8.7光年先の6等星


この、声。

心臓が痛いほど大きく鳴った。

ぐるぐると頭が回る。そんな、なんで。なまえの声が。いつもの、水色の傘じゃない。そうか、だから分からなかったのか。水溜まりを割る足音に、はっとする。なまえが俺の横を通って、その場を離れた。

傘に隠れて見えなかったのか、俺と気付くことなく通りすぎたその姿を振り返ることもできなくて、固まったように立ち尽くした。傘で隠された横顔はついに見ることができなくて、なまえがどんな表情をしてるのかわからなかった。なまえも、傘に隠れた俺に見向きもせず、雨の中に消えた。

それまでなまえがいた方を見れば、黒いユニフォームを着た姿に、内心でああ、やっぱり、と心が冷え込んだ。

「……あんた。みょうじの」
「……君は確か」

確か、なんてあやふやなこと言ったけど、忘れる訳がない。そして向こうも俺のことをはっきりと覚えていた。
なるほどね、と言いながらそいつは首から下げたタオルでガシガシと髪を拭った。

「みょうじのことですよね」

思わず心臓が波打った。図星を刺されて眉間に皺が寄る。

「フラれましたよ。あっさり」
「……随分、すっきりしてるんだね」
「まあ、分かってはいたんで。俺の自己満みたいなもんです、正直」

そいつはそうと言うと困ったように眉を寄せながら笑った。
その言葉に少しだけほっとした俺がいる。よかった。なまえはこいつのものじゃない。

「もう、あいつには笑っててほしいんで。それに、俺はあいつも、あいつの周りも変えちまったから」

変えてしまった、というのはきっと中学の頃のことを言ってるんだろう。山本さんに教えてもらった、なまえの過去。確かに、こいつがなまえの全てを変えてしまったのかもしれない。

でも、なまえに同じ思いを寄せる身として、全てこいつが悪かったと思わない。俺だって、溢れてくる好きという思いを止める術を知らないから。そう、思っていたら。
バチが当たったんすよ、と自嘲めいた声が聞こえた。思いもしなかった言葉に少しだけ驚いた。

「みょうじが、そう言う目にあってること知ったとき、俺、少しだけ、ラッキーだ、って思ったんすよ」

は。と言葉にならない声が出た。こいつ、なんて言った?
ラッキーって、自分の好きな子が、あんな目にあったのに?

「告って、フラれて。なんかみょうじの周りの空気が変だなってのは分かってた。でも俺のせいで、なんて信じられなくて。孤立していくあいつにも、悪いとこあったんじゃねーか、って、みょうじのこと信じてやれなかった」

なまえの元気が無くなっていくのを見て、ヤバイなって思った。大丈夫か、と声を掛けた。上辺だけ優しくして、本当は何もしなかった。いつか周りに誰もいなくなったら、俺を頼ってくれるんじゃないか、そんな汚いことばっか考えてたから。

心配だ。大丈夫か。支えたい。頼られたい。振り向いてほしい。俺が。俺を。俺に。

大丈夫かという心配と、好きな子を手に入れたい欲が交錯する。ほんの少しだけ、欲望が勝ってしまった、と悔しそうに語るその目には紛れもない後悔が滲んでいた。
そしてその欲がなまえの全てを壊してしまった。そんなつもりじゃなかった、と思っても遅い。

山本さんが怒る理由が分かった。クズで最低な野郎だ、と俺も思った。腹の底から、怒りが上って来るという感覚を、俺は生まれてはじめて知った。

だから、出てきた最低なんですよ、という声に同意した。でも、とさらに続く。

「最低だ、って自己嫌悪する俺を置いて、いつの間にか、みょうじは自分で立ち直って、自分で歩いてた。そこに俺なんか1ミリもいなかった」

少しだけ寂しそうにそう言うそいつに、怒りがおさまらない。当たり前だ。なまえの中にお前がいる資格なんてない。最低だと思った。

―――でも、もし同じ立場だったら。俺はどうしていたんだろうか。なまえの事を全て信じて、孤立してもなおなまえの味方でいれるんだろうか。手入れに入れたいという欲を、俺は抑えられるんだろうか。

「いつまでも罪悪感で動けない俺を、みょうじはあっさり見破って。そんでハッキリ振られましたよ」
「……何て、言ってた? なまえは」
「えぐ! 失恋の傷抉るとかあんた鬼だな……」

確かに。俺だってフラれた直後に聞かれたら人でなし、と罵るぐらいはするかもしれない。でも俺にとってはどうしても聞きたかった。

なまえが何を思ってるのか、なまえが何を感じたのか。なまえが知りたい。他人の口からでもいい。どんなことでも、とそこまで考えて、心がざわついた。

この狡さは、こいつと同じなんじゃないか。同じことを、していないと言えるのか。結局、俺は、俺のことしか、考えてないんじゃないか。
悪いけど、という言葉にはっと思考が引き戻される。

「最後の、俺とみょうじだけの思い出だけなんで。教えねっすよ。―――すいません。勝手なこと言います。みょうじのこと。お願いします。みょうじを変えたのは、あんただと思うんで。俺がこんなこというのも、おかしいですけど。でも、みょうじのこと、お願いします」

頭を下げたそいつを呆然と見るしかできなかった。やめろ、そんな真っ直ぐに俺に向き合わないでくれ。違う、なまえを変えたのは、俺じゃなくて。もっと、強烈な。俺ごときでは、届かない先の。

結局、俺は何も言えずその場を去るしかできなかった。

いつの間にか空は晴れ渡っていて、水たまりには雲ひとつない夏の空が広がっていた。
水面に映る自分の顔を見て、思わず水たまりを踏みつぶした。

消えてしまえ、こんな思い。

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