぎ去るのを待つ山荘に閉じ込められた人間はきっとすべからく同じ気持ちになっているだろう。聞こえる訳はないが、つい息を殺した。

ぴんぽんぴんぽん
ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん
ぴんぽぴんぽぴんぽぴんぴんひぴぴぴぴぴんぽーん

「うるっさいなあ!近所迷惑だっつーの、何考えてんのバカ編集担当……!つーか預けた鍵は忘れたのか……!?」

DJでもここまで露骨なスクラッチはしないだろう。もはや悪質の域である。
迷惑防止条例違反で即厳重注意だ。編集部に苦情を入れても許されるだろう。我慢ならない、とイライラしながらインターホンを覗く。開口一番何て言ってやろうか。
そんな算段を立てていた私はインターホン画面に映った人物を見て、悲鳴をあげることとなった。

「―――っひぎゃあ!」
『やあ、おはよう名前。よく眠れたかい?』

画面にはスーツに身を包んだ見覚えのある男が映っていた。数時間前に見たその顔にざあ、と血の気が引いていく。なんで画面を確認せず応答を押したんだ私、と数秒前の自分を呪った。

「ななななんで!!なんでここに!?夏油傑がいんの……!?」
『封筒の住所を見てまさかと思ったけど、こんなにご近所さんだったなんて嬉しいね』

そう言って夏油傑はにこりと笑った。人の良さそうな笑みを浮かべてはいるが、数時間前のことを思い返せばただの笑顔には到底思えない。腹に、お客様にぴったりの地獄を取り揃えています、と言われる方がまだ納得が出来た。
こっちは全然嬉しくもなんともない!悪夢だ!これ以上ないくらいの悪夢が襲ってきた。

『なんでって、昨日あんなに二人っきりで語り合った仲じゃないか』
「後部座席に乗り込んできただけですよね!?というかそっちが勝手に私に情報押し付けて来たんじゃないですか!!」
『知りたそうな顔をしてたからね。せっかくだから残された男たちがどうなったか教えてあげようと思って』
「いいえ!いいえ全く気にならないです!これっぽっちも!」
『今頃海の底だよ』
「だから何で言うんですか!?聞いてないですよね!?」

半狂乱になりながらインターホン越しに叫ぶ。目撃されていたらご近所付き合いにひと並もふた波も立ちそうだったが、そんなことは後から考えることにした。今はこの男、夏油傑を追い返さなければならない!
眠気と疲労でハイになった精神が火に油を注いでいくようにどんどんと言葉を積み重ねる。自分がオートロックのインターホン越しという絶対に安全な場所いるというのも拍車をかけた。

『ほら知りたくなっただろう?あの男たちが何でああいうことになったのか』
「結構です結構です!!お引き取りください!!」
『そう……家に招いてはくれないんだ』
「もちろんです!ちゃんと正攻法でお越しいただければおもてなしくらいはします!で!は!」

ぶちん、と通話終了ボタンを押せば画面は沈黙した。危機は去った。誰もいないのをいいことに盛大にコロンビアポーズをかました。気分は脱獄に成功した囚人である。世界はこんなにも美しかっただろうか。

しかも鍵もピッキングできない、とお墨付きまでもらっている高セキュリティの部屋。やかましい編集から逃げるために用意した私の愛すべき要塞だ。引きこもりの執筆生活のお陰で籠城の準備もできている。不可抗力だが今は喜ぶべきだ。

「あー、もう、もうキャパオーバーだ。意味わからん……お祓い行った方がいいかな……」

昨日から怒涛の展開だが、どうにもいい方には転がっていない。嫌な予感、と思いながら一応チェーンを掛けておくかと玄関に向かう。昨日バタバタしてチェーンを駆け損ねていたが、今日は担当が来る日だ。チェーンは絶対に掛けねばならない。

そう思ってチェーンのノブを倒そうとした瞬間、触れてもいない取っ手が下がってドアが引かれた。光がさした一瞬ののち、再び目の前が暗くなって思わず停電か、と顔を上げた。ゆらりと蠢く、ほんの僅かに光を孕んだ黒が頭上に浮いていた。

「は?」

停電ではない。丹念に磨かれた鉛をさらに凝縮した黒い壁が、突如として目の前に現れて、私の視界を塞いだ。事態に追い付けないまま、唇が間抜けな形て音を垂れ流した。

「――ああ、お出迎えありがとう」

ずしり、と架空の質量を伴った頭上から音が溢れてきた。闇に潜むいきものの声だった。とぐろを巻いて、罪のない獲物を暗闇に引き摺り込もうとする、沼のような底知れない声だ。そして、つい数時間前、聞いた声。

げとう、すぐるだ。なんで、ここに。

「な、え、ど、ど、どう、どうやって……!?」
「管理人さんから鍵を借りてね。ほら、正攻法だろう?おもてなししてくれるよね?」
「な、なんで、か、鍵……!?え、?親戚?」

マスターキーの貸し借りなんて赤の他人には不可能だ。それをこんな短期間で手に入れるなんて、いつの間にこの男と親戚になったんだ、と思って棒立ちになる。ぽかん、と中途半端に開いた口を見て、夏油傑はそれも楽しそうだ、と再びくすくすと笑った。

「名前は知らないかもしれないけど」

ひやり、と背中に冷たいものが走る。保冷剤をしこたまぶち込まれた方がマシだった。今日日ケーキ屋でもなかなか受けられないVIP待遇に絶句していると、夏油傑が身を屈めて耳元に唇を寄せてきた。昨日と同じ夜露を帯びた吐息に、全身を撫であげられて、ぶわりと鳥肌がたつ。

「ここ、うちのシマだから」

物件の鍵なんて簡単に手に入るんだよ。
ハートマークでも飛んでいそうな愉悦の入ったその言葉に、私は今度こそ固い玄関へ膝から崩れ落ちた。激痛が走った。膝の皿割れたかもしれない。





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