新しい夜に缶チューハイは不要

注文の内容が氷たっぷりのコーラから温かいコーンポタージュに変わっても、競馬場には相変わらず多くの人がいた。雑多で、白と黒が混じっているここは、やっぱり私にとって息がしやすかった。

「へえ、おやっさんって刑事だったんだ」
「おお、通称マル暴さな。カタギじゃねえ人間なんざこれでもかって見てきたぜ。……だからなあ、名前ちゃん」

競馬場で知り合った、年を重ねた男はそう言って競馬新聞の誌面から視線をあげた。それまでへらへらと笑っていた、人の良さそうな笑みが急に消えて鋭い目が私を射抜いた。

「あの男にゃ近づきすぎねえ方がいい」

あの男。誰とは言われなかったけど、私の中では思い浮かぶのは一人しかいなかった。孤高な黒豹のような、しなやかな自由を持っているのに何かに縛られていて、他とは違う仄暗い輝きを持つひと。

「俺ァ色んな奴を見てきたけどな……あいつは飛び抜けてやべえ。間違いなくあっち側の人間だ。相当深いところにいる、な」

そんなの分かっている。私だって色んな人間を見て来た。本当に近づいてはいけない人間は、そういう色をしている。深淵のさらに奥まで濁らせるような色だ。
でも、あの人は。少しだけ違うように見えた。どっぷりと諦めの沼に浸かっているのに、どこかで何かを求めているように藻掻いている。それが私には。羨ましくて、美しく、誰よりも人間に思えた。

「あんまり深入りし過ぎると、火傷どころじゃ済まされねえぜ」

どうなっても本望なんて思わない。もしそういうことに巻き込まれるなら、私は惨めに命乞いをすると思う。それでも、勝手な同族意識を消そうとは思わなかった。あの人は、私の。




「っしゃあ!」
「くそ……なんなんだよてめえ……!なんでそんな勝てんだよ……!」
「さあ?あーあ、敗北の味が知りたいな〜」

吐く息がユキノビジンの名前ように白くなった頃。私と甚爾くんは未だ競馬場にいた。あの日以降もう会うことはないのかと思いきや、翌日も甚爾くんに会って、そのまま今日まで来ている。
私も甚爾くんもあの日のことには触れていない。触れるだけ無駄だと思った。私たちにはそういう傷の舐め合いは不釣り合いだ。

「まあそんなわけで。はい、当たり馬券プリーズ〜」
「っち!」

盛大な舌打ちと共に甚爾くんが私の手に思い切り束になった馬券を乗せて来た。今日の甚爾くんの当たり馬券全部だ。
甚爾くんとしていた、アタリの総額で勝った方が全部貰えるという勝負は、3レース目で既にかなりの差が出来ていた。今のレースで大穴狙いがかっちり嵌って、蓋を開ければ私の大勝だった。

ひひ、と笑いを零しながら馬券を数える。ざっと1000万くらいかな。そう思いながら馬券をパラパラと送る。隣からはブツブツと次のレースに出走する馬の名前が聞こえた。

「ねえ、甚爾くん」
「あ?んだよ、俺は今どの馬に―――」
「甚爾くんの1日っていくらで買える?」

そう言えば、甚爾くんの言葉がぴたりと止まった。少しだけ甚爾くんからぴりりとした空気が漂う。これって殺気っていうんだろうか。

「あ?」
「あんたの1日、いくらだって聞いてんの」
「5本」

即答だった。5000万か。まあまあいい値段だなと思う。
相手の懐具合の見極めて、なおかつ自分の価値を分かった上で吹っかけて来てる。常にそういう駆け引きを繰り返している人特有の手管が、その一言の中に凝縮されていた。

「は?たっか。まあ、いっか。甚爾くんの1日、私に買わせてよ」

その一言に、私を見る甚爾くんの目から感情が抜け落ちた。重苦しい空気が漂う。

賭けだ。
私はこの一言に私の人生を賭けた。甚爾くんがちゃんと私に買われてくれれば私の勝ち。そうでなければ甚爾くんの勝ちだ。なんてことはない、これからの人生の話。勝てば天国、負ければ地獄。
賭けるものがデカくなければ、得るものは小さいままだ。私の今日の、人生の大一番は間違いなく今この瞬間だった。

お互いに視線を逸らさないまま、少しの空白が落ちた。
甚爾くんから立ち上る気迫に手が震えそうになるけど、ここで弱いところを見せるわけにはいかない。
賭けに必要なのは流れを掴むほどの引かない姿勢だ。仕掛けた以上、絶対に掴んでやる。今までしてきたどんなレースよりも、血が沸騰するようだった。
どれくらい、睨み合いが続いたんだろうか。

「―――これで勘弁してやる」

甚爾くんはその仄暗い表情をうんざりとしたものに変えて、ため息と共に一番上の馬券を攫って行った。今日一番配当額の小さな馬券だ。
張り詰めていた糸が緩んで、ドッと肩から力が抜けた。どうやら、私は賭けに勝ったらしい。内心でバクバクと音を立てる心臓を落ち着けていると、甚爾くんがその整った顔を仄暗い愉悦に歪めた。

「……で、俺は何すりゃいいんだよ。―――お前の親でも殺せば満足か?」
「遊園地行こう」

途端にげんなりした顔を見て思わず声をあげて笑った。約束はちゃんと内容を聞いてからじゃないと。凄んだところを台無しにしてごめんね、と言えば頭をはたかれた。




一度見てみたかったものがある。
学校の友達が話していた、夏休みの家族との思い出に出てくるきらきらとした世界。私の親はとんでもない賭け狂いだったから、いつも行くのはパチンコか競馬場かのどちらかだった。

皆の言う遊園地のジェットコースターも、混雑した海水浴場も、鬱蒼としたキャンプ場も私には未知の世界だった。それを見れたら私は、ちゃんとした普通の幸せに納得ができるだろうか。普通の家族の、普通の幸せに、人生に。たとえそれが親の敷いたレールの上だったとしても。

「満足したか」
「ぜんっぜん!」

パシャリ、と暗くなった夜の海に足を浸けて、波を弾いた。冷たい海水が肌に沁み込むのとは裏腹に、私の言葉と気分は底なしに明るかった。

「だろうな」
「楽しかったけどね。初めて行くとこばっかだったし」

遊園地。ゲームセンター。キャンプ場。海。あの日クラスメートたちが見せたきらきらとした世界。そのほんの一端。
遊園地ではジェットコースターだけ乗る。クレーンゲームの商品を1個だけ取って終わらせる。水族館のイルカだけ見て帰る。海に行く。

ありもしない思い出と理想を巡っていた。人から見たらお金を捨てているようなものだと思う。
それでも、甚爾くんはなんだかんだ文句を言いながらも付き合ってくれたし、何も言わなかった。だからこそ、私にははっきりわかった。

「でもさ、なんか満足できないや。やっぱ、こういう普通って性に合わないのわかったよ。あと甚爾くんがああいうところ破滅的に似合わないのも」
「雇用主じゃなけりゃ俺は今頃お前を海に突き落としてんな」

はは、と軽く笑い飛ばす。甚爾くんは絶対やらないでしょ。知ってるよ。優しいところなんてひとつもないけど、それでもお金と自分のルールは守る人だからね。

当たり前だけど冬の海には海水浴をしている人なんて誰もいなくて、私と甚爾くんだけが波の音だけが響く海水浴場に立っていた。

「私、あの家ぶん殴って来るわ」

甚爾くんは何も言わない。ただ私を砂浜からじっと見ていた。

「やっぱ色々考えて、金も権力もある、「普通」の幸せな女の子になろうとしたけど無理。あいつらの言う人生なんてまっぴらごめん。私は縛られた普通の幸せより、何もなくても自由がいい」

結局、甚爾くんはあの日尋ねた自由の価値を教えてくれることはなかった。この人も、たぶん何かに縛られて生きて来た人なんだろう。
身軽で自由に見えても、心のどこかにまだ鎖を飼っている。それがは私がこの選択肢を選んだから見えて来た甚爾くんの深淵の先だ。

「お姉とも話した。甚爾くんが言う賢いの意味が分からなくて。……甚爾くんの言う通り、私が馬鹿で何も見えてなかったよ。お姉はお姉で戦ってた。医者になって見返して、あんな家根絶してやるんだって」

今まで黙って家に従っていると思ってたお姉とも話をした。
あの人はあの人で戦ってた。金も、権力も、全部使って欲しいものを手に入れてから全部壊してやるんだって。
お姉の狂気染みた執念はちょっとだけ怖かったけど、お姉がそうやって戦うなら私だって欲しいものは自分で手に入れないと。そう思った。

「医者にはなれると思う。けど、それは私の戦い方じゃないから、私の方法であの家に喧嘩売って来る」
「へえ、どんなだよ」

初めて甚爾くんが興味を持って聞いてきた。少しだけ、雰囲気が柔らかくなったのは気のせいだろうか。

「決まってんじゃん、札束で横っ面叩いてやんの!勝ち馬に乗り損ねたって思わせてやる!」
「やっぱお前は相変わらず人の心捨ててやがんな」

そう甚爾くんが笑いながら言ったとき、特大の波が押し寄せた。素知らぬ顔で去っていった波は、私のコートの半分くらいを濡らし、さっきの場所から少しだけ近づいた甚爾くんのズボンの裾をも盛大に濡らしていった。真冬の海に、濡れた男女がいる。なんだかそれがおかしくて大声で笑った。

2人で寒いと言いながら国道沿いのドンキで安い服を買って、ちぐはぐなコーディネートにまた笑って。朝が来ると同時に始発の始まった駅から、それぞれ別の電車に乗った。
電車から見える海面がきらきらと輝いている。さっきまでの暗い海はもうどこにもなかった。

それ以降、甚爾くんには会っていない。



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