推しは万病に効く

稲高吹部はそれなりに有名なので、東京のコンサートとかにお呼ばれすることはままある。そんなこんなで、東京での演奏初日を終えてホテルに向かっていたとき、事件は爆誕したのだ。

久々の東京は人が多くて荷物を持っていると移動するのも一苦労になってしまう。
楽器はトラックで運んでもらったけど、自分たちの荷物は持っていかないといけないから、電車での移動はそれなりに大変だ。アイドルだった頃は基本的に車で移動だったこともあって、実は新鮮で楽しいと思っていたりする。不満を零す皆には内緒だけど。

「あ、落としましたよ!」
「え、ああ、すいません」

きょろきょろとホームで行きかう人を見ていたら目の前にぱたり、とパスケースが落ちた。今通り過ぎた人のやつかな。
これ無いとめっちゃ困るやつ!とその人を呼び止めてパスケースを渡すと、同時に後ろでぷしゅー、という音が聞こえた。

「あっ……」

しまった、取り残された。
ガーン、と閉まったドアの向こうを見ればこっちを指さして爆笑するみんながいた。ねえ!ちょっと!笑いすぎなんだけど!と思っても電車の中に声が届くわけもなく。

皆を乗せた電車はホームから滑り出してあっという間に消えていった。少しするとスマホが震えて、先にホテルに行ってるという文字。宿泊先検索しててよかった、と次の電車を待つことにした。

程なくして滑り込んできた電車を見れば、ちょうど帰宅ラッシュの時間ってこともあって電車は満員だった。うっ……!こんなに混んでるなんて……正直予想外。関西の電車はここまで混んでないからなあ、と一番最後に乗る。

侑と治からはなるべく扉の近くにいるように、ってしつこく言われてるせいでつい癖で乗ってしまう。私も痴漢には本当に嫌な思いをさせられたので、自衛するしかない。

何駅か乗っていたら、一気に人が降りてまた大勢の人が乗ってきた。最悪だ……。本当に押し潰されるんじゃないかってくらいぎゅうぎゅうと扉に詰められる。

やばい、中身出る、やばい。なんでこんな混んでるの?世のサラリーマンすごくない?毎朝これなんでしょ?ほんとお疲れさまです。うぅ、でもアルコールのにおいする。換気してくれないかな、変に暑いし、……なんか、具合悪くなってきたかも。

自覚したタイミングで目の前の人がもぞ、と動いた。あ、ちょっと今動かないでください、と思ったら少しだけ熱が離れた。少しだけ息がしやすくなる。え、もしかして具合悪そうなの気付いてくれたのかな。
そう思って足元だけを見ていた視線を少しだけあげる。あれ、この人凄い身長高……え。

この、赤いジャー、ジ……、ア〜〜〜ッ!!!

「ぅお、っと、すんませ……ア」

ウワ〜〜〜〜〜!!
くっくっくろくろ、黒尾鉄朗〜〜〜!?!?

まってまってまって、ねえ目の前に黒尾鉄朗いるのなんで!?ねえなんで!?あっ、あーー!!このジャージ音駒!!音駒の!赤いジャー!!うわうわうっそホンモノダ〜〜〜!!

「エト、アノ……」
「ウワ、マッテ、」

お互い片言になる。そうだよね!!こんな満員電車だったら苦しくて片言にもなるよね!!

いやどうしようマジでそのお顔しかと拝見したい。あの胡散臭い笑みと目が見たい〜〜〜!!いくらなんですか!?拝観料いくら払えばご尊顔を拝見できますか!?!?

しまった〜〜〜!!一瞬顔見て俯いちゃった〜〜〜!なんで見なかった私!!もっと!網膜に焼き付けてよ!でもごめん無理!だって近すぎる!!この至近距離!殺す気ですか!?

どうしよう見たいけど黒尾鉄朗に見下ろされてる事実だけでこんなに顔がにやけるのに!顔を上げられる訳がない!!ふにゃふにゃの顔を推しに見せるわけには!いかない!

「あの、大丈夫です……?」

うわああああ!!優しさの塊〜〜〜!!はあああ〜〜〜こんなモブに声かけてくれるなんてほんとなんて優しい……すき……。……あれ……?なんか具合悪いのどっか行っちゃった?

エッ??なんか、気持ち悪いの治ってる!!何で?なんで!?はっ!もしや、……黒尾鉄朗のおかげでした……?
え??黒尾鉄朗実はお薬成分配合なんです??黒尾鉄朗の半分は優しさでできてるのでは??黒尾鉄朗、ありがとう、いい薬です。

やっぱり!!推しは健康にいい!!!




