侭ならぬ生をあがけ

「お邪魔するよ」
「ひ」

底冷えする夜が、安い軽自動車の後部座席に身を滑らせた。

中古車販売店で見た目と値段だけで買った車はそれなりにセンスのいいものを選んだと自負している。ぼやけた青い車体は春の微睡みを写し取ったかのような色で、多少の古さは残るもののそれを差し引いてもおつりがくると思うくらいには気に入っていた。

小回りが利いて燃費がいい、おまけに税金も安い。昨日のニュースでは日本の新車販売台数の四割が軽自動車だと言っていた。なるほど、自動車メーカーが力を入れて開発するのも、私のようなしがない人間が買うのも納得がいく。

だというのに、この夜を纏った人にとっては満足のいくものではないらしい。些か窮屈そうに後部座席に収まった男が、バックミラー越しに映る。左右逆転の世界を超えて目を合わせれば、男はうっすらと静謐な笑みを浮かべた。

バタン、と扉が閉じられればそれまで聞こえてきた音が消えて、凍てつく冬を閉じ込めたような沈黙が訪れた。瞬きすらも音がしそうな沈黙の密室の完成である。

「あ、の、」
「いい車だね。丁寧に使われてる。もう少し広ければなお良い。そうは思わないかい?」
「そ、うです、ね」

股下三メートルはあろうかという長い足を組み換えて、特徴的な前髪を持った男はトントンと自分の額をこれまた長い指で叩いた。呆れるほど絵になる男だった。急に軽自動車の固いシートが銀座のそういう店の、革張りの席と勘違いしそうになるほどに。
しかし私の目はしっかりと男の袖口に蛇の鱗を捉えていた。漏れそうになる悲鳴を噛み殺しながら、軋むほどにハンドルを握りしめる。


見てはいけないものを見た。それだけだ。でもそれが全てだった。


本当に、ただの偶然の産物だった。久々に上げた長編原稿の打ち合わせは六時間をゆうに越え、結果として会議はプロットの練り直しという最悪の結末で幕を閉じた。

小説家のくせにリアリティに欠けると言われ、ひとしきりむしゃくしゃして、――そして、なんとなく静かな夜の海が見たくなった。とことん自分をドラマチック憐れんでやりたい。そんなチープな欲に溺れて助手席に原稿を散りばめた私は車を走らせた。

途中のコンビニで買った安いホットコーヒーを片手に夜の海を眺めよう。人気のない湾岸に車を停めて、今だけは世界で一番可哀想な三文小説のヒロインになるのだ。そうして明日にはいつものように冴えない文を書きながら働く、変わりのない日に戻る。そう思っていた。

ハイビームに照らされた先に、いかにもな怪しい取引の現場を見るまでは。

呆然としていた私を動かしたのは、早くここから立ち去らねばという死んでいた危機感がキリストの如く復活したからだった。どう見てもやばい案件だ。関わってはいけない、とギアをバックに入れようと手を伸ばそうとした。

しかしそれよりも早く、あの黒服たちの中で一際大きな男が呼んでもいないのに後部座席に乗り込んできた。ロックは掛けていなかったから、男はいともたやすく私との密室を作り上げた。地球上で一番簡単で、恐ろしい密室だと断言できる。

「あ、の、わたし、その、なにも見てな」
「あのケースの中身、知りたいかい?」

いいえ。首を振る。ここで首を振らなければ私の首と胴が離れる。そう本能が告げていた。話を遮られたのはもうどうでもよかった。
行き交う白いケース。崩れる体。闇に溶ける服。骨を砕くような殴打の音。
ハイビームの先で繰り広げられる光景は、ドラマよりも非現実的で小説よりも五感を刺激する有様だ。時期外れの寒さを感じて吐く息が震えた。

「あのケースの中にはね、死体とクスリが入っているんだ」
「へ、え……」

聞きたくないって言ったのになぜ聞かせた。そう抗議したい気持ちでいっぱいだったのに、何も言えなかった。言ってしまえばあのケースに入っている人間と同じ末路を辿ることになる。これは文系の私でも分かる簡単な方程式だ。

するり、と座席ごと、後ろから首元に腕が回された。恐ろしく太い腕だ。密林で人を食ったアナコンダの方がまだスリムだと言える。シートを越えて腕が回された。背後からの抱擁は安心感が強い。久しく触れていない異性から与えられる安心感だ。相手がこの男で、目の前で死体とクスリのやり取りを見ていなければ。

