ありふれた人生


『お世話になりました、今後もよろしくお願いします、社長』
『こちらこそ一緒に仕事が出来て楽しかったよ。どうだい?アルゼンチンに来る気はないかい?』
『ふふ、考えておきます』

そう言って握手を交わす。アルゼンチンで過ごす最後の朝は、日本の朝となんら変わりなく来た。朝陽が水平線から顔を出し、人々が緩やかに活動を始める。違うことと言えば、日本よりはややゆっくりだということだろうか。
かじったトーストはどことなくぼそぼそとしていて、飲み込むのに時間が掛かったけれど、その分日本にいる時よりもゆっくり朝食を取った気がする。

この数日間で慣れてしまった道を歩いてオフィスに出勤をして、会議に参加して、昼頃の便で帰国の途につくのが最終日である今日のスケジュールだった。ギリギリまで仕事をさせるあたり流石弊社……とも思ったが致し方ない。業務をこなしているうちにあっという間に時間が過ぎて行って、気付けば会社を出なければいけない時間になっていた。

ルーカスとも握手をして他愛もない話をして、この数日で仲良くなったメンバーに見送られながらオフィスを離れる。ルーカスはどこかに連絡をしていたようだったけど、なぜか最後は渋い顔をしていた。なんでだろうか。
それにしても、仕事も人もやりやすくて丁度いいところだった。もし今の会社が嫌になったら本気で考えよう。

空港には来た時と違って一人で向かうことになっている。とは言っても、社に呼んだタクシーに乗り込むだけだ。ぽすり、とタクシーの座席に頭を預けて肩の力を抜く。
車が幹線道路に乗るとこの数日間で見慣れた町が背中に流れて行く。不思議と名残惜しさはなかった。昨日の夜、子供のように柄にもなく泣いたからだろうか、むしろこのアルゼンチンに来た当初よりもすっきりしていた。割り切ってしまえば、大人という生き物は前を向いて生きていけるのだ。

空港に着くと発着ロビーは別れを惜しむ人と、出立の門出を祝う人が多く見られた。休日ほどではないけれどそれなりに人は多い。思ったよりもぎりぎりになってしまったし、チェックインは済ませたのでさっさと手荷物検査場を通過して免税店でも見ることにしよう。

免税といえば、と自分のスマホを出す。仲の良い友人に免税店で買って来てほしいと頼まれたものがあったんだっけ。シャネルの香水とマルボロ。細かい指定があったけど思い出せくて、確認がしようとメッセージアプリの画面を開く。一番上に表示されていた及川徹という文字に、どきり、と心臓が鳴った。

もう割り切ったのだから、きっとこのメッセージももういらない。数日前、感傷に浸って及川に届かないメッセージを送ったことが急に恥ずかしくなった。消そう、このトーク画面も、履歴も。何もかも。これで私は正真正銘、この気持ちをここに置いていける。よし、と意気込んで画面をタップする。飛び込んできた文字に、さっきまで静かだった私の心臓が大きく波打った。

「うそ……なんで、既読、ついて……」

送ったメッセージには既読の文字が付いていた。なんで、という言葉で頭の中が埋め尽くされる。なんで、どうして。だって、もう手元にはないって、そう言っていたのに。じゃあ、誰が。このメッセージを見たというのだろうか。
画面に釘付けになったまま、騒がしいロビーで棒立ちになっていた私の元へ聞きなれたイントネーションが聞こえた。日本語、なんで、この声。

「いた!―――なまえ!!」

嘘、だと。誰かそう言ってくれ。

「おい、かわ……なんでここに」

目の前で軽く息を乱す姿はこの数日で嫌というほど、私の心を翻弄した及川徹その人だった。何をしに来たんだろう、練習は、どうしてこんなタイミングで。どうして、そんな、顔をするんだろうか。わからないことだらけだ。
事態を呑み込めない私をよそに、目の前まで来た及川は神妙な面持ちで私を見てきた。その視線から逃れられなくて、思わず手に籠る力が強くなった。

「……あの時、言えなかったこと、言いに来た」
「あの時?」
「卒業式、教室で会ったときのこと、覚えてる?」

心臓を一突きされたような気がした。この数日間、私と及川が絶対に触れなかった話題。なかったことにされていたのだと思った。そうであってほしいと願っていた。

「……わ、すれた」
「俺は覚えてる。あの時のこと、全部覚えてるよ。―――あの時、本当はなまえが待ってたのも」

どくり、と心臓が音を立てた。誤魔化して逃げたかったのに、及川の視線が私を捉えて離さない。だめだ、この目を見てはだめだ。もう全部置いていくと決めたのだから、こんな最後の最後で過去にした思い出を上書きするなんて許さない。やめて、やめて。やめてよ、及川。

「ださい俺でごめん。でも、同じ思いを持ってるのに、離れ離れになって、俺の知らないところでなまえが大人になっていくとこなんて、見たくなかった」

なんて我侭な人なんだろうか。馬鹿じゃないの。なんで今更。
呆れて何も言えなくなった私を射抜くようなまっすぐな及川の視線に、逃げられなくて自分の服の裾を掴む。思わず俯いた。

「なまえにいかないで、って。もし泣かれたらって思ったら怖くなった。置いていくことしかできないから。俺のせいで泣くなまえを見るのが嫌だった。だから、ぜんぶ置いていこうって、勝手に決めた」

鼻の奥がツンとした。そんなの、そんなの分かってた。私が及川にとって重荷にしかならないことも、いつか及川に置いて行かれることも、全部分かっていた。最低なのは私だ。自分が傷つくのが嫌で、掴めば届いたかもしれないそれに手を伸ばさなかった。何か言えば、未来は変わっていたかもしれないのに。