下を向けば見える旋毛。何回も見た。目に焼き付けた。俺は知っている。この可愛らしい旋毛の持ち主が、俺の推しであることを。

部活帰り。人身事故で迂回させられた路線。案の定同じような通勤客で混んでいて電車はすし詰め。毎回車内を掻き回すような人の乗り降りがあって、気付けば反対側の扉に押しやられた。

だりいな、とため息を零して目の前を見たらなんだか具合悪そうに俯く女子がいた。車内は熱いし苦しいだろうし、大丈夫かな、と思って少しだけ体を離してやる。ほっとなでおろされた肩に予想が当たってこっちもほっとした。大丈夫か、としばらく見守ってたら急にその子が顔を上げて、ばっちりと目が合う。

は??

はあ??

ハァアアアン!?!?

待て待て待て、なあおい嘘だろ??なんでこんなとこいんだよっていうかなんで??どうして??

なんで?みょうじなまえ??

アプリゲームの推しがなんでここにいんだ??真性のセンター、声量オバケ、落ちサビのなまえがどうしてここに??満員電車で俺の頭バグったか??いつの間に異世界転生したんだ??
いくら天井を仰いでもやっぱりそこには蛍光灯しかない。なまえが、なまえちゃんがいる。もっかい、と視線を下げれば残念ながら旋毛しか見えない。いやでも絶対なまえちゃんだった。

―――は??つか、かっっっっわいくね!?は〜〜〜!?こんな顔ちっちぇの!?おかしくね?マジで俺と同じ人体構造してんの??なんかもはや好き尊い天使を通り越して腹立ってきた。はい好きです。

え??これは声掛けていいやつでは?大丈夫?って声掛けても許されるんじゃね??そうだ、それに今の俺には合法的に推しに話しかける理由がある。これは、行ける!確かめろ、この麗しの美少女が本当にみょうじなまえかどうかを!!

そんな決意を固めた瞬間、ガタリ、と音を立てて電車が揺れた。やべえ!!意地で目の前の扉に手を着く。推しを潰すわけにはいかねえだろ!!
目の前にあるのはもちろん電車の扉。そして俺の前にはなまえちゃん。つまり俺が扉に手を着くと何が起こるかというと――!

「うお……っ!?!?」
「ヒエ……」

はい!!図らずの壁ドーーーーーン!!!!

俺は何を!?おこがましくねえか!?推しに壁ドン!?ありがとうございます!満員電車だし?不可抗力ってやつだろ。ウン、しょうがねーよ。推しと密着するのもしょうがねえよ。

目の前で小さくなるなまえちゃんを見る。ああ〜〜〜顔見てえ〜〜〜!でも今こんなだらしねえ顔見られたくねえ〜〜〜。見たい。見たい、すげえ見たい!!

その瞬間、プシュー、と音を立てて扉が開いた。しかもなまえちゃんが凭れていた扉の方だ。バランスを崩しそうになったなまえちゃんを慌てて支えて、一緒に電車を降りる。どどど、と人が降りていくのを、脇に逸れた俺はしばらく放心状態で見ていた。

よかった、あぶねえ。あのままだったら俺の心臓はあと3秒で爆発していた。恐ろしい子だ、なまえちゃん……。そう思っていたら下から視線を感じた。やべえ、推し、推しが、俺を見ている。目を合わせたら俺の心臓爆発しないだろうか。顔を下に向ける。まあ推し、可愛いから目に焼き付けんだけどな??

「あ、あの……ありがとうございました……、気付いてくれてましたよね、満員電車慣れてなくて……!」
「いや、全然!全然ダイジョブっすから!!」

やべえ俺キョドり方半端ねえ。脳内のリエーフが、何やってんすか黒尾さん、って言うのが聞こえて、腹が立ったのでそのままプロレス技をかけておいた。平常心平常心。
なまえちゃんは俺を見上げると、きょとんとさせていた大きな目をきゅ、と細めた。アッアッア〜〜〜まってまってそれは駄目!!その笑顔は駄目!!心臓持たねえからホント!マジで待っ

「へへ、優しいなあ」

もう全部夢でいい。





「研磨!!!昨日みょうじなまえ見たんだけど!!」
「は……?なに、クロ……とうとう現実と見分けつかなくなったの………」
「ちょっ、ちが、ちげーんだって!マジで!いたんだって!その目やめて!」




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