28℃の激情
みょうじ、となまえを呼ぶ誰かの声がして、思わず2人で振り向いた。どこかの学校の制服を身に付けたそいつは、ぽかん、と驚いたようになまえを見ている。どうやら知り合いらしい。
人目を気にしてかなまえの手が、ぱっ、とシャツから離された。…少しだけ名残惜しい。
目の前にいるのはなんの変哲もない学生だ。不良でもなければ、嫌な感じもしない。ごく普通の学生。身長のせいだろうか、少し小さく見えて、まだ1年生だろうな、と思った。そいつは、本当に偶然出会った友達に声を掛けた、そんな気安さで名前を呼ぶのに。
なんで。そんな顔するの、なまえ。
なまえとどんな関係で、なまえがどう思ってるのかはわからない。でも、ぽろり、と落とされた声が聞いたこともないくらい、震えていたから。
半歩前に出て、なまえの視界からそいつを隠すには充分な理由だった。
「やっぱりみょうじじゃん。学校行ってんのか、…って、あー、なるほどね。お邪魔でしたか…」
何かを察したかのような言い方にカチンと来て思わず睨みつけた。そもそもお前が声を掛けてこなければよかったのに、と思ってもどこ吹く風だ。
どこの部活か知らないけど後輩教育がなってないんじゃないか、と不遜な態度を崩さないこいつの学校の先輩に一言言ってやりたくなった。
何処通ってるの、部活入ってるの、と質問攻めにするそいつになまえがぽつぽつと答えていく。いつもみたいな笑顔のなまえは居なくて、嫌な予感が募っていく。胸に渦巻くざわつくなにか。その正体がわからないまま会話に入ることも出来ない。
中学の同級生らしいそいつとなまえとの会話が一緒途切れた。漂った空気に、嫌な予感がした。
「――な、みょうじ。俺、まだお前のこと」
「ちょ、やめてよこんなところで…!」
「こんなとこだから、だっつーの」
そう言って俺にちらり、と視線を寄越してきた。
こいつ、わかってやってる。なまえを見る熱量が明らかに高いからだ。そしてこの態度。喧嘩売られたな、と自分の額に青筋が浮かんだのが分かった。ハッキリ言う。気に食わない。
「ちょっと、何言ってんの…?」
「こっちの話。あ、そうそう。今度俺試合出るんだ、見に来てくんね?」
そう言って、そいつは試合の日程と開催場所を伝えてくる。都大会だと言うその試合。意外にも強豪校に所属しているらしいそいつは、なまえを誘い始めた。その日、部活はない。
「な、なんで私、なの…」
「だって、俺まだちゃんと伝えてねーもん」
真剣な表情になまえが沈黙した。ぐ、と二の次を告げなくなったなまえが、なにかをいう前に、そいつがにかり、と笑った。底抜けに明るい笑顔と、強く真剣な目。俺の知っている、なにかとダブった気がして、ぞわ、と背中が粟立った。
「それに、みょうじの応援がいい。みょうじの応援じゃなきゃ、意味ないから」
そんな、の。俺だって、一緒だ。
俺だって、なまえに見ていてもらいたい。なまえじゃなきゃいやだ。
やり場のない思いに、ギリ、と掌を握りしめる。マンガみたいに爪に手が食い込むことはない。セッターだし、指先のケアは万全にしているから。勝つために大事なことだと分かっているのに。
自分の掌にすら爪痕を残せなくて、今はなんだか情けなかった。
「俺、絶対点とるから。お前が見てるって思ったら、いつもより調子良くなって、勝てる気がするから。…スタンドのどこにいても、ちゃんと見つけるから。…じゃあ、待ってるな!」
そう言って人混みに消えていった背中を、なまえは見えなくなるまで見詰めていた。聞きたくない。けど、聞きたい。聞いて、俺はどうするんだろうか。
「行くの?」
「や、…、どう、ですかね」
聞いたことを後悔した。
煮え切らないなまえの答えに、思わず苛立つ。身勝手だって、分かってる。なまえに当たったってしょうがないことぐらい。でも。行ってほしくないんだ。
それなのに、引きとめる理由がなくて、どうしていいかわからない。行かないでくれ。なまえが応援しなきゃいけないのは、梟谷のバレー部だろ。
本当は余所見なんてさせないくらいに、夢中にさせたいのに。俺の力では足りないなんてことは、俺が一番知っている。
木兎さん、なら。
あの強烈な光なら、なまえを繋ぎ止められるのだろうか。分かっている。俺は木兎さんじゃない。木兎さんみたいになれはしない。あの、ヒーローみたいな、背中には俺はなれない。
そんなこと、俺が、一番知っている。
悔しい。情けない。好きな女の子を振り向かすことも、繋ぎとめることも、俺にはできない。そう突き付けられているようで。
腹の底からこみ上げてくるどろどろした感情。表に出しちゃいけないことなんて、分かっているのに。止まらない。だめだ。止まれ。止まってくれ。
「自分のモチベーションぐらい自分でコントロールしないと。じゃないとレギュラー定着なんてしないよ」
余裕がなくて、ついキツい言い方になってしまった。
ぐちゃぐちゃの心を整理する間もなく、ぽつりと溢した言葉。情けない顔をしているのを見られたくなくて、明後日の方向を向きながらそう言うとなまえがぽつりと呟いた。
「……、そう、ですよね。誰が見てたって、関係ないですもんね」
「みょうじ……?」
一瞬漂った空気に、違和感を得る。いつもと違う、聞いたことのない声。名前を呼んだ瞬間におーい!という聞き覚えのある声。見失ったはずの部員たちが、俺たちに向かって手を振っていた。タイムリミットらしい。
「あ!探しましたよ先輩!」
「おお〜みょうじ!楽しんでるか?」
「はい!とても!」
そう言って皆の輪の中に入っていくなまえの後ろ姿を見る。焼きそばを食べられて怒っている。可愛い。すかさず副主将が肘で俺をつついて、耳打ちをしてきた。
「どうだったよ、赤葦?」
「ああ、うん……幸せだった」
「いやもうお前早く告れよ」
そう。なまえと一緒に夏祭りに来れて、はしゃぐ声も、眩い笑顔も、裾を掴むいじらしい姿を見れて。幸せだと思ったのに。なまえがふと溢した言葉と表情ばかりが頭に残る。
なんなんだろうか、拭いきれないこの違和感は。
そうは思っても、部員たちと楽しそうにしているなまえに問うことも出来なかった。