スターゲイザー


「私、ですか……」
「そう、よろしくね。後から出張手配のメールが来ると思うから、確認しておいて」

1週間の海外出張を仰せつかった。

うちの製品の部品工場があるという南米に。内心でマジかよ、と月曜朝一から私を呼び出した課長を恨んだ。

人選なんて聞かなくてもわかる。大学の頃に留学していた経験があるだろう、というただそれだけ。現地にも日本語くらい話せる人いるから大丈夫なのでは?と思ったし、行く先はスペイン語圏で下手すれば観光地以外では英語も通じないと言うのに。

そう思いながらも後で経理からメール来るからよろしく、と言われてしまえばもう退路はない。面倒な仕事を抱えてしまった、と思いながら心無い承知しました、というお決まりのフレーズを伝えて席に着く。

すぐに自分のPCのスクリーンセーバーを解除して検索を掛けた。国旗、人口、国土面積、言語、主な産業。ネット上の先生が教えてくれるのは統計的なことばかりだったけど、思わずスポーツ、と書かれた項目で手が止まった。そういえば。

「アルゼンチン、かあ」

まだいるのかは分からないけど、アルゼンチンといえばもう彼のイメージしかない。学内で人気者の彼が県内でも、都内でも、ましてや大学という選択肢すら選ばず、外国で武者修行、と聞いたときには衝撃だった。

でも、まあ彼ならたぶんどこでも生きていけるだろう。基本的に人を良く見て、自分を上手く溶け込ませるのが得意だから。現地に染まってサングラスとかしてマラカス振ってたりして。ひげとか生えていたら多分笑う自信ある。でも似合いそうだな、なんて色んな想像が膨らんだ。

ただ、会いたいとは不思議と思わなかった。

「みょうじさん、今日時間ありますか?資料チェックしてもらいたくて」
「2時から会議だけどそれ以外なら大丈夫、なんの資料?」
「明日の会議なんですけど―――」

スマホの画面を消す。しがないサラリーマンはせめてポーズだけでも真面目にしなくてはならない。なんとも世知辛いな、と内心でため息をついた。


▼△▼


「ねえ、みょうじはさ、キスしたことある?」

誰もいない教室。黒板に書かれた日直欄の空白が、明日からその役割を誰もが負わないことを告げている。
さっきまで涙と別れでしっとりとしていた教室の空気は今はもう乾いていて、その空気とは対照的な及川の雰囲気に私はのまれていた。

なんでそんなことを聞いてくるのかわからないけど、及川の視線からは逃れられそうになかった。まっすぐに私を見てくる及川はいつもとは違っていて、今にも消えてしまいそうな笑みを浮かべている。
どくん、と心臓が音を立てる。気づけば、心音を誤魔化すみたいに言葉を落としていた。

「……ない、けど」
「してみない?キス」

愉悦を含んでいるくせに真剣で、嘆願するような声だった。なんで及川がそんなこと言うのか理解が出来なかった。
恋人同士でもなんでもないのに。私なんかよりも、きっと及川とそうしたい人間はごまんといるだろうに、どうして私なんだろうか。

でも、私にも、砂一握りほどの興味があった。友達のいう甘酸っぱいだとか、いわゆるレモンの味だとか、そんな迷信を話半分で信じているような。
男を知らない私にとって、及川の誘いは禁断の扉のその先へ誘うような甘美な響きを持っていた。

「す、る」

自分の唇からこぼれた言葉が信じられなかった。私は、なにを。
は、と気づけば目の前に及川がいた。伸びてくる手を拒む間もなく指が絡められた。
太くて、節くれだっていて、女の私なんかよりもずっと綺麗な顔をしているのに、根本的に私のそれとは全然違う。

想像していたよりもずっと男という性を感じて、背筋がぞくぞくした。言われるままに目を閉じれば、心臓の音だけが世界を支配する。

聞こえたらどうしよう、と思った途端。唇に何かが触れた。何か、だなんて曖昧なものじゃない。及川の、くちびる、だ。柔らかくて、あつくて、なんだか融けてしまいそうだ。

僅かな水音をたてて、熱が消えていく。
一瞬だったような、数秒だったような。時間の境界線さえ曖昧になってしまった。なんで、こんな。

わからない。世の中の人たちはこんなにも優しく、溶けそうな時間と熱を共有するのだろうか。それを、どうして私が。でも、及川の瞳には確かに熱が籠っていて。その視線に焼かれてしまうような気がした。