ヘッドライトの先では男たちがもみくちゃになって拳を交わしていた。初めて見る野球以外の乱闘だ。とことん現実味がない。

「気にならないかい?どうして男が死んだのか、クスリはどこにいくのか、この男たちは何をしているのか」

低い声が耳元に落とされる。同時に腕が体を這うように動き出した。案外蛇と例えたのは正しかったかもしれない。蛇は自分が呑み込めるサイズを測ることがあると聞いたことがある。男の動きはなんとなくそれを思い出させた。

直接脳に音を刻み込むように、男が耳に唇を寄せてくるのが分かった。ちろちろと舌を出しているような、私を丸呑みできないかと測っているような、そんな姿が脳裏にとぐろを巻いている。

「私の名前は夏油傑。君の名前は苗字名前。死んだ男の名前は……なんだっけ。まあいいか。とにかく登場人物は三人揃った」

登場人物。何を言っているんだ。これじゃあ、まるで小説じゃないか。ぞ、と背筋が震えるのを感じたのか夏油傑と名乗った男はくつくつと楽しそうに笑って耳朶を軽く噛んだ。ひ、と漏れそうになる声と反射的に跳ねる体を抑え込む。ハンドルに爪を立てたせいかギチ、と安い合皮が悲鳴を上げた。

「物語を書くには、それぞれ三人のバックグラウンドが必要だ。どうしてあの男は死んだのか、どうして私はこうして車に乗っているのか、どうして名前がここに来たのか」
「なんで、名前、知って……」
「原稿の打ち合わせは上手くいかなかったのかな」

視線だけを助手席に向ければ、原稿の入った封筒に赤い字でドでかく「リアリティが書けてりゃ小説ボツらねーよ!!」と書かれていた。加えて出版社のロゴ付きの封筒に書かれた私の本名とペンネーム。

文字を生業とする人間が書いたにしては気品の欠片もない、最低の文章だったことは理解している。むしゃくしゃしてやった。後悔はしていない。でもお願いだから最悪のシチュエーションで最悪なことを思い出させないで欲しい。

「小説に必要なのは読者を自分の世界に引き摺り込む、リアリティだ。――知りたくはないかい?リアリティを出す方法」

内緒の話だよ、と言わんばかりに低く潜められた声にぞくぞくと淡い快感が腰椎から脳を走り抜けた。確かに、リアリティは欲しい。それでも、この首を縦に振るわけにはいかなかった。頷けばより深い深淵を覗く羽目になる。それはリアリティの書けない私でも分かった。

首を振れば、残念と言わんばかりにまた声のトーンが落ちた。夏油傑の声のトーンが落ち切るのが先か、私の命が散るのが先か。地獄のチキチキレースだ。最悪に最低が上塗りされていく。良いのかい、と愉悦を孕んだ伺う声と共にはあ、と悩まし気な吐息が吹き込まれた。色気のバーゲンセールでもここまで大盤振る舞いではないはずだ。

「作家なら、知的好奇心には従うべきじゃないか?」
「好奇心は、猫をも、殺しますよ」

辛うじて出た声は情けないほどに震えていた。しょうがないだろう。こんなシチュエーションで平常心で居られる人間の方がどうかしている。いくら小説家とはいえそこまでネジはぶっ飛ばしていない。

リアリティに惹かれるところはなくはないが、リアリティ欲しさに反社と付き合うほどの覚悟もなければ意地もない。尻尾撒いて逃げ出す程度の人間だ。殺す価値もないと今すぐ言って欲しい。だが。

「いいや、猫は死なない」

それまで固まっていた夏油傑の腕が再び動き出した。左手は右の腰に、右手は左の首元にそれぞれひたりと添えられた。
蛇が獲物を締め付けるような、そんな動きだった。突然のことにごくり、と小さく喉が鳴った。それを見逃さなかったのか真綿でくるむような、夢見心地と錯覚する声で、夏油傑は言葉を続けた。

「私はね、名前。好きなものは―――さいごまで愛でる性質でね」

安心するといい、と耳に落とされた声は蕩けるように甘く掠れていた。顔の輪郭を確かめるように顔のラインに触れられて、そして喉を撫でられる。

吐息さえもが夜にのみ込まれた気がした。




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