ドント・ストップ・ザ・キミとワタシと

ぼんやりと黒い影が見えるようになったのはいつからだろうか。

病室のカーテンの隙間に、手術室の隅に、医局の柱の奥に、気付けば至るところにその影は佇んでいた。現実的な理論と科学の最先端である病院ではあっても、案外と非現実的な話は転がっているらしい。

誰もいない部屋から聞こえるナースコールや設定した記憶にない時刻になるアラーム。最初こそ驚きはしたものの、ベテランの看護師たちが普通の顔をしているのを見ると次第にそれは日常に溶け込んでいった。

だから、これもそんなうちのひとつだろ。そう思っていた。
病室で息を止めた小さな手を握りしめた最中、その闇が形を成していくまでは。手の冷たさが移ってくるほどに握りしめた手のその向こう、視界に入ったのはにたりと歪む卑下た笑みだった。

「―――欲しくない?何人をも救える、そんな力が」

そんな声に震える手が少しずつ伸びていくのを、俺は止められなかった。




「あっ、白布ぅ、ポン酒開けようよ、秋田の!この間買った純米大吟醸!」
「おい、人ん家の冷蔵庫物色すんな」

おなじみの有料動画配信サービスで独占配信されているという映画を選択して、再生ボタンを押して僅か3秒。再び時を止めた画面が黒いまま何かを訴えてくる。俺は悪くない。映画が始まった瞬間にソファを飛び出してキッチンに駆け込んだあいつが悪い。

冷蔵庫の扉から揺れる尻尾だけを覗かせて、上機嫌にがたがたと冷蔵庫の中を物色している姿を見る。もう何を言う気にもなれないほど見飽きた光景だが、あの尻尾だけはどうにも慣れない。

珍しく大した残業もなく定時に近い時間で上がれた金曜の夜。普通であれば華金だという声も医者である以上関係ない。急患が出れば呼び出しはくらうし、呼び出されたら対応するのが常である。

ただ、今日はタイミング的に良かった。受け持ちの患者の容体は比較的安定していたし、難しかった患者は先日退院していった。つまりは、久々に贅沢に過ごしてもバチは当たらない。そんな日のはずだった。この悪魔の姿をした名前が、良い戻り鰹が手に入った、と騒ぐまでは。

「やっぱ鰹と言ったらたたきよね〜。ということで、美味しい鰹には美味しい日本酒を合わせなきゃ失礼!」
「聞け」

結局冷やした純米大吟醸の一升瓶がドン、とテーブルに置かれた。どこかで手に入れたぐいのみに透明なそれを注ぎ込んでいく。
はっきり言って豪快な手酌だった。表面張力でなんとか零れないほどになみなみと注がれた日本酒を大事そうに啜った。行儀が悪い、と零した言葉は日本酒と共に吸い込まれていったらしく徒労に終わった。

「っく〜〜、悪魔的ッ!」
「悪魔のくせにどこで覚えて来たそんなの」

俺の言葉を無視して、悪魔的、と再び叫んだそいつは笑顔で鰹のたたきを頬張った。滴るポン酢ごと攫うように口の中へ消えて行ったと同時にもう一段階蕩ける笑顔。ぎゅう、と胃が拡張した気がした。

己は悪魔である。欲しいものを与えてやる。その代わりに、お前の魂を寄越せ。

そう言ってあの日、俺の視界に映っていた黒い影がそう囁いてきた。その後からしばらく俺に付きまとっていたこいつは、いつの間にか俺の家に上がり込んで、メシを作るようになって、そして気付けばこうして同じ皿をつつきあっている。
間違って野良猫を手懐けてしまったような、厄介な先輩を持ってしまったような、そんな気分だ。ずけずけと人のプライベートに入ってくんな、と言うはずが今ではこのザマだ。

「ちょっと、ねえ、そっち詰めてって、あと生姜忘れたから持って来て」
「うるさい、家主に逆らうな。そっちこそ詰めろ。自分で取って来い」

同じソファに腰掛けて日本酒と鰹のたたきに舌鼓を打っていた名前にそう言っても、こいつは動かない。詰めろ、という要望は全部無視して肘で押し返せば、名前が焦ったような声をあげた。

「あ、ちょ、零す!おちょこが!貴重な日本酒が零れる!」
「ソファに零したら殺す」
「医者が言うと洒落になんないな!?ちぇ、しょーがないなあ……」

ぶうぶう文句を言いながら名前がキッチンに向かって行った。その間に鰹のたたきに箸を伸ばす。
口に含んだ鰹のたたきは血生臭さを感じさせることなく、口の中に炙った香ばしさが弾ける。噛むほどに肉厚の身から溶け出してくる脂のうま味と、それを引き締めてくるポン酢のさっぱり感。

確かに、名前が自画自賛するだけあって美味い。というかこんな良い鰹あいつどこで手に入れたんだ。まさか自分で摂りに行ったわけじゃないだろうな、と少しだけ残された日本酒を啜ろうとして、手を伸ばした。

「ねえ、白布」
「なんだよ、生姜のチューブなら下にストックが――」

ちょっとぐらいいいだろ、と思ったのがバレたのか。あいつこういうところは食い意地、いや飲み意地が張っているからな、とキッチンに振り返りながら出した言葉が途切れた。
電気の消えた暗い廊下で、赤い瞳が爛々と燃えていた。ぞっとするほど綺麗な、背筋が粟立つ感覚に、言葉が上手く出てこない。


「まだ、魂くれないの?」


その一言で、名前は、違う、こいつは悪魔なんだと思い知らされる。
そもそも、名前は日本酒を飲んでこんなに騒がねえし、悪魔的なんてことも言わない。
名前よりも品がない。名前は大口開けて笑わない。知っている。そう、まだ覚えている。

「……誰がやるか、お前に」

名前を、妻を喪ってから、3年。それなりの時間が経った。
俺の前に現れた悪魔は、なんの因果か名前の姿をしていた。未だ忘れられない冷たさを湛えた小さな手を握った、あの日の姿のまま、中身を全て変えて俺の前に現れた。悪夢だ。いや、悪魔だから当然かもしれない。

でも、その姿を見て、その卑しい笑顔を見て、脳裏に過ったのは、俺を呼ぶ声だった。
俺の知る名前とは全然違うのに、無理矢理記憶の中の名前との共通点を見出だしていた。懐古主義じゃない。でも、捨てるにはあまりにも鮮やかで、惜しくて、そして重すぎた。

少しうざそうに髪をかき上げる所作。実家から送られて来た米を食べたときの笑顔。ふとした時の仕草にいちいち名前が重なって見えて、その度に喉まで出掛かる言葉を吐き出せずにまた腹の中に戻す。その繰り返しだ。

「え〜残念かよ〜。あ、あったあった。ちょっと、白布、再生ボタンまだ押さないでよ?絶対だからね」
「わかった」
「なんで押した?コントか?つーかそのギャグ分かりにくいからやめよ?ね?」

くだらないやりとりにさえ、名前との楽しかった日々を思い出す。きっとこう言うだろうな、と思った通りの答えが返ってきて思わず笑みが零れた。名前の形をした悪魔が笑みを返した。記憶の中の名前と同じ笑みだった。
もう、こいつが名前なのか、悪魔なのか分からなくなっている。

俺はいつか、この延長戦みたいな日を終わらせられるのだろうか。

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