「自分のことばっかで、最低だった。本当、ごめん」

自分のことばかりだったのは私だ。
見えない将来への不安とくだらない自尊心の狭間で揺れる自分の気持ちを持ったまま、時間が過ぎてくれるのを祈っただけの臆病者に過ぎないのだ。そんな心を誤魔化して、美しい思い出と名付けた標本を眺めて満足するような、大人という生き物でありたいと願った私が悪いのだ。

「もう一度、俺にチャンスをちょうだい」

罪悪感と惨めさで押しつぶされそうな私の手を、及川がやさしく握った。それまでつま先を見ていた視線を上げる。そこには、さっきまでとは違う表情をした及川がいた。
真剣な、バレーボールを追っているかのような、そんな熱を持った目。思わずはっと息を呑めば、私の周りから音が消えたようだった。及川の視線と声だけが、今の私のすべてを作っていた。

「好きだ、なまえ。やっぱり、忘れるなんて出来なかった。もう勝手に諦めたりしない。時差があっても、季節が逆転しても、どこにいてもなまえのこと、ずっと愛し続ける」

真剣な視線に何も言えなくなって呆然と立ち尽くす。ああ、これだからこの男は。どうにも、かなわない。真っ直ぐすぎる。バレーにも、自分の気持ちにもどうしてそんなに一途でいられるんだろうか。そんな想いをぶつけられたら、私のちっぽけな自尊心などあってないようなものだ。

「だから、俺の恋人に―――」
「チキるな〜〜〜トオル〜〜〜!」
「男見せろスメシ〜〜〜!」
「はっ!?ちょ、なんでいるわけ!?」

背の高い数人がどこから野次を飛ばしてきた。しどろもどろになる及川に思わず笑う。ふふ、と零れた笑みはもう止めようがなかった。

「それで?私とどうなりたいの?」
「〜〜〜〜っ、おれと!ケッコン!してください!!」

空港に響き渡るような大きい声で、日本語が響いた。周りが何事かと見てくるなか、日本語を理解できた人だけがこちらを興味深そうに見ていた。赤い顔をして、焦ったように見てくる及川が学生時代の表情と被った。ああ、なんだ。結局、大人になんて、私も及川も成れていないんだ。そう思ったらなんだか今まで拘っていた自分がバカみたいに映った。

「あははは!相変わらず、やっぱり及川は及川だ!」
「なっ、なんで笑うの!俺は本」

そう言って逞しい体へ飛び込んだ。その逞しい首に腕を回せば、至近距離に大きな目を丸くした及川が映る。してやったり、と笑ってその唇を奪ってやる。触れるだけの、勢いのついた、到底優しくも美しくもないそれ。

「これ、あの時と同じ意味じゃないの、わかる?」

そう囁けば、大きく見開かれた、色素の薄い瞳の視線がかち合った。ずっと昔に、手に入れたくてたまらなかった色。熱。分け合う鼓動。あの頃と同じで、少しだけ違う。心臓にじんわり滲んでいく。

「ここで一番になったら、ちゃんと迎えに来てね」

そう笑うと途端に降ってきた柔らかい熱。あの時と違って消えることはないのだと確信できるくらい、飽和した感情と一縷の欲望を孕んだ唇だった。あの時と同じなようで、全く違うものだった。
ヒュー、という歓声と拍手を背に、私は一層その体を強く抱きしめた。もう離さないでね、とその意味も込めて。




満面の笑みでゲート越しに手を振る及川は、制服をきていたあの頃よりも大人の体をしていた。それなのに、笑顔だけは変わりなくてどうしようもなく愛しさがこみ上がってくる。
数年越しの思いが通じて数分後にはもうお別れだなんて、どこのロミジュリだと内心で笑う。

でも、私も及川ももう子供じゃない。きちんと自分の足で立っている大人だ。離れ離れになっていても自分と同じ想いを抱えていると知っているから。だからきっと大丈夫。
あの頃の私が思っていた理想の大人なんていなかった。理想という皮を被って、大人はずるくて、情けなくて、意地っ張りだ。

自分が大人になって分かったこと。

給料は思ったより少ない。税金は意外と高い。友達は意外と出来ない。お手本になる上司はあまりいない。

すぐ諦めようとする。やろうと思えば出来ることは多い。人はそんなに変わらない。


世界は、遠いようで案外近い。


『当機はまもなく着陸態勢に入ります。座席に―――』

機内のアナウンスが流れてからはあっという間だった。無事に着陸した飛行機から降りて、荷物を取りに検査場へ向かう。ふと横を見れば、動く歩道の脇を占める、入国歓迎の大きな広告。
その中に及川のライバルたちを見つけて思わず舌を出した。そんな調子のいい自分がなんだかおかしくて、思わず小さな笑みをこぼした。

数時間ぶりの電波を入れて友人に連絡を取る。早速お土産を渡したいから会えないか、そう言えば彼女も二つ返事で夜に会うことになった。
いつもの居酒屋に集合してお土産を手渡す。要望通り、シャネルの香水とマルボロだ。喜ぶ友人の顔を見て私も勢いよくビールジョッキを空にした。その様子を見ていた友人が、恐る恐る声を掛けてきた。

「なまえ、出張で向こう行ったんだよね?」
「? そうだけど」

なんで?と聞けば勘違いだったらごめん、と前置きをして友人は続けた。

「いや、なんかすっきりしたっていうか、吹っ切れた顔してるし、それにすごく嬉しそうだから。よほどいい仕事ができたのか、良いお土産が手に入ったのかなって」
「―――そうだね、ふふ、確かに。いいお土産が手に入ったよ」
「え、なになに!?見せてよ!」
「やだよ、それに物じゃないから」


お土産は昔に置いてきたと思った恋心。
もちろん、そんなこと言える訳がないけど。





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