なんてたのしい21.5世紀
『及川さん、私、U-15選ばれました!』
そう言って、名前が連絡してきた。おめでとう、と口から出てくる言葉には、何の感情も篭っていなかったのが自分でも分かる。喉がからからに渇いて、少しだけ声が掠れた。
ごめん、名前。
俺、全然、おめでとうなんて、思ってない。
醜い嫉妬だってわかってる。
俺の後ろを立ち止まって泣いていた子は、自分だけで立って歩いていて。気づいたら俺が名前の背中を見ていた。いつの間に、と思った。同時に、なんで、とも思った。
名前が輝いて見えて、俺がくすんでいるように見えて、ひどく惨めだった。
心のどこかで、いつまでも抜かれないと思っていた。抜けないと。それくらいにはぐずぐずの名前を見てきたし、その姿を見て少なからず優越感に浸っていた。
この子は、俺が支えてあげなくちゃ、立って歩けない。
なんて勝手なことを考えていた。ひどく傲慢で、でもそうであってほしいという俺の浅ましい願い。
それがいつの間にか名前の背中を追っている。休みの度に、会うたびに成長していく名前。自信をつけて、歩いていく背中は誰が見てもバレーに真っ直ぐで、強い人間のそれだった。
諦めたい。
諦めたくない。
ここが限界だ。
おれはまだやれる。
これが才能の壁だ。
俺に、才能は、
ぎり、と、噛み締めた奥歯が嫌な音を立てる。才能は、俺には、ない。セッターとしても、プレーヤーとしても。きっと本物には遠く及ばない。努力を諦めたくなる。もうここまでだと足を止めたくなる。でも、俺は俺に期待したい。なのに、それを信じられない。
なにかに縋りたかった。
散々名前に言ってきたことが、今さら全部自分に返ってくる。
どうしたらいい。どうしたら、名前みたいに真っ直ぐでいれる。
自主練の分だけ手に残る痺れは、いつの間にか取れなくなっていた。そんなタイミングがいくつも重なった。
何度挑んでも越えられない壁。後ろにいると思った存在の背中。下から突き上げてくる才能。
遠くなる、コート。
そんな最悪のことがいくつも重なって、史上最大のスランプに陥った俺は、案の定後輩へ当たるっていう最低なことをしたわけだけど。なんやかんやあって、俺は岩ちゃんに体当たりで気づかされてなんとかメンタルを持ち直した。
ただ、嬉しそうに報告してくる名前の試合だけは、どうしても見ることができなかった。
変な意地を張っているうちに、名前はどんどん世代代表として結果を残していって、ますますメールの返事も遅くなる日々。しょうがないじゃんか。見たくないんだって。誇らしいけど、同時に悔しくもあって。どうしていいかわからなくなる。
練習の合間に岩ちゃんがそういや、と零して俺に最近の名前の話をしてきた。うっ、聞きたくない…。
「…及川、名前の試合見てんのか?」
「名前ちゃんの試合ね…見てないけど…」
「は?なんでだよ、見てやれよ。すげーぞ、あいつ」
絶対に見ろ。岩ちゃんにそう言われて渋々動画を探す。嫌なんだよね、本当に名前が遠いところに行ってしまって、俺がいつまでも届かないって思い知らされるから。
ネットで調べたから、結果は分かってる。中国戦、セットカウント追い詰められてからの逆転。ウェブサイトの片隅にあったその試合を押すと、画質の悪い映像が流れ始める。フルゲームの動画なんてないけど、ダイジェストで見ても、その内容にはっと、息を呑んだ。
放たれるサーブも、スパイクも、トスも。そのフォームの、試合の組み立てた中に。
俺がいる、と思った。
名前が放つサーブのフォームは本当に俺にそっくりで、ゲームの組み立て方も、まるで俺と似てて。攻守の緩急も、スパイクの力強さも、俺と岩ちゃんが教えたこと。
コートの中に、俺たちがいる。
ぞくぞくと背中が震えた。名前がサーブでノータッチエースを決める度に、あの3人で練習した体育館が甦る。ああ、これ、なんていう感情なんだろうか。まるで、3人で戦ってるみたいだ。なんで今まで見なかったんだろうか。
くそ、もっと。もっと、俺のフォームで、プレースタイルで世界と戦う、名前が見たい。
それに、俺も、あんなバレーがしたい。
才能もなにもかも、どうだっていい。
ただ、目の前のボールを追いかけたい。トスを上げたい。ただ、それだけでいい。
気づけばアップロードされている全部の試合を見ていた。絶対見ろ、といった岩ちゃんがなんでそう言うのか分かった。引き込まれる。巻き込まれる。名前のプレーはそういうプレーだ。そして多分、俺と岩ちゃんは普通の人よりももうすでに深いところにいる。
次の日、部活に行った俺の顔を見て、岩ちゃんが珍しく真剣な目をして俺を見た。
「あいつの中に俺らがいる。俺らの中にも名前がいる」
そういって、岩ちゃんは拳を突き出した。いつも3人でやってるおまじないみたいなそれ。
「だから、こんなとこで負けてる場合じゃねーぞ」
名前に。才能に。努力に。
自分に。
「そうこなくっちゃ…!」
自分の期待には、自分で応えてやる。
ぐっと握って岩ちゃんと合わせた拳は、ここにいない名前の分も含めて、いつもより少しだけ強かった。
名前のプレーに元気づけられて、岩ちゃんと前を向いて。俺たちも不器用な名前にエールを送ったりして。順調だと思った。大丈夫だと思っていた。
だから。
『―――でも、勝てなきゃ…意味ないんですよ』
「どうしたの…?名前ちゃん、なんか…」
『…すいません、なんか弱気になってました!元気ですよ!及川さんはどうですか?というかマッキーさんとまっつんさんって誰です?』
「そうそう、高校の部活メンバーでさあ――」
この時、俺は自分に精一杯で。
名前がどんな気持ちでいたのか、俺には全く分からなくて。
気付いたら、名前との連絡は少なくなって行って。
それでも俺たちは牛若に負けて、青城へ進学して。世界はどんどん進んでいく。
高校2年になって、新しく後輩が入ってきた。リベロへ転身したセッターに、ふと名前の影が重なった。そういえば最近忙しくて、きちんと連絡をしていなかったけど、どうしてるだろうか。
気付けば、名前との連絡は、2ヶ月も途絶えていた。まあ、きっと名前のことだ。きっと元気にやっているだろう。インターハイ特集に名前が載れば様子はわかるはず。そう、思っていたのに。
「岩ちゃん…名前ちゃんの名前、どこにもない」
気付いたときには多分、何もかもが遅かった。
「お、及川さん…」
だから。そう目の前で焦る名前を見て迷いなく手を取った。久しぶり、なんて表面上はいつも通りを装ったけど、にじみ出るオーラまで隠す術を俺は知らない。
どこかに行ったと思った名前は、やっぱりここに帰ってきていて。本当はよくないはずなのに、よかったと思った。まだ、捕まえられるところにいる、まだコートに戻れるところにいる。
だから、ねえ、もう逃がさないよ。
今度は、俺が名前の背中を押す番だから。もうどこにも行かないで。俺たちと同じところにいて。
ここまで、コートまで、ちゃんと戻っておいで。