スタートダッシュの落ちこぼれ

くそめんどくせえヤマがようやく終わった。
雑魚術師のわりに術式だけが厄介で、妙な結界と合わせて解くまで山ン中に閉じ込められた。出てきたときには既に1か月が経っていた。

しばらく野宿は勘弁だな、つーかまず風呂に入りてえ。 そう思いながら随分前に引っ掛けた女の元に転がり込んだ。
久しぶり、と表情を緩めるくせにどこかよそよそしい態度を見せる女を見て、外れ馬券を買ったような気分になる。もうそろそろこいつも潮時か、と早々に風呂と飯を済ませて玄関に向かえば、女が見送るように着いてきた。

「じゃあな」
「……あなた、随分と変わったのね」
「あ?」

女のそんな言葉に、思わず声が漏れた。初めて会ったときとは比べられないほど上手く品性の皮を被るようになった女の、ころころとした笑い声が玄関マットの上に転がる。

「前はそんな顔しなかったくせに。誰か特定の人でも出来たのかしら」
「んなのいねえよ」
「ふふ、そういうことにしておいてあげるわ。それじゃあ、さようなら。元気でね、私の猫さん」

急かされるように扉が閉じられた。ち、早々に追い出しやがってあの女。まあ、飯まで食えただけでも良しとするか。
妙にくさくさした気持ちで歩き出したはいいが、背中に張り付く後味の悪さが消えなくて舌を打つ。思い返すごとに女の全てがいちいち気に障った。

染み込んでいたはずの煙草の臭いが消えていた。いつの間に小さな靴が増えていた。年季の入ったわりに綺麗に磨かれた角張った黒い革靴が玄関に並べてあった。
どうしようもなくこみ上がってくる何かに、気づけば濡れた髪もそこそこに飛び出していた。

気付いてないのね、と歪められた女の瞳がちらつく。何が言いてえのか理解が出来なかった。
いや、理解なんざする必要はねえか。もうここに来ることはねえだろう。そう思いながらアスファルトで舗装された道を歩く。

どうしてか、思い出すのはあのアルコールに浸された空気と生意気な声だった。




「……お前その顔どうした」
「殴られた」
「そうかよ」

そう返せば、いつもの席に座った苗字は黙ったまま手の中の馬券を遊ばせた。いつもならけらけらと笑う声も、俺の馬券を覗き込もうとする生意気なやりとりもない。ただ、苗字はゲートに大人しく入っていく馬をじっと見ていた。しばらく見ねえうちに妙に大人しくなりやがって。調子狂うだろうが。

そう思いながらも、少しずつ色褪せていく芝に目を向けた。
めんどくせえことには首は突っ込まねえと決めてる。どう考えたって何かあったし、どうせ親あたりに不良娘と殴られたんだろう。
どうしても聞いて欲しいっつーんなら勝手に喋っとけと思ったが、苗字は何も言わない。ならこっちから聞く必要はねえ。

喚く野太い声と同時に馬が走り出した。いつもならそれなりに動く心臓が、今日はどういうわけか鈍い。馬の蹄の音に紛れて苗字の呟きが聞こえた。

「……聞かないんだ」
「めんどくせえ」
「とーじくんらしいや」

はは、と乾いた笑いが零れた。ガキに相応しくない、何かを堪えた窮屈そうな顔だ。一瞬抱いた既視感に、胸の奥に何かが燻った。なんだ、と考えても答えは出てこねえ。

俺とは違って、普通の家の、普通のガキで、興味半分でこっち側覗いてんだろ。いつ死ぬとも知らねえで、戦場で暢気に突っ立ってるような能天気なガキだ。俺の持っていない物を、全部持っているような、どこにでもいる、普通の。

「……親にさあ、殴られたんだよね」

苗字がそう零したのは馬が直線に入る前だ。蹄が強く地面を蹴る音がここにまで聞こえてくる。馬券の先頭に書かれた数字通りに入ってくる馬の番号と馬券を見比べる。合ってんな。このままいきゃ結構な額になる。
それなのに金が手に入るレースよりも、湿り気ひとつない乾いた苗字の声に意識が持っていかれた。

「来年受験なんだからちゃんとしろって。こんなとこにいるから成績も下がってて。芋づる式に学校行ってないのバレてさ」

出席日数もギリギリで。反抗したら怒られた。
そんなどこにでもある話だ。下らねえ。むしろお前の親父は普通だろうよ。娘がこんなとこいて頭のワリィ方法で金を稼いでるなんざ、泣いてくれっつってるようなモンだ。

だからこいつはガキなんだ。面白半分に大人の世界に首を突っ込んで、怒られて、適当に流しときゃいいのにわざわざ反抗して。自分で面倒事増やすあたり救いようがねえ。そんで落ち込んで誰かに話を聞いて慰めて貰おうってか。
自業自得だろ。慰めて、可愛そうって言って貰えりゃ満足か。そんなん、なんで俺がしなきゃなんねえんだよ。俺が。これ以上何が欲しいんだよ、お前。

まともな親も、家も。全部持ってんだろうが。

「私とお姉さ」
「あ?」
「貰われっ子なの。元の親は借金こさえて蒸発。で、今の親が医者なんだよね。血は繋がってないけど」
「オイ、同情なんざ―――」

突然始まった身の上話に舌打ちを零す。金が貰えりゃいくらでも聞いてやるところだが、金を払う気配なんざねえし、なにより腹が立った。聞いてやる道理はねえ。そう思っていたのに、出て来た言葉を聞いた途端席を立つ気力が失せた。

「うちは代々医者の家系なんだから、お前も医学部に行くのは当然だろ、って。そうじゃなきゃ用意した男と結婚して優秀な遺伝子を残せって。寒いギャグだと思ったわ」
「……姉貴はどうしてんだよ」
「ちゃんといい子に医学部通ってるよ。2浪して裏口だけど」

ああ、くそ。腹立つ。
少しでも同じだと、安堵している自分に腹が立って仕方ねえ。苛立ちをぶつけるように、口を開くと同時に馬が3馬身の差をつけてゴールに飛び込んだ。

「なら、お前は馬鹿で、姉貴は賢いな」




少しずつ、競馬場の周りの桜の葉がダイワスカーレットのように赤く色づいていく。私はというと、このひと月とんと姿を見せなくなった甚爾くんのことばかり考えていた。
なんで私があんなおじさんに、と思っても競馬場であの黒を探す視線は止められなかった。

なんだ、今日もいないのか、と気付けば日にちを指折り数えていた。空白の隣の席にも、5枚のチャーシューの内1枚を押し付ける相手のいないラーメン屋も、全部がぽっかりと抜け落ちていた。甚爾くんと会う前に戻っただけなのに急に心臓に穴が開いて、秋のような少し冷たさを増した風が吹いた気がする。

どうしたんだろ、私。なんだか調子が狂ってる。ま、いいや。今日は結構大きいレースになるから、一発勝ってその札束でまた甚爾くんを殴ってやろう。そう思っていた。

「いってきます」
「名前、話がある。来なさい」

朝、玄関で踵を履きつぶしたローファーに足を突っ込んだところで、養父からの冷たい視線に射殺されるまでは。




結局、頬の腫れが引かないまま、私はしばらく振りの甚爾くんに会うことになった。こんな顔見られたくないと思っていたのになんの因果か、甚爾くんはひと月前と変わらず黒い服のまま現れた。流石に私の顔を見てぎょっとしてはいたけど。

そんなことより。なんでこうなったのか話をした。つまらない独り言だ、なんとなく聞き流してくれればいい。その程度だったのに、心の底から軽蔑するような視線で馬鹿呼ばわりされるなんて思ってもいなかった。
突然横っ面を殴られたような、少しだけ裏切られたような気がして思わずその勢いのまま言葉を走らせた。

「――は?なんでお姉の方が?あいつの言いなりになってんのに賢いわけ?」
「賢いだろ。地位もある、権力もある、普通じゃ手にはいんねえモン、手に入れられてんだろ。お前みたいに無理矢理法を犯してまで手にいれてる奴とどっちが正しいんだよ」

正論だった。そんなこと分かってる。こんなことしない方がいいに決まってるのなんて分かり切ってる。でも私は嫌だった。正しいとか、正しくないとか、賢いとか馬鹿だとかそんなのどうだっていい。理由もなく家の決められた通り生きるのなんて私はまっぴらごめんだ。

「なんで?お姉みたいに親の顔色伺って生きて、なにが楽しいの?価値ある?」
「価値の話じゃねえよ。そんだけの頭も、持ってるもんもあんだろうが。楽な人生全部捨てる必要ねえだろ」
「楽ってなに?人生って楽じゃないといけないの?楽になるためなら、全部我慢できるの?」

楽しくもないことにこにこ笑って、自分にはこの人生が正解だったんだって、言い聞かせるように生きていく。優秀な遺伝子を残すことが絶対で、それを果たさなければ価値がないと言われても。そんな反吐の出る地位も権力も、どうして捨て難いものと言えるんだ。

「ねえ、甚爾くん」

そんな、私の人生を、幸せ、価値を勝手に決めつけることだけは、この人にして欲しくなかった。

「自由のために全部を捨てるのって、そんなにいけないこと?」
「……知らねえよ」

そう言って甚爾くんは立ち上がった。もうこの話はおしまいだ、そう言わんばかりに背中を向けて歩きだした。離れていく背中がいつもよりも狭く見えて、なんだか寂しくなった。けれど、続いた言葉に少しだけ息をのんだ。

「俺が、知るわけねえだろ」

小さく落とされた言葉は、どうしてか私には甚爾くんが自身に言い聞かせてるように思えた。結局、甚爾くんはそのまま振り返らずに階段を登って行った。私が、甚爾くんに感じていたこれは、もしかして。そんな淡い期待が駆け巡る。
大きな手からひらひらと馬券が宙を舞って落ちる。3連単の3つ目だけが違う数字を刻んでいた。急に価値を失ったそれを見て、心がざわめく。

違う。

私は、私も、甚爾くんも、こんな外れ馬券じゃない。



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