なにか、言わなければ。この熱くて、身を焦がしてしまいそうな視線から逃げれるなら、なんだって。

「これ、なんの、」

聞かなければよかった、聞くべきではなかった。
魔法というにはあまりに拙く、夢というには熱すぎるその視線から、目を離してならなかった。

「さよなら、の、かな」

もう及川の瞳に熱は残っていなかった。



▼△▼



ふと意識が浮上した。ポーン、という少しだけ間抜けな音がして、その音の大きさに眉間に皺が寄った。寝起きにはキツイ音の大きさだ。

『当機は間もなく着陸態勢に入ります。座席について―――』

英語とスペイン語で話される音声にならって、カチャ、とシートベルトを付ける。ビジネス目的で取った座席は窓際なんか取れるわけもなく、本当は避けたかった真ん中の席。
しんどい長時間のフライトがようやく終わるのか、と息をついた。それまで映画を映し出していた画面が真っ暗になって急に手持ち無沙汰になる。

電波の入らないスマホを見返して、そういえば、といまだぼうっとする頭で画面を見つめる。表示されていたのはメッセージアプリのトーク画面だった。

目的の街にいるかどうかもわからないけど、せっかくなら地元民にタブーな料理を聞いておこうと思った。アルゼンチンの料理は私には外れが多そうでちょっと怖い。

高校の頃のグループラインに残っていたアカウントに連絡をきまぐれに入れてみた。何年ぶりだろうか。出発のテンションとは恐ろしい。あの夢の後ならなおさらだ。このメッセージを送る前にあの夢を見ていたら絶対に送らなかったのに。

学生時代、周りの女子よりは仲が良かった気はしていたけど、高校を卒業すればもうぱったりと連絡は取らなくなった。

時差も、距離もある。彼も馴染むのに必死なんだろう。
邪魔しちゃいけない。なんとなく大学に行った私と違って、彼は明確な夢を叶えるために進んだのだから。そう思っているうちに連絡する機会はなくなって、今に至る。なんだか失敗したな、と思った。

wifiが繋がっても既読はつかなかった。





飛行機を降りると現地のコーディネーターが迎えてくれて、車に乗り込んで早速工場へ向かう。意外と真面目だな、と思うのは偏見だろうか。

車の中でビジネスの話を早々に切り上げて、それより聞いてくれるかい? と自分の妻子の話をし始めたときには思わず笑ってしまった。想像通りだ。

ルーカスと名乗った彼と話をしていると、趣味や好きな食べ物の話になった。私も趣味の話をする。俺もいいかい、とルーカスは意気揚々と語り始めた。

「へえ、じゃあルーカスの趣味ってスポーツ観戦なんだ」
「そうなんだよ、サッカーはこの国の人にとってはアイデンティティみたいなものだしね。ラグビーだって世界屈指だ」

誇らしげにそう言うルーカスは鼻息荒く、それでねと色んなスポーツの話を続けた。聞いてもいないのに沢山喋る、これがラテンと言うべきか、南米のパワフルさだな、と舌を巻いた。

「特に僕はバレーボールが好きなんだよ。こう見えて、学生時代やりこんだから結構うまいんだぜ」
「そう、なんだ。いいね」
「興味ない?」

余りに私の返事が適当だったのだろうか。気遣うように彼が声を掛けてきた。これから先1週間ずっと一緒なんだ。変な空気にしたくない、と思って空港で見た大きなパネルを思い出した。
地元のチームと対戦相手の全員が張り出されたその写真。試合の予定日。思わずその前で足を止めてしまった。

「ああ、いや。空港で見たよ。……強いんだね、地元のチーム」
「そう!そうなんだよ!今まさしくリーグも佳境でさ、各チームが最終対戦中なんだけど、ライバルチームが強いんだ。特にセッターが。日本人なんだけど彼は本当にすごいよ、繊細だし、勝負ごとにも強くて、あんなトス打ってみたいって思うよ」

まるでヒーローに憧れる子供のように、ルーカスは語ってきた。目をきらきらさせるのはいいんだけど、前、あの、信号ちゃんと見てね。
そんな私の心配など知らない、というかのように今度はジェスチャーを混ぜて説明してきた。ヒートアップしている。反対に、私の心はどんどん冷えていく。

「ホント、すげえ奴だよ。なんで日本人は知らないのかな。あんな才能に溢れる天才的なプレイヤーなのにさ。その割に日本自体はそんなに強くないし。ほんとどうなってんのかな」

ルーカスはいちファンなんだろう。熱狂的とは言えないけど、興味がないわけでもない。どこにもいるただ普通のバレーが好きな、スポーツ観戦が趣味の人間。そんな人間ですら知っている存在。あのパネルに映った彼は、もう私の知らない彼だった。

「アルゼンチンに来て正解だったよ、トオル・オイカワは!」

本当、遠いところに来てしまったなあ、と思った。





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