いつでも有休が使えるとは限らない



いわゆる絶不調だ。
頭は靄が掛かったようにどこかぼんやりするし、体の奥には倦怠感が居座っている。俺はこの現象を知っている。これは風邪だ。

まずいな、と思ってももう遅い。一度自覚すれば急に体が重く感じた。俺だけ重力が倍になっている気がする。

それなのに、今日に限ってスケジュールはカツカツで夜までの長丁場。どうにかして回復させてえな、と考えた頭が風邪薬とエナジードリンクを両方キメる、という結論を叩き出した。

イヤイヤさすがにマズいだろ、と即座に自分に突っ込む。そんな選択肢が出てくる時点でかなりヤバい。相当キてんな、俺。不調を再認識したが、どうにもならない。

授業、進路相談、教員会議、ラジオの収録。どの仕事も急すぎて代役を立てることは難しい。
そう、世の中には悲しいかな、風邪でも休めないアナタへ、というフレーズのぴったり人間が存在するのだ。俺のように。

社会人は余計なしがらみに囚われているなァ、とつくづく思う。HAAAA、と項垂れていたら案の定目ざとい奴に見つかった。

「おいマイク、調子悪いならさっさと帰れ」
「わりーな、イレイザー。今日の会議はどうしてもぬけらんねーし生放送もあんのよ」
「……ヤバくなったら帰れよ」

イレイザーがそう残して職員室を出た。イレイザーの言う通り、調子が悪くなって帰れることが出来ればいいが、生憎今日の俺には適応されない。なんでよりにもよってこのタイミングなんだか、と頭を押さえる。
なんだか頭痛までしてきた気がした。

社会人なら自分の体調ぐらい万全にしろ、と言われること必至だが掛かっちまったモンはしょうがねえ。ずる、と垂れてきた水分を再び鼻の奥に押し込める。
1日の始まりを告げるチャイムに追い立てられるように廊下に出れば、いつもは感じない寒さを感じた。

「Ah−……だっりィ……」

ぽつりと零した言葉は寂しく廊下に落ちて消えた。




「おーっし、今日の授業はここまでだ!来週は小テストやっから今日出た文法はperfectにしとけよ!」
『はーい』

やや間延びした答えにまだまだ1年生だな、と思いつつ授業で使った資料を片していく。午前中は1-Aの授業が最後だ。これが終われば少しだけ落ち着く。メシ食ったら風邪薬を飲もうと誓ったものの、どこにやったか思い出せねえ。鈍い思考回路で記憶の中の机を漁ってもすぐには見つからなかった。

そんな考え事をしていたからだろうか、階段から足を踏み外した。がくん、と体が落ちると同時にいやいやいや、俺これでも現役のプロヒーローだぜ?いくらなんでも気抜きすぎだろ、と思って来る衝撃に受け身を取ろうとしたら、急に体が宙に浮かぶ感覚に包まれた。

おいおいなんだこりゃ、と思っていたら後ろから肩を掴まれる。すとん、と何事もなく地面におりて振り返るとそこにはみょうじがいた。

どうやら俺は間一髪でみょうじの重力操作に助けられたらしい。コイツほんと個性コントロール抜き出てんだよなあ、と回らない頭がそんなことを考え始めて、慌てて軌道修正する。

やっべえな、生徒にかっこ悪いとこ見られちまった、と内心で焦っていたらみょうじが俺の荷物をひょいと抱えた。

「マイク先生、手伝いますね。これ職員室でいいですか?」
「オイオイ、重いだろソレ、いいから返しなさいよ」
「個性使ってるんで実質重力ゼロですよ、はいはい行きましょ」

そう言ってみょうじは俺が止める間もなくサクサク歩き出した。えええ俺の教師としてもメンツ丸つぶれじゃねえの。

結局、みょうじは俺から奪った資料を返す気配を全く見せず、職員室まで資料を持ってくれた。普段こういうこと頼むとめんどくさそうな顔する癖に、今日はやけに優しいな。そう思って職員室前でみょうじの手から資料を奪い取る。みょうじも特に抵抗はしなかった。

「わりーな、みょうじ、もう大丈夫だぜ!」
「そうです?じゃあ返しますね」
「おうThanks!……ゴホッ」

やべえ、と思っても遅い。突然せりあがってきた咳を止められなくて思わず口から漏れた。いよいよマスクしねえとダメかもな、と咳払いをする。
生徒に風邪移すわけにいかねえし、マスクは確か引き出しに入れてるはず。相変わらず風邪薬はどこ行ったかわかんねえけど。

資料を受け取ったみょうじが俺の顔をじっと見たと思ったら、俺のポッケに何かを突っ込んだ。しかも早業過ぎて全然見えなかった。え、なに、こえーんだけどみょうじ何入れたんだよ!

「お節介かもしれませんけど、風邪薬どうぞ。市販の薬で大丈夫ですか?合わないとありません?」
「みょうじ……お前、なんで」
「今日どことなくしんどそうだったんで、もしかしたらと思ったんですけど……当たりでしたね」

そう微かに笑ったみょうじに何も言えなくなった。まさか生徒に気付かれているなんて思わなかった俺は、完全に不意打ちを食らって変な顔をしているはずだ。

「マイク先生にしかできない仕事だから大変でしょうけど、終わったらちゃんと休んでください」
「……なんで、」
「マイク先生みたいなちゃんとした人が体調悪くても出てくるの、休めない仕事があるからじゃないんですか?」

何か違いますか?とでも言いたげなみょうじに黙るしかなかった。ますます変な顔になっている自信がある。なんなの、お前社会人の哀しい事情詳しすぎない?と思っていたら、廊下の端からみょうじを呼ぶ声がした。

「なまえー!購買いかないー?」
「あ、いくいく!じゃあ、マイク先生お大事に」

そう言って嵐のように俺の前から去って行ったみょうじを見送っていると、中から誰かが出てきた。

「あれ、先輩。どうされたんです?顔赤いですよ?」
「……shut up、13号」





やっと放課後になった。
みょうじがくれた風邪薬のお陰でマトモに動くようになった頭と体だったが、とうとうエネルギー切れらしい。残すは夕方からのラジオ番組スタッフとの打ち合わせと本番だけだ。頑張れ、俺。

本当に長い1日だった、と進路指導室から職員室に戻る途中で、きゃいきゃいと女子特有の高い声が前を歩いているのを見かけた。声の主は1-Aの女子たちだ。

ジャージと手に持つ演習場の鍵でなんとなく察した。
そういえば借用願出てたな、と廊下を歩く生徒たちを見送る。その中にみょうじの姿を見つけて思わず心臓が鳴った。

そういや、ちゃんとお礼言ってねえなあ。そう思いつつ引き留めるのも悪い気がして、その集団を見送る。ふと、俺の前を歩いていたみょうじが振り返った。にこ、と笑われて職員室を指差した後、みょうじは廊下を曲がっていった。

なんのハンドサインだろうか、と首を傾げながら自席に戻る。その意味を理解して、思わず笑いが漏れた。

机の上に置かれた、購買で買っただろういくつもの商品。
のど飴やポケットティッシュ、ポカリ、栄養ドリンクといった風邪の必需品たちに思わず心が打たれた。よく見れば商品のパッケージに油性マジックで何かが書かれている。

『お疲れさまでした。今日のラジオ、楽しみにしてます  みょうじ』

思わずじんわりと目尻に涙が浮かんだ。オイオイ、チョロすぎるだろ、俺。
風邪を引くと心まで弱くなるとは誰が言ったんだか。みょうじからの気遣いと言葉の端に感じる優しさに心の柔らかいところが波打った。

サングラスを掛けていて良かった、と感謝したのは今日が初めてかもしれない。

中に入っていたポカリを開けて飲む。程よい甘味と塩気が喉を潤して、体に沁み込んでいくのが分かる。

さあて、もうひとがんばりすっか。